小さな頃の話

暴力表現を含みます。それでもよろしければ少し読んでくださると幸いです。

私は2人姉妹だ。2個上に姉がいる。私は知的障害とまではいかないが、知能が健常者より劣っている境界領域知能。姉は発達障害。2人共障害者手帳を持っている。

そんな私と姉は小さな頃から高校生にかけて親から日常的に暴力を振るわれていた。今だったら児相案件だろう。それでも、平成の10年代くらいは児相も発達障害もそこまでだったため、我慢するしかなかった。

母親はとにかく自分の思い通りにならないと、すぐ癇癪を起こして、暴力を振るう人だった。殴る、蹴るは当たり前。泣いて謝っても許してくれない。鼻血が出ようが、お腹を蹴られて息が出来なくなろうが関係なかった。何度も死ぬと思ったくらいだった。それでもお構いなしだった。階段から蹴られて落とされたこともあった。それでも母親は殴った後に心配をしてくれたことなんてなかった。私は人の輪に入るのが苦手で、それが出来ないとものすごく怒られる。そうしてまた怒られ殴られ、そんな日々だった。

テストの点が悪い日、無くし物をした日なんて最悪だった。怒鳴る、殴る、蹴る、どこが悪かったのか言わされる、そこで気に食わなければまた殴られる、蹴られる。そんな日々だったと思う。私は殴られるのも蹴られるのも当たり前だと思い始めていた。

姉も私と同じように殴られたり蹴られたりしていた。姉のほうが酷かった。たまたま卵のパックを落としてしまい、卵が割れてしまったのだが、謝ったにも関わらず姉を蹴り飛ばしたのだった。姉はピアノの角に頭をぶつけて気絶。そのとき眼鏡が飛んで床に落ちたのだが、母親が心配したのが気絶した姉ではなく、眼鏡の心配だった。少し経ってから気が付いた姉に向かっては「早く学校に行け」の一言。今思い返せば頭がおかしいとしか思えない。

父親は暴力は振るわなかった。その代わり、言葉の暴力と、家からの締め出しをする人間だった。どちらも頭がおかしいと思っている。夫婦喧嘩の末にあたられることも日常茶飯事で、私と姉はどこかおかしくなっていたのかもしれない。日常的に暴力は当たり前。ご近所迷惑なんて考えたことなかっただろう。父か母か忘れたが、寒空の下、裸足で外に締め出されたこともあった。とにかく寒かった。玄関のドアを叩いて泣きながら謝っても無視された。20~30分は外に締め出されていたと思う。

前にも書いたが、私は小学2年生の誕生日の日にいきなり殴られて「今年からお前の誕生日プレゼントはない」と言われたことがある。それから本当にもらっていない。今はもう大人だから貰う歳でもないが。その時はただ意味が分からなかった。

毎回殴られる私はすっかり母親がトラウマになってしまった。母親が少しでも大声を出したり、機嫌が悪くなったり、腕を上げるだけで小さい頃の思い出が蘇ってくるのだ。

殺されかけたこともあった。生まなければよかった、お前なんかいなければよかった、そんなことも言われた。生きる理由なんて本当になかった。殺してほしいとも思った。大人になって警察に相談しても、無意味だった。だが、殺されかけたことを言ったときは今すぐ逃げてほしいと言われた。逃げる場所なんてないのに。

私が大人になってからは暴力ではなく、言葉のほうに変わった。馬鹿やアホで済むならまだ可愛いものだ。決してそうではない。遠回しに死んでほしいと言われたこともあった。就職活動をしていてなかなか仕事が見つからなければ「早く見つけてくれないと困るのに」と、プレッシャーになるようなことも言われた。なのに世間体は気にするので、私が職場で体調が悪くなれば迎えに来るような人だ。決して優しさではない。その後怒られるから私は嫌だった。

母親は介護職をやっているのだが、夜勤入りの日は「いるだけで疲れるから家にいるな」と言われて、私と姉は休みと夜勤入りが被るたびに家にいることはなかった。いれなかった。見たいテレビがあっても、テレビすら見させてもらえない。夜勤入りでも何でもない母親が休日の日、私がテレビを見ていたら「いつ貸してくれるの?」と言われた。それからテレビは全く見なくなった。

私が躁鬱になったら「早く手帳取って。お金が安くなる」と言われた。私よりもお金なんだと思った。

そして母親は私が「お前なんか親じゃない」と言ったら「もうお前のことなんて知らない」」と言った。それなのに今では干渉してくる。休みの日に出かけようとすれば「どこまで行くの?」やら「ご飯何食べたの」とか。うっとおしい。最近ではスマホの使い方が分からなければ聞いてくるようになった。自分で何とかしないでやってもらおうとしているのが腹立たしい。


思い出せば出すほど頭が痛いので、ここら辺で終わりにします。

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