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友だちだった神さまへ

 彼は神さまと友だちだった。神さまが友だちなのだと、少なくとも幼い頃の彼は信じていた。
『次は――』
 ガタゴトと揺れる電車の中にスピーカーから流れる車掌の声が響く。目的の駅が近づいたことに気付いた男は、網棚の上に置いていた鞄を手に取った。窓の外からは沈みゆく太陽の光が差し込み、彼の顔を照らしている。
 懐かしい景色だ。くたびれた身体を手すりに預けながら彼は思った。もう三十年経ったのか。窓の外に流れる景色に頭の中に残っていた風景と重ねる。電車が進むこの街は、かつて彼が両親と一緒に住んでいた街だ。オレンジ色に染まり始めた空と住宅街。線路と並ぶ道路では、母親と手を繋いだ少年が手を振っている。放課後に夕飯の買い物に行ったあとなのだろう、昔あそこにいた自分のように。
 ずっとこの景色を眺めていたい。かけた願いは叶うことなく、駅に近づくほどビルの影が視界を包み、夕焼け空を隠していった。現実へと引き戻され、彼はぎゅっと目をつぶる。そうだ、ここに来たのは窓の外に思い出を描くためではない。行きたい場所がある。

「ああ……懐かしいな」
 道路に面した小さな公園。奥に見える石の階段。その先で生い茂った木々の隙間から顔をのぞかせている、大きな赤い鳥居。彼の記憶に残っていた場所は、今もその姿のまま彼を待っていた。ヒーローの真似をする子どもたちはスーツで公園の前に立つ彼に視線を向けたが、次に瞬きをするときには目の前に立つ怪人役に視線が戻っていた。
 彼が神さまと出会ったのも、ちょうどあの子どもたちぐらいの年齢だった頃だ。
 彼の視界に思い出が重なり始める。アニメの中のヒーローなりきる子供たち。友人たちと駆け回る彼。そして一緒に笑っていた神さまの姿を、彼は思い出す。
 白いワンピースを着て麦わら帽子を被った少女、だったと思う。夏の夕焼けを一緒に眺めた姿が、記憶のアルバムの中に残っていた。公園に集まった近所の知らない子どもたち。その中の誰も知らなかった少女。神社の下にあるこの公園で遊ぶときには必ず現れるその少女を、僕らはいつからか神さまと呼んでいた。
 まだここにいるのだろうか。もしいるなら――。
 彼は公園の奥に向かう。赤い鳥居を見上げ、神社へと続く石段を登り始めた。

 鳥居の下をくぐるときには、彼の後ろにはすっかりオレンジ色に染め上げられた空が広がっていた。振り返った彼は夕暮れの街を眺める。友だちと眺めた景色を、今は一人で。
 思えば遠くまで来たものだ。
 近くにあったベンチに座り缶コーヒーの蓋を開ける。広かった公園は狭くなっていた。長かった階段は短くなっていた。子どもたちが放つヒーローの必殺技も、彼には見えなくなっていた。
「何してるんだろうな」
 言葉が勝手に口から漏れる。彼の瞳には幼かった自分の影が映っていた。
 ここで一緒に遊んだ彼らも、神さまと呼んでいた少女も、今何をしているのか分からない。かつての友人だけではない。自分が何を目指して生きているのかも。
 何か大切なものを忘れてしまった気がして、それを知る誰かに会おうとして、けれどここには誰もいない。
「どこに行きたかったんだっけ」
 あのとき幼心に夢を見ていた場所は、どこかに置いてきてしまったようだった。

 木の間から差し込んだ夕陽の光が瞳に刺さる。彼は顔をしかめた。階段の下から響く子どもたちの声。帰る時間が来たらしい。
 昔はこの時間が怖かった。光が薄れる夕暮れ時、引きずり込まれそうな暗黒が訪れる時間が。今では道が暗くなるだけの時間だ。恐れるようなものじゃない。事件や事故に巻き込まれないように生きていればいい。口裂け女はもういない。
 風に揺らされる木々の音だけが神社を包む。空き缶を片手に彼は立ち上がった。
 鳥居の先で真っ赤に燃えあがる夕陽。きっとこの景色を見るのは最後になる。
「さようなら、神さま」
 精一杯の笑みを浮かべた彼は、かつてそこにいた友人へ言った。彼女もきっとどこかで元気に生きているだろう。あの日僕らが夢見た幻想ではない、知ってしまった世界の中で。
 鳥居の向こう側に見えていた太陽も今日の仕事を終え、空も段々と紺色に塗り替えられていく。もうすぐ闇が来る。
 僕も帰ろう。どこにも行けない満員電車に乗って。
 夢でいっぱいだった公園に背を向け、彼は歩き始めた。

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