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春の前夜に、

これが最後だと思いながら貴方のもとへ行く。これが最後だと分かりながら、貴方と最後のお別れができるなんて なんと幸せなんだろうと頭では思ってるし、声にも出して言い聞かせてみせるのに頬がどんどん濡れて、そこに夜風が当たってつめたく感じた。

幸せだなんてそんなのどれだけ言い聞かせてみせてもだめで、やっぱり貴方との最後だと思うとそれは何よりも寂しい。悲しい。貴方に話したいと思うこと、知って欲しいと思うこと、私にはまだまだこんなにもあるのに、それをもう貴方に伝えることが出来ないかもしれない。

こんなに好きだなと思ったのはいつぶりだろう。

初めて会ったのは、知り合いが働いていたお店。私が座った席の二つ隣に座っていたのが貴方だった。異性の扱いが慣れていそうで、話が上手で、それでいて同い歳なのに少し大人びていた。こんなことを言うと気持ち悪い感じもするけれど、初めて見たとき、どこかで会ったことがあるような気がした、知っているような気がした。恋人の有無だとか、連絡先だとか、自分からなんてほとんど聞いた経験がないのに、気がつけば聞いていた。いや、そうしなきゃいけない気がしていた。

そんな貴方は、小学生のように笑う人だった。貴方が笑うと何かが弾けるような気がした。そしてそんな貴方は、私の話に耳を傾けて、私という存在がここに居ていいと許してくれるような瞳で見つめてくれる人だった。食の好みはとても合うし、一緒にいると心地が良かった。

こんなに合うな、心地が良いなと思える相手には、これからどれだけ会うことが出来るだろう。出来ることなら、貴方を貴方たらしめる様々をもっと知りたかった。貴方が少し見せてくれた弱いところも抱き締めてちゃんと眠りたかった。

距離が少し離れていてよかった。どうせできない気持ちの整理を、二割程度して貴方に会える。これが最後だと、そうわかっている最後でよかった。貴方がそういう人でよかった。そう思った。

少しばかりの後悔があるとすれば、貴方に会いたいと思った分だけちゃんと会いたいと伝えればよかった。貴方の素敵さを私の言葉のすべてをもって、もっと伝えればよかった。これはとても烏滸がましいけれども、貴方がこれから何かあったときに、私の言葉がどこかでなにかの支えになればいいと思う。

考えてみれば、こんなにも言葉をもらったのは初めてだった気がする。私に頼るわけでもなく、隣にちゃんと立っている人。私が気づかなかった言葉を、くれる人。貴方の視点、これまでのこと、それら全てが紡ぐその言葉が私はこの上なく好きだった。すとんと心に落ちてきて、そのままとけてしみていくのに 消えることなく 穏やかな香りを纏ってるそれ。春みたいな貴方の言葉が好きだった。

貴方の声も好きだった。褒めると「いや、これは乳液の匂いかな…」といつも言うその香りも全部好きだった。私は気がつけばこんなにも貴方を好きだった。

そんな貴方と、これが最後だという別れができる。それがどれだけ幸福なことか。それがどれだけ恵まれていることか。曖昧な関係はいつかは終わらせなくてはいけないし、私だって曖昧なままは嫌だった。それでも、この曖昧さの中にだけ貴方がいるのだとしたら、曖昧は曖昧なままでいいとさえ思った。

「あれが最後だったんだ」という別れがこんなにも多いこの世界で「これが最後だ」という別れができる私。最寄り駅から待ち合わせの駅までの電車の中で、涙が止まらなくなりながらも 私はこのこの上ない幸福を噛み締めないではいられなかった。

こんなふうに大切にしたいと思える相手が、貴方でよかったと心の底から思った。貴方に会ったら私は泣いてしまうだろうか、声が震えてしまうだろうか。最後まで貴方が褒めてくれた可愛い私でいられない自分が、少し私は情けない。

貴方に会ったら、泣いてしまっても声が震えてしまっても、たとえ上手く言葉にならなくても、ちゃんとありがとうを伝えよう、そう思った。




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