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数学について

気づけば、今読んでいる数学書にはもう数字が出てこない。出てきても、0か1か2か、せいぜい3である。そもそも0とは何か、1とは何か。1+1=2と同じ要領で3421+6579=10000が計算できるのは感覚的にわかる。我々のやっている計算にはいくつかルールがあって、それを言語化して並べてみると、実はこのルールはあのルールがあれば必要ないな、そのルールはつまりそれとそれを一般化したものだな、といった具合にルールを絞っていける。そうやって厳選された、普段我々がやっている計算だったり数学に必要最低限のルールたちは何なのかを考えていく。

数学基礎論なんてやらなくても、現に、数学のおかげで東京からヘルシンキまで飛行機が空を飛んでいるし、数学のおかげでインターネットを使ってヘルシンキからも東京にいる家族や友達と喋れる。それでも数学の「基礎」を探求しようとするのはなぜか。ヒルベルトは、数学の基礎づけには「人類の尊厳」がかかっているとまで言っていわゆるヒルベルト計画を進めた。計画は、ゲーデルの不完全性定理によって「失敗した」と一般には受け止められたが、その意志を継いで証明論の研究を進めた日本人数学者が竹内外史だった。

例えば、Aを仮定するとこんな嬉しい結果が得られて、Bを仮定すると今度はこんな美しい結果がわかる、しかしAとBは矛盾しているという状況がある。直感的には、AとBのどっちかが正しくて、どっちかが間違っているはずだと思う。高校まで教わってきた数学はそういうものだった。どんなにそれっぽい推論でそれっぽい答えを出しても、数学的に間違っているからと、バツをつけられることがある。しかし、そのAの嬉しい結果もBの美しい結果も、どっちも数学的には正しい推論で、どっちかが間違っていることは証明できない。こういう世界を考えていると、本当に混乱してくる。

上の写真はヘルシンキ大学のエレベーターである。こういう古い大学で数学をやっていると、よそからすれば高尚で難解そうな学問をやっているように見える。実際そう見えたから数学に傾倒し始めたところもあるだろう。しかし、指導教官曰く、一部の天才を除いてほとんどの数学者は定石通り研究するだけ。それが数学者の仕事である。

ヘルシンキ大学には世界的にみても大規模でアクティブな数理論理学の研究グループがある。彼らが、特権的な学問を楽しんでいるかといえばそんなことはなく、大事なのは「ロマン」を追いかけているということだと思う。文字通り一生を数学の基礎づけに尽くしている人たちだ。今の僕には、彼らの仕事っぷりをロマンでしか説明できそうにない。

数字が出てこないその数学書だが、途中で本当によくわからなくなって、何が分からないのかもよく分からなくなってしまった。そこで、自分がわかっていることを整理して、一つ核となる問いを中心に考え直して、指導教官である"ロマンチスト"に話した。すると、鋭い指摘で、なるほど自分の問いが別の簡単な問いに換言されることに気づかせてくれた。その「一部の天才」に自分が入っているのか聞いてみたいところだ。

とにかく数学にはロマンがある。ハーバード大学の哲学者Peter Koellnerが、プトレマイオスとコペルニクスの「火星の不思議な動きの説明」を使って、矛盾するがどっちもそれらしいAとBについてうまく例えていた。太陽と地球と火星が一直線に並ぶ前後で、地球から火星を観測すると、背景の星々の動きに火星だけが逆行しているように見える。この逆行運動を説明するモデルとして、天動説の範囲でうまく説明を試みたのがプトレマイオスで、地動説で説明したのがコペルニクスである。どちらもそれらしいが、少なくとも片方は間違っていることになる。そして、時間をかける中で、さまざまな観察結果から後者が正しいことが証明され、今学校で教えられている。数学における矛盾するAとBも、研究が進めばどちらかが否定されるかもしれない。あるいは、それを超越するさらにメタ的な理論が成立するかもしれない。そんな"コペルニクス的ロマンス"を求めて数学を続ける。

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