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「君の唄が聴こえる#2」

「21時」

タンゴは私の仕事を邪魔しない。
定位置はパソコンの左側で、今も体制をくずしくつろいでいる。
にゃぅと鳴けば私の手が自然とその耳の裏に届くことを知っているし、
左側にいた方がその確率が格段に上がることを彼女は知っているのだ。

憧れの在宅ワーク。
夢の猫との暮らし。

るんばは私の仕事の邪魔しかしない。
資料はめちゃくちゃにするし、マウスを触る私の右手に果敢に挑戦してくる。それに、バッテリーのコードを歯磨き用のガムだと思い違えている。
申し訳ないが、るんばだけは私の部屋(勝手に決めた)への入室は禁止にした。

なのに、今なぜるんばが私の膝の上で寝ているかというと、彼が必ずここへ連れて来るからなのだった。


私は普段、ソファの前に置かれたローテーブルで仕事をしている。
私の身体のサイズにぴったりのビーズクッションにまたがってパソコンに向かっている。
昼間も、そして夜も、特に時間も決めずに作業をする。
(在宅ワーク、最高!)

昼間はほとんどこの部屋に一人でいるのだけれど、夜になると様子が変わる。

この状況に慣れるまでかなりの時間が必要だった。

そう、この状況。

私の背中に、今、彼の上半身がのしかかっている。
私のお腹に、今、彼の両腕が巻き付いている。

この状況、私がここに住み始めた初日から続いている日常。

最初は顔から火が噴きまくっていた。

いったいどういう理由があれば、見ず知らずの男が私の体を背後から抱きかかえることになるのだ。
この男はいったいどういうつもりなのか。
嫁入り前の乙女(ということにしておく)になんの断りもなく当たり前のように体をぴったりと寄せてこともあろうか居眠りをするなんてとんでもない暴挙である。
断固拒否!
断固反対!
断固抗議!

顔を真っ赤にして私は沈黙していた。


なにせ自然すぎたのだ。

あの日、初めて会った彼は私の部屋(この家はどこもかしこも彼の部屋なのだが)へ勝手に入ってきた。
そして私とソファの間に入り込み、私の両サイドに長い足を投げ出して座ると、当然のように半身を私の背中に預け、長い腕を体に回した。

「・・は?」

私の抗議はたった一文字で終わった。

頭の中はパニックもいいとこだった。
わけがわからない。

けれど、背中に体温を感じ始める頃には、私の意識は仕事に戻っていたのだった。


それから毎日、彼は夜9時になるとここへやって来る。
暴れん坊きかん坊のるんばを片手に。
不思議なことに、るんばは彼が近くにいるとおとなしいのだ。
だからまぁ、いいか。
私のるんば。
超絶かわいい。

タンゴがここへ来るようになったのは、それからどれくらい経ってからだっただろう。
最初は部屋の隅っこの壁にぴったり体を寄せてこちらをじぃっと見据えていた。
だいぶ時間をおいて、私にひっついている彼の足もとに近寄ってきて、行儀良くお座りをして、少し離れた位置から私をずっと観察していた。

やっとテーブルの上に乗ってきたとき、初めて近くでタンゴと目が合った。
くっきりと切れ長の焦げ茶色の瞳。
美猫という雑誌があったら表紙を飾るレベルの気品。

私は心の中で歓喜の叫び声を上げ、けれどなんてことないそぶりを崩さないよう必死だった。

かわいいねぇ~~!!
美人だねぇ~~!!

そろえた前足触りたい!!
ぎゅうぎゅう抱きしめて頬ずりすりすりしたい!!
お腹のモフ毛に顔を埋めさせてくれ~~~!!

なんて、絶対に気づかれないように。

鼻息が上がりそうなのをぐっとこらえた。


にぁう

資料に目を落としているときは触ってもらえると思っているタンゴがここぞとばかりに喉を鳴らす。

憧れの猫との生活。
最高としか言いようがない。

だけど・・

背中のぬくもりが超重い!!

ガチで寝てるからものすごく重い!!


るんばも寝ちゃったし、こりゃ仕事がはかどるわ。


          ◆


元カノはなぜ、彼と別れたんだろう(別れたのか?知らんけど)。
一日に何度かそんなことに思いを馳せる。


こやつ、後ろ姿だけでもイケメンだしなぁ。

今朝もおいしそうな匂いがキッチンに立ちこめている。
朝ご飯は毎日彼が作ってくれるのだ。
しかも毎日違うメニュー。
しかも超絶旨い。

もしや、どこぞの三つ星ホテルのシェフなのか?
なんて想像できるほどの腕前だ。

昨日はエッグベネディクトを作ってくれた。
よく焼いたベーコンと、アスパラにズッキーニも添えてあった。

今日はなんだろう、手の動きからするとパンケーキかな・・


ここで暮らし始めてだいぶ経つけれど、私は彼がナニモノなのかまったく知らない。
彼は朝10時くらいになるとどこかへ出かけ、夜9時前に帰ってくる。
それだけだ。

彼は音楽をやっていた。
(恐らく)
彼の部屋にギターが置いてあったから。
本棚には古いレコードが大量に保管されていた。

彼は映画が好き。
(恐らく)
リビングの棚に映画のビデオとDVDが(ほとんど知らないタイトルばかり)大量にあった。

彼にまつわるデータは、出会った当初からなにひとつ更新せれていない。

けれど不思議と、それでいいと思えてしまう。
知らなくてもいいし、知ってもいい。
それは彼も私のことを何一つ知らないからかもしれない。

彼は初めて会ったあの日から、今まで一度も私自身について尋ねたことはない。
かといって、知りたくもないといった風でもない。
きっと話せばふぅんと聞いてくれるだろうし、話さないなら知らなくてもいいといった感じだろう。

元カノはこの距離感が物足りなかったのだろうか。
だから出て行った(のか?知らんけど)のかもしれない。


「はい、どうぞ」

猫たちの朝ご飯はとっくに準備されて、彼らはすでにお腹いっぱいのようだ。
リビングのソファに2匹ぴったりくっついて寝転んでいる。

そんな猫たちと同じように彼に朝ご飯をもらう私。
今朝のメニューはフレンチトーストとシーザーサラダだった。
もちろんスチームミルクもりもりのカフェラテも作ってくれた。

なんでこんなに料理がうまいのだろう。

そう思っても、口にしたことは一度もない。

「ありがとう」

代わりにそう言って、私はフォークとナイフを掴んだ。


彼は食事の仕方もきれいだ。
器用にフォークとナイフを操り、お皿の白を汚すことなく鮮やかに食しきる。
この前の具材モリモリのサンドウィッチでさえ、少しも崩さず美しく、するりするりと召し上がっていた。

なんでそんなに器用なの。

そう思ったところで、すぐにどうでもよくなった。

目の前でもぐもぐ朝食を頬張るその様子がなんとも愛しく見えたからだ。

この人が誰であろうと、どうでもいい。
どこで、何をしていようと、どんな人間だろうと、
別にどうでもいい。


タンゴのまねをして、じぃっとその食べっぷりを見つめてみた。

もぐもぐ中の彼は、私の視線に気づくこともない。


ただ、止まっていた手には気づいたらしい。

「?」

小首をかしげ、私を見つめるその顔に、

やっぱ超タイプだわぁ・・

と思いふけっていると、

「足りなかった?」

と、平然と尋ねる。

超かわいい・・

でもこれ本気の顔なんだよなぁ。

「足りないわけないでしょう、これパン何枚分?」

「2枚だけど、俺のもあげようか?」

「足りなくないってば」

「そう、ならよかった」

安心した様子でそう言うと、彼は再びもぐもぐを始めた。


どうでもいい。
彼がナニモノであろうと、なかろうと。

いつも何しに、どこへ行っていようと。

仕事をしていようが、していまいが。

元カノのことも。

今カノがいてもいなくても。

だけど。


それでも、どうでもよくないと感じてしまったことが、たったひとつだけある。

そのたったひとつの、ほんの小さな欠片が、これからどんな風に私を変えてしまうのか・・

イチマツの不安の欠片の、そのまた欠片に、気づかないように

気づかないように

この生活がいつの間にか心地よくなっている自分に
集中する

この部屋が私の居場所であることを

憧れの在宅ワーク

念願の猫との暮らし

そして、私の理想象を具現化したような彼の存在


元カノが出て行った(のか?)その理由にさえたどり着きそうな予感を
今はまだどうでもいいことにしておきたい。

そう思えば思うほど、そうは思えなくなっていくことも
予感ではなくなってきているのだった。




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