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余命の存在を認識するとき人は何を感じるのか

子宮頸がんかもしれないと言われたのは7月のこと。
仕事は体力勝負だし、多少の夜更かしは日常茶飯事、好きなものを好きなだけ好きな時に食べる生活をしていた私にとって予想もしていないことだった。いや、誰にとってもそうだろう。

仕事は?
結婚は?
子どもは?

あらゆる「どうしよう」が頭の中を駆け巡った。
でも、起きてしまったことはどうしようもない。今私が生きたいと思う人生を生きるしかないのだ。

不思議なことに、「人は誰でもみな死の時を迎える」ということの実感を、私はそれまで知らなかった。
少し前に祖母が亡くなったばかりなのに。
その時には確かに悲しかった。
でも、それは自分自身の死を認識したのではなく、大切な人を失う悲しみだけを実感したのだ。死を自分ごとにするのとは全く違っていた。

死の先に私はいなくなること
やるはずだったことができなくなること
死を迎えるのはずっと先だと思って無為に過ごす時間に甘んじていたこと
…とにかく私は、死を実感していない=生きることに危機感がない状態だった。

そのことに気づいた時、不思議なことに、嫌なことはぜーんぶ手放して楽になろう、とは思わなかった。
むしろ嫌でも「私が」やるべきことはやる、しんどくても思わずやってしまうことがたくさんあることに気づいた。
死を認識するということは自分本位になることへの自分だけの正当性を獲得するようなものだと思う。

実はその後精密検査を受けて、まだ黒とは判定されていない宙ぶらりんの状態のまま5ヶ月が経った。
残念ながら、と言うべきか、5ヶ月も経つと診断を聞いた時のショックを忘れてしまうのが人間である。
自分がやりたいことをやるという当たり前のことを忘れかけていたことをふと思い出したのでnoteに書いてみた。

来月再検査なので結果はまた記すことにするが、生きることを充実させる程度には自らの人生の終わりに対する認識を持って生きていきたい。


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