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予測とリアリティの関係性を考える #自分ごと化対談(プロ登山家 竹内洋岳氏)Chapter3

※本記事は、YouTubeで公開している自分ごと化対談【政治とリアリティ「下山の哲学」に学ぶいま、日本に必要なこと】について、Chapterごとに書き起こし(一部編集)したものです。

リアリティの欠如は、誤った予測を生み出す

<竹内>
トランプ大統領の話も出てきましたが、最近、予測というのが全然当たらないんですよね。トランプさんの当選、イギリスのEUからの独立。当時はならないと言われながらなっていたり、コロナウィルスの蔓延も当初予測違ったりしている。

加藤さんの著書の中で、世の中の予測というものが、一般の人たちの感覚とずいぶん乖離していることが問題だと書かれているんです。私もそう思うんですけども、アメリカ人の一般の人たちの怒りとかを予測できなくなったのでしょうか。

<加藤>
抽象的な言い方をすると、リアリティのなさが原因だと思います。トランプ大統領が選ばれるか、選ばれないかと予測したり、コメントをしたりするのは、日本では学者を中心にして、いわゆる有識者と呼ばれる人たちですよね。この人たちは現実の暮らしから、すごく離れているのではないか。

だから、数字でもって分析してしまい、結果的に視点が非常に偏っていた。現実はもっと変動しているけれども、一側面からしか見ていないから、正確な予測が出来ない。

例えるなら、この人達が山に登ったら、事故にあって早々に退却か、帰れない人たちですよ。山に登るときリアリティの欠如っていうのは、なによりも怖い。すべてがリアリティですから。

<竹内>
まったくですね。トランプ大統領が選ばれたときのことを思い起こすと、トランプさんにはならんでしょう、ヒラリーさんになりますよ、というのが、ほとんどですよね。

世界的にもそうだった。本人もびっくりしたのではないかというくらい、予測がちゃんと及ばない。リアリティが欠如していたからだと思います。

チョ・オユーでの体験 シェルパの予測と自分の責任

<竹内>
登山、私が経験した山の世界で、リアリティが欠如していたというよりは、人々の行動の予測が、明らかに変な行動だったという経験があります。チョ・オユーに、二回目に登ったときです。その時にすごい天気が悪かった。

ずーっと天気が悪くて、なかなか登山が進まなかった。他の登山隊は、天気が悪いこと、期間が長くなりすぎてしまったことを理由に「今年はもう登れない」という判断をしてパラパラ帰り始めるんですね。

私はまだチャンスがあると粘っていて、天気予報を見て「これなら登れる」という判断をして、ベースキャンプを出ていこうとするんです。そうすると、他の登山隊のシェルパ(ガイド)たちが、私のベースキャンプに来て、天気が悪いからやめろと説得しに来るんです。

上から降りて来たシェルパたちも、上はすごい雪が深くて、お前たちのテントはもう潰されている、危険だからやめろとベースキャンプ中が私のことを説得しに来る。

なぜ止めに来るのか、それがすごく不思議に感じたんですね。私は、自分で行って決める、自分で判断する。お前たちに判断されるつもりはない、と言って出て行ったのですが、みんなすごくしょげているんですよね。

行ってみたら、何のこともなく私たち登頂できたんです。でも他の登山隊は、ガイドが、シェルパが今年はダメだと言ったからってみんな帰った。

下山してなるほどと思ったのは、シェルパ達もガイド達も自分のお客さんに、今年はもう登れない、帰ろうと言っているのに、私が登頂することで、自分たちの信頼がゆらいでしまう。

<加藤>
なるほど。確かにそうですね。

<竹内>
それで止めに来ていたのか?とも思ったんですね。心配してくれたのかもしれないだけど、もしかしたら下心があったのではないかなと思う。

確かにその時に、彼らの言うことを聞いていたほうが楽でした。「彼らが、上はきっと雪が深くて、天気が悪いだろうと言うので、私は登らないという判断をしました」と言えば楽だな、間違いもないとも思った。

だけどそれは、リアリティから目を背けることになると思ったんです。「行くのを止めなさいと言われたから止めた」ならば、反対に「行けと言われて行って、事故にあって死んでしまった」としたら、他人ひとのせいなのか。自分のせいじゃありませんと言うのか。

自分の責任を、命を含めて責任を他人ひとに預ける。それが私にとって一番、自分の命というものにリアリティが欠如したときに起こる状態なんじゃないかと思います。

他の登山隊のメンバーはシェルパにダメだって言われて帰ったけれども、もし行けと言われたら行って事故にあっていたかもしれないですよね。

おそらくそこには、リアリティがない。要するに自分に都合の良いところだけを切り取って判断してしまうんですね。

<加藤>
リアリティということでいうと、竹内さんの本に、危ないかなあと思いながら、10歩ぐらい進んでしまったエピソードがあります。それに対して、今でもすごくおこっている

<竹内>
いまだにときどき夢見て、うなされます。あの時は、自分で見て「やっばい」と思ったんです。思っておきながら、10歩あるいたんですね。

<加藤>
頭の中ではもうこれは引き返したほうがいいと考えていたわけですか。

<竹内>
そこがちょっと曖昧で。見た感じ、あれは雪崩が起きる状況だ、雪崩が起きそうだっていう情報は頭の中にある。だけど、そこから「その状況が自分に対して危険なんだ」という判断するまでに10歩、歩くだけの時間がかかってしまった。

普段は、例えば自転車を運転していて、「危ないと思ったらブレーキをかける」という瞬発的、反射的な動きが起きていると思うんですけど、あの時には、危ないと思っておきながら、ブレーキを掛けるのに時間がかかってしまった。

その情報を頭の中で処理する時間が、なぜ必要だったのだろうか。すごく疑問に感じているんですね。あれは、いまでも時々どうしてかなあと思うんですね。

雪崩が起きてしまったのですが、もしあの10歩の間に…という考えが。

<加藤>
そうですね。1歩がそれこそ命を分ける世界ですから。

<竹内>
なぜ10歩前に、それを見抜いておきながら、判断ができなかったのだろうか。

<加藤>
その10歩のあと、そこは判断したわけですね。

<竹内>
そうですね。たぶん、その10歩の間の中でじわじわと判断したんでしょうね。しかし、見た時に判断できれば10歩分のリスクを減らす事ができた。やっぱり心の中に、ここまで来たのに、とか、またやるのか、という「やめられない」という思い。

やめられないという思いが判断を10歩、先延ばしにしたのかもしれない。

<加藤>
それは、意識してないうちに?

<竹内>
下山をするという判断が出来なかった。10歩判断が遅れたということが、いまでもすごく心残りですね。

<加藤>
竹内さんは10歩のことを今でも悔やんでいる。しかし、いろんなレベルの人がいて、その10歩が、ある人には100歩だったかもしれない。

ある人は100歩どころか、もう行っちゃっていたかもしれないですよね。そもそも状況を見て、危ないとすら分からなかった人…素人には何が危ないか分からない。あるいは、10歩行かずに、その瞬間に行動を変えた人もいたかも知れない。いろんなレベルの人がいますよね。

これは、すべての世界に同じだと思うんです。非常にむずかしいけれども、コロナも同じ。コロナが大変だと言いながら、国によって対応のスピードが違った。対応の手段も違うけども、対応の厳しさも違う。

日本の場合、GOTOトラベルは、結果として、あの時点の政策としては正しくなかったと思う。旅行業者にとって、しんどい期間を長くしてしまった。

やっぱり日本人は、そういったことが「なにか」に流されている。それは人の情報、人の判断、あるいは自分の中の「いやあ、でもなあ」という感情。

私はこの能力というのが、日本人の場合、国全体として下がっているのではないか。トランプに入れた人が正しい選択をしているとは思わない。だけど、いかっているというのはある種のリアリティを前にして、自分も社会も何も出来ないことについての怒りですから。

しかし、日本人は怒りもしないということは、やっぱりもっと手前にいるというか、危険さがね、雪崩があるかどうかということすらも認識していないという感じに見えるんです。

失われる人間の身体性

<竹内>
共通の知人の塩野米松さんに紹介してもらった桶川のいなほ保育園、北川和子先生の話です。最近、通学の子ども達の列に車が突っ込む事故がすごく多い。あれは等間隔で並んでいるものが、車を運転している人から見ると生き物に見えない、壁と一体化して見えるのではないか。だから、そこに寄っていってしまってぶつかってしまうんじゃないか、ということです。

しかしそれ以上に、普通は一人で歩いていたらビクビクして歩く。もしかしたら敵に、何かに襲われるかもしれないという能力が働いて、後ろから車の音がすれば、振り返るとか、身構えるとか、避けるとかする。進んでいく方向が正しいのかどうかとかいうことを、常に動物的な危機を感じる能力を使って色んなセンサーが働いている。

けれども、並んで歩くと、前の人の背中をただ追いかけるだけになるので、危険に対するセンサーがみんなシャットダウンしてしまう。

前の人の背中だけを見ている、もしくは足元だけを見て歩いているから、後ろから車やオートバイが来ても気づかなくなってしまう、という話をしていたんです。

それと同じように、怒りとか、疑問とか、おかしいと思うことを、感じなくなってしまうような社会の仕組みの中に私たちはいるのかもしれない。

<加藤>
ある意味で日本は、すごい平和で、安全で、豊かで、快適で、便利でありがたいんですよね。だけどもその有難さは、ある意味、ツルツルのおかげで。ツルツル世界のメリットをフルに我々は受け止めているわけです。

その結果、生き物としての人間の能力がどこかで下がっているという可能性があるかもわからないですね。

<竹内>
それゆえに怒りというのが沸き立たなくなってくる。ただそれが、日本の中でリアリティをどんどん失わせていく原因かもしれないですね。

<加藤>
リアリティを感じようと思ったら何をすればいいかというところが、すごく大事なんですよね。
私は本の中では「からだ」、身体性しんたいせいと書いている。そう言う意味では、本当に登山というのは、「身体性のみ」みたいな。身体性がなければ判断も上手くいかないじゃないか。

竹内さんが10歩の時に危ないと思ったのは、無数のいろんなところを歩いて登った経験、いろんな状況を判断した経験、それが体のなかに染み込んでいて、それで危険だとか、大丈夫だとかという判断をその時その時にしているわけですよね。さっきの10歩は、それと若干、体が食い違っていたから、いまだに腹を立てているようですけども。

たぶんその元になるものが、体を使わないとどんどんなくなるのではないかと思うんですよね。我々は、ぼーっとしているようで、歩いていると、車の音とか鳥の声とかいろんなものが聞こえていますよね。たぶん体は、そういうものをちょっとずつ考えながら、何かを微調整をして歩いたりしたりしているんでしょう。

ところが、今の世の中はずっとスマホ見ていて、後ろから来ている車の音すらも遮断してしまっている可能性が高いですよね。

<竹内>
よく質問で、恐怖心はないんですか、恐怖心をどう克服するんですか、と聞かれるんですよ。本来私たちは、恐怖心を使って危険を見抜いていく。ですから、恐怖心を打ち消してしまったり、恐怖心なくしてしまうのが一番危ないことなんです。

例えば、私は雪崩に巻き込まれたときに、その後とても痛かったし、苦しかったです。あのことは、まさにリアリティとして私の体に染み付いている。今でも雪の斜面を見ればぞわっとします。

それは、雪崩に巻き込まれたことで、雪崩に対する恐怖心がすごく高まった。雪崩に巻き込まれる以前よりも、それまでは知識でしかなかったのが、雪崩に巻き込まれると死ぬという事を経験したことで、雪崩への恐怖心がすごく高まったのです。

だけどこれは決して打ち消す必要や、なくす必要はなくて、私はすごく高性能な雪崩に対するセンサーを手に入れたと思えるんです。今まで以上に恐怖を感じるし、そこから危険を見抜こうという思いも高まっているんです。

おっしゃるように、私たちは生活の中で危険というのがどんどん見えなくなってきてしまっている。危険性が見抜けなくなり、たぶんそれは、怒りというものやそれに対する疑問がどんどん失われてきてしまっていることと関係している。

<加藤>
そう考えると、人間というのは厄介なもので、人類が生まれて20~30万年前から、人間が出来ないこと、しんどいことを乗り越えようとして、いろんな道具を、機械を、AIを作って、より楽にできるようになっていっているんですよね。

より楽に出来るようになると、さっきのセンサーをどんどん外に出しているんですよね。自分の中に持っている、鍛えれば高度になるセンサーを、センサーそのものを外に出してしまった。昔より遥かにいろんなことが出来るけども、やっている人間の能力というのは、落ちているといえるかもしれない。

だから、サステイナブルといいながら、ある意味では、人間ひとりひとりがサステイナブルから遠ざかっているといえる。真に危険な状況になったら、誰も生きていけないかもしれないという、それが人間のある種の、さがというのか、運命というのか。

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