ポリポリコレコレというアレ

 お前たち少数派を俺たちが許可してやるから、俺たちの許す範囲で自由にやれよ! その外に出たらぶっ殺すぞ!

 と、いうのが現代の流行りであるポリコレだのLGBTの本質ではないかと思う。つまり、少数派だったり普通でないものを見下して、自分たちの回存在出る限りは存在を許してあげようじゃないか、である。

 はたしてそれのどこが多様性に富んだ社会なのか。と思うのが普通だろうが、この考えを唱えだしたアングロサクソン系の人々はそんな疑問はまったく持ちはしないだろう。

 そもそも、彼らは生まれた時から一神教の世界で生きている。一神教とはたとえばキリスト教であれば、キリスト教の教え――神だけが正しくて、他の教えや神が認められない、つまり、許せない性質を持っている。

 もちろん、過去の歴史におけるような厳格なものではなくなっているだろうが、それでもやはり、一神教である限り、他の神――教えを認可できないのである。だからこそ、キリスト教世界では、キリスト教に否定的であった過去の時代の教えや建造物を破壊したのだ。そういうものを許するわけにはいかない、と考えてしまうのが一神教の本質だ。これはキリスト教の元ネタでもあるユダヤ教でもそうだし、反対勢力とも言えるイスラム教でも同じだ。もっとも、イスラム教は歴史においては限定的にキリスト教を認めていたこともある。イスラムの寛容と言われた一部の地域だけではあったし、逆にキリスト教の王である神聖ローマ帝国皇帝の支配地域でイスラム教が許容されたこともある。

 だがここで注目すべきは、どちらの教えにおいても許されはしたが、火急市民として扱われていた、という事実だ。イスラムの寛容の下でキリスト教徒は生存と思想の自由が許されたが、社会的立場のある人間には決してなれなかったし、税金を余計に取られた。キリスト世界においても、それはあまり変わらなかった。

 現代の多様性を許可しよう、という発想はそういう世界で歴史を紡いできた人々が唱えたものである。だからどうしたって、本来の意味での多様性の肯定ができない。そもそも、多様性が存在してこなかった世界から生まれたそれが、正しく機能することなどありえない。

 だから現代でもその思想は歪であるし、同時に、それを利用して利益を得ようという発想が生まれる。多様性の肯定よりも個人の利益の追求をするのは決して間違いではないが、本来の意味でのそれが機能していれば生まれることのなかった発想ではあるのだから。

 では正しい多様性の肯定とは、どんなものだろうか。

 歴史を遡れば、全盛期のローマ帝国ではそれが成立していたと言えるが、その中でもユダヤ教徒は自分たちを少数派として特別扱いしないと反乱を起こすことがあった――その教えから生まれたキリスト教というものは、どうしたって自分たちの特別扱いを望んだ。ローマ帝国後期、キリスト教が公認されてからキリスト教徒の優遇が始まり、国教となってからはキリスト教徒でないものはローマ市民ではない、とされたくらいだ。その流れに反旗を翻した皇帝入るのだが、彼は背教者――キリスト教の教えに背いた者として、悪として断罪された。キリスト教徒ではなかった皇帝を、キリスト教徒の教えに従属しなかったからキリスト教の教えに背いた者だ、というのは冷静に考えると論理が破綻しているのだが、多数派となった少数派は過激な存在になってしまいがちだ。

 現代の多様性の肯定は、こういった価値観を下敷きに生まれた。当人たちに問えば否定するかもしれないが、あくまで、多数派である自分たちが認めてやった価値観の存在を許してやる、という傲慢な思考から生まれたわけだ。はたしてそれが、多様性の肯定になるのか。

 その答えは、それを提唱し始めた人々を見ればわかるだろう。

 ちなみに、今日では大っぴらに認められていないにせよ、キリスト教においては、白人種こそが人であり、黒人などの有色人種は人ではなく、神の作った人のための道具である、という価値観が存在していた。だからこそ、白人はその道具である黒人がイスラム教という、異なる価値観を持って自分たちに反抗して、滅亡への引き金を引きかけた彼らを許せず、植民地化して徹底的に虐げたのである。
 もちろん、イスラム教徒だってキリスト教徒を奴隷にして使い潰した過去はあった。だが改宗すれば、少なくとも奴隷にはしなかった。それくらいの慈悲は持っていた。キリスト教はイスラム教徒の改宗をほとんど認めなかったし、そもそも、存在を許すことができなかった――時代もあった。というか、彼らはキリスト教徒同士でも争い、隷属をすることがあったのだし、魔女狩りなんていう、市民のストレスのはけ口を作った同じキリスト教徒同士、同じ白人同士ですらも殺し合ったわけである。
 イスラム教は、教えの解釈の違いで殺し合うことはなかったが、それでも領土の取り合いはしたし、内乱だって頻発した。それゆえに教えの純度が増して、現代では過激派の存在してしまうほどになった。

 ともあれ。

 そんな歴史を持つキリスト教徒、イスラム教徒からは本来の意味での多様性の肯定は生まれない。彼らは、肯定してやっているんだから隷属化しろ、と言っているようなものであるし、そこから生まれる利益を得ている人たちは、そんな俗っぽいことをしていると指摘されれば、少数派だというだけで無制限に自分たちを肯定しない人々を非難する。自分たちが多数派の奴隷であることを自覚しているからこそ、その指摘に対して彼らは怒るしかない。人は自分が奴隷であることを認めたくない生き物だからだ。

 本来の意味での多様性の肯定を成し遂げるには、類まれなる高貴な精神が必要であり、同時に、それを常態化するだけの歴史の重みが必要になる。はたして、俗世の人にそれができるのか。あるいは、できないという事実を認めて素直に撤回する勇気を持てるのか。一度得てしまった既得権益を捨てる勇気が持てるのか。

 そんなことができる超人がいるわけがない。
 と、叫ぶ人はいるだろう。自分たちが俗人であることを誰よりも端的に証明しながら、自分たちは俗人ではないと叫ぶ彼らに未来の舵を任せてしまっていいのだろうか。
 無論、彼らはそんな疑問を持つことさえも許せないのだろうが――

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?