生きてる世界はどこにありますか
「API呼び出しの回数制限を超えました」
Twitterのタイムラインにそんな文字が現れて、人のツイートはおろか、自分のツイートすら見れない状況となった。
すぐに国中がパニックとなり、誰も見てない中で、皆今の嘆きを呟いていた。
意外にもTwitterのない世界は気が楽になれた。正確に言うと、みんなも今目の前の世界と向き合っているなら、僕も目の前の世界と目いっぱい向き合おうと思えたのだ。
ひとりでいることが多い僕だったが、その日、3人の人と会うことになっていた。
noteで知り合った初対面の人と、仲のいい友達2人だ。
「なんかTwitterが大変だよね」
僕がそう言うと
「なんか、そうらしいね」とか、「らしいね〜、私は最近使ってないから」とか「へぇ、そうなん」とか、まるでTwitterで生きてない人たちの反応だった。僕は少し面食らった。ほとんどの人が、Twitterをやっていて、Twitterにしばられていると思ったからだ。
そんな彼らとその日僕はたくさん話した。
「走馬灯ってあるじゃん?そんな死ぬ前に思い出すような光景が今までにいっぱいあったし、これからもあるんだろうと思う」
僕は初めて会う女の子にこんな気持ち悪くてオチのないことを言いながら、この光景もそうなるのかもしれないと思った。
その子と解散して仲のいい2人と乾杯する。僕たちはたくさんの話をした。
「俺の考察としては〜」
「考察系YouTuberか!」
と訳のわからない考察系のノリが生まれて、僕たちはそれを何度も繰り返して笑い合った。
その後カラオケに行って、ウルフルズのバンザイやスピッツの空も飛べるはずをみんなで歌った。
「バンザーイ!君に会えてよかったー」
「君と出会った奇跡が、この胸に溢れてる」
僕は少し後ろから2人の後頭部を眺めながら歌った。泣きそうだったし、とても幸せに感じた。これもきっと走馬灯になる。
僕はいつも孤独に感じていたが、そうじゃないと思えたし、何より人が好きだと思えた。そんなことを思えたもんだから僕はこの日、今日死んでもいいとさえ思えた。
生きるとか幸せとかって、きっと今日みたいな愛する刹那を積み重ねていくことなんだと思う。
あのとき走馬灯とか意味のわからないことを女の子に語ってしまったけれど、僕は本気で言ってたのだと思う。
家に帰ってTwitterを開く。
ツイートはまだ見れない。
僕は幸せなまま死ぬように眠った。
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