読書記録 九段理江 悪い音楽

九段理江 悪い音楽
文學界新人賞受賞 41文字×17行×82ページ=57154文字以下

本としては文藝春秋発行のschoolgirlに収録されている。

主観的というか、毒のあるブラックユーモア的な文体が基本であり、主人公の内面における冷徹さ、感受性の乏しさを描いているのだが、僕はむしろ多くの人間はこうやって脳内では冷たさというか、サイコさを持っているのではないかと思ってしまった。
一度目に小見君と現すのに、二度目に少年と現し、小見君の母親からその女と現すのはその主人公の冷たさを現すのにすごく練られている気がした。
主人公の境遇、父が有名な音楽家であり、自分は中学校の音楽教諭ということからも、こういった人格を形成する要因になり得るのかもしれないとは思ったが、これだけではそれを決定づけれないことに主人公の不気味さというか、こわさを生む。

文章的には主人公の内面というか心情に関する描写が多い。音楽と心と感受性、芸術などがテーマではあると思う。
ところどころでネットフリックスや米津玄師などしっかりと固有名詞を入れるのは時代を反映する上で真似したいと思った。

構成的にはよく練られてあり、日記的に起きたことが関係なく並べられたかと思えば、それらが絡み、最終的に主人公の不気味さや冷徹さを表現しているように思う。ただ僕は主人公をそこまで冷徹な人間と思えなかったのは、僕自身が冷徹なのか、人間をこれくらいと認識してしまっているのか分からなくてこわくなった。

最も心に残っているは友人サエとの会話の「アデル、ブルーは熱い色」(フランス映画)のところだった。サエはこの映画の主人公(レズビアン)のセックスシーンが長く露骨であり、後に女優のレアセドゥが苦痛だったと言及したこと対し、ひとりの女性の精神的苦痛を通過して完成した作品が、結果的には称賛されて、パルムドールを受賞したという現実があり、そんな映画は最初から存在しないほうがよかった。とまで言い切った。(サエはアーティスト)
僕は前々からうっすらと恐れていたのは人間の持つ残酷性だった。これは創作をしている自分自身にも言えるが、世の中が称賛する創作物の中にはマイノリティだったり、弱者を物語の中に生み出すものが多い。なんなら物語の中で人を殺す必要があるものもある。
少しサエの話とはズレてしまうが、レズビアンではない人がレズビアンではない人にそれを演じさせ、レズビアンってこんな苦しみがあるよねと、そうでない人が称賛するならば、これほど残酷な世界はないのではないだろうかと思っていた。(レズビアンに限らず、『苦』を創作することに対して)
今は世界が割と混沌としているということを受け入れているし、マイノリティな様々な人がいて、色んなことに苦しんでいる人がいて、人格というのは多種多様で、色んな境遇の人の心情を想像する機会を、作品が与えてくれていると思っている。(もちろん作品をつくる上で俳優に苦痛を与えるのは納得してない)

サエとの会話に戻る。主人公が私が悪い人間なら私の音楽が信頼できなくなるかサエに聞く。このアーティストと作品というところも物語の核になっている。2人は切り離して見るべきだと結論付けるが、結果的に主人公の冷徹さから作品とその人間性を切り離すのは容易ではないのではないかと思う。対比として描かれている女生徒の横田かのんは逆に、心が連動して音楽になっていると考えるタイプであるように思えた。

だらだらとあれよあれよと書いたが、純文学という文学が、「私はこう思う」というものではなくて、「あなたはどう思う」というものであることが少し分かってきた気がする。


調べた語彙
・ファムファタル…男にとっての「運命の女」

・かいがいしい…動作などがいかにも手際よくきびきびしているさま。

・ディグる…発見する。掘り起こす。

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