長編小説「きみがくれた」中‐57

「消失の街」


  翌朝、いつものようにまだ暗いうちに外へ出ると、地面はすっかり乾いていた。
  
 月見山を降りてアパートがあった空地へ戻って来ると、もうほとんど花が残っていないりんごの木の下にマーヤが立っていた。

 緑の葉が風に揺れ、残り少ない薄ピンク色が舞っていく。

「やぁ」

 いつもと変わらないその笑顔は、会うたびに幼なく、あどけない。

 ふわりとなびくハチミツ色に透ける髪。
 木洩れ日を白い頬に受け、こちらを見下ろす優しい瞳。
 カラメル色に透き通った瞳は、けれどどこか淋しげに澄んでいた。

 青いキャップに大き目の青いパーカー、デニムのズボン、そして今年も重そうなネイビーのリュックサックを背負い、登山用の茶色いブーツのズボンの裾はたるんでいた。

「ぼく、もう行かなくちゃ」

 風の中であの日と同じ言葉が聴こえた。


 今年マーヤが話してくれたのは、去年よりずっと少ない思い出だった。
 今年マーヤは中学校へも行かなかった。

 次に会う時、マーヤはどんな話をしてくれるだろう。

“僕がいない間、霧島を頼むよ”

 そう言い残してマーヤがいなくなってから、もう何度この花は散っただろう。


 最後の一片が風に舞う。

 霧島、今年もまた、マーヤは行ってしまったよ。



                ◆
 


 乾いた風が吹き始めた頃だった。
 早朝、アパートの跡地へ行く道で、目の前の景色がいつもと違った。

 りんごの木がない。
 急いでその場所へ行ってみると、葉を落とした枝も、太い幹もそのまま地面に転がっていた。

 それからしばらくの間、りんごの木はそこに放置されていた。

 
 冷たい風が吹き始めた頃、そこは一面灰色に塗り固められた。
 アパートが立っていた敷地は全て、りんごの木の僅かに残っていた根元も、毎年少しずつ数を増やしていたばあちゃんのスミレも、全部その下に埋まってしまった。


 あの場所にも、もう何もない。

 もう何も残っていない。



                 ◆



 まだ暗いうちに目が覚めて、いつもの朝を迎える。

 重い体をゆっくりと起こし、固い手足を順番に伸ばす。

 冷たい空気に身震いし、薄闇の中へ歩き始める。

 枯葉が舞うハルニレ通りを降りながら、周囲を隈なく見渡してみる。
 
 今朝も人影はひとつも見当たらない。

 月見山までの道のりは以前よりもずっと長くなった。
 途中で休む時間は日に日に増える。

 山道はほとんど乾いた草に阻まれて、掻き分けるのにも苦労する。

 やっと目的地に辿り着く頃には、太陽は既に高く昇っている。

 ここだけは今も昔も何もない。

 澄みきった空が広がる野原に、涼しい風が吹き渡る。
 木々の葉音は山全体に響いていく。

 時折突風が空高く吹き上がる。
 風は山を鳴り渡り、山が空へ呼応する。

 ここには今も昔も何もない。

 疲れた体を静かに丸め、目を閉じる。

“きっともうすぐ行ってしまう”

 あれからどのくらい経ったのだろう。


 山を下り、アネモネに立ち寄ると、子供たちの姿は見えなかった。
 店先の紫色の花は大半刈り取られ、中の天井に吊るされている。
 懐かしい匂いに鼻を寄せていると、上から冴子の声がした。

「いらっしゃい、たまには上がって行ったら?」

 ついさっきまでお客さんで“ごったがえしていた”けれど、ちょうど今途切れたところ。
 亮介は10分前くらいに配達に出て、しばらく帰って来ない。
 冴子は“まるで機械のように”手を動かしながら、短くそう説明した。

「あなた、ほんとにそれ好きね」
 マスターの家の庭にもあるでしょう、どっちも絹子さんのお庭から分けてもらったの。

 誰もいない店内で一人忙しそうに動き回る冴子を背に、見上げると目の前の通りの楓並木が延々と真っ赤に染まっていた。

 

 暖かい部屋で目を覚ます。
 
 暗い朝がいっそう暗くなる季節。
 重い体を持ち上げ、部屋の外へ向かう。
 廊下に漂う“夜コーヒー”の匂いはいつもと変わらない。
 店へと降りる踏み台は高く、足を踏み出すのを躊躇する。

 冷えた風に身を縮め、白く凍りつく地面を歩いて行く。
 
  
 薄闇に鼻を寄せ、冷たい空気を掻き分けるように人影を探す。

 エコマートの中はいつの間にか空っぽになっていた。
 店員もいない。
 何もない。

 コンクリートに覆われたアパートの跡地も、今では“森に呑み込まれそうに”なっている。
 りんごの木がどの辺りにあったのかも、もう分からない。

 ばあちゃんの家があった場所も、周囲の景色に溶け込んだ。
 看板は草に埋もれ、どこにも見当たらなくなった。

 月見山への道のりは遥か遠く感じられる。
 あの場所へ辿り着くまで何度も休み、空を見上げる。
 
 重い身体を草の上に横たえて、動けるようになるのを待つ。

 誰もいないこの場所で
 会いたい人がどこにもいないこの街で
 思い出の景色が消えていくこの街で

“僕がいない間、霧島を頼むよ”

 マーヤがそう言い残してから、もうどのくらい経ったのだろう。

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