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長編小説「きみがくれた」中‐①

「白い花の日」


 大雨が降った次の日、満月の夜にその小さな花がいっせいに開いて、野原を一面埋め尽くすんだ。

 その無数の花に月の光が反射して、まるで天の河のように浮かび上がるんだって。

 そこに立つとね、まるで星の群れの中にいるような、幻想的な景色が見れるんだって。


                ◆


 マーヤが行ってしまった翌日、いつものように暗いうちから目を覚まし、部屋の隅へ目をやると、今朝も古いギターケースと黒いナップザックは見当たらなかった。

 ベッドの上のタオルケットに鼻を寄せ、頬ずりをしてから床の上に降りる。

 まだ薄暗い店内には、残されたコーヒーの香りを覆うように甘く澄んだ香りが漂っていた。

 昨日、冴子は珍しく昼間のうちにやって来て、つい最近替えたばかりのテーブル花を全て交換していた。

 黄色や水色で彩られていた店内は、あっという間に真っ白に変わっていった。

“今年もきれいに咲いてくれてよかった”
 冴子は手近の花を見つめ、薄く笑った。

“ありがとう、とてもきれいだね”

 マスターはその“丸いフォルム”の白い花――“大輪のカップ咲きのバラ”を眺めながら、冴子と似た笑みを浮かべていた。

 広げた紙の上に放られた黄色や水色の花に目を留めると、マスターは冴子が紙ごと丸めてしまう前に
“この花たちも飾ろう、捨てるにはまだ早すぎる”と言った。

 まだ鮮やかなその花の山を、マスターは紙ごとキッチンへ運んだ。


               ◆


 霧島のアパートが取り壊されたのは、マーヤが行ってしまったあの暖かい季節よりもずっと経ってからのことだった。
 
 亮介に言わせれば“あれは築60年越えのおんぼろアパート”だったし、“今や森と一体化しつつある”から“いよいよ潮時だった”。

 ”まるで森に呑み込まれたかのように姿を消した”
 亮介は”ただの荒地”で一人そんなことをこぼしていた。

 アパートがなくなった空地には、やがて背の高い草が生い茂り、その片隅でりんごの木はまだ立っていた。

“この木もいつ切られてもおかしくない”

 アパートから荷物を運び出した日、亮介は葉を落とし始めたその木を見上げながらそう言っていた。
 亮介のミニキャブに納まった“これっぽっち”の霧島の私物には、まだ懐かしい匂いがくっきりと残っていた。


「やぁ、お帰り」

 暖かい空気の向こう側で、マスターがトレイを片手に声を掛ける。

 こんな日まで精が出るね。


 お客さんがいないソファ席のテーブルの下でガラスの外を眺めていると、マスターがストーブを持って来てくれた。

「タオルもここに置いておくよ」

 外はどこもかしこも白一色だった。

 カウンターの中に戻ったマスターは、自分のコーヒーを煎れ始めた。


“霧島、僕出発の日決めたよ”

 丸い大きな瞳を輝かせたマーヤがそこにいた。

“何十年かに一度の絶好のタイミングなんだって”

 マーヤはすぐに帰って来るつもりだった。

“今年はスーパームーンなんだって”

“しかも前日は大雨の予報なんだ”

 手を叩いてはしゃぐマーヤの、うれしそうな笑顔がそこにあった。

“きっと史上最高の絶景が見られるよ”

 その時を楽しみに、心を躍らせていたマーヤが

“ついに夢が叶うんだ”

 その期待に胸を膨らませ泣きそうになっていたマーヤが

 幼い頃からずっと、ずっと憧れていた、幻の瞬間――
『地上の銀河』と呼ばれるその場所へ、マーヤはいよいよ行ける時がやってきた――
 
 マーヤが決めた“その日”は、マーヤの予想していた通り“絶好のタイミング”だった。
 そして“未だかつてない絶景”が現れた、“史上最高の日”となった。

“今年の誕生日はこの部屋でやろう”

 マーヤは霧島の誕生日までには帰って来るつもりだった。

“記念にりんごの木を地植えにしよう”

 今はまだ、ちっぽけで頼りない、枝が刺さっただけみたいな苗だけど

“きっと3年もすれば僕らの背よりずっと大きくなって、たくさん花を咲かせるよ”

 霧島はマーヤが帰る頃にこの街へ戻って来るつもりだった。

“ごめんね、きっとしばらくは帰って来ないかもしれない”

 そう言いながら、けれどマーヤは一人霧島の帰りを待っていた。

“すぐに帰るよ”

 マーヤはりんごの鉢植えにたっぷりと水をやり、亮介にその世話を頼んではいかなかった。


 霧島がこの街に戻った時には、マーヤはもうとっくに帰って来ているはずだった。

“念のため、置手紙をしていくよ”
“もしも、僕が間に合わなかった時のためにね”


                ◆


 毎年マーヤが行ってしまった翌日の店内は、真っ白い花に彩られる。
 店内は毎年同じ香りに染められる。


 その日は決まって、午後になるとマスターは店を一旦閉める。


 ニレの木の下で昼寝をしていると、母屋に続く廊下のガラス戸からマスターが顔を出した。

“ちょっと出て来るよ”

 その手には昼間冴子に渡されたあの白い花束を持っていた。

 甘く澄んだ香りは風に流れ、庭をかすめた。


 黒い服を着たマスターは、あの雨の日と同じように見えた。
 よそ行きの髪型によそ行きの表情。


 ばあちゃんの庭で紫色の花が揺れている。


 懐かしい香りが風に運ばれ、昼下がりの中庭をやさしく包んでいた。

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