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長編小説「きみがくれた」中‐㉗

「夜明け」


 窓の外はまだ暗く、近くで鳥の声が聴こえ始めていた。
 床の上で目を覚ました霧島は、ゆっくりと手足を動かし重い体を起こそうとした。

「―――‥って」
 固まった体はぎこちなく、痛みに顔をしかめた。

「―――!!」

ドゴッ

 すぐ側に気配を感じ、飛び退いた拍子に壁に頭をぶつけた。

「っ痛ぇ‥‥――!」

 片手で首筋をさすりながら、遠巻きにその人影に目を凝らす。

 部屋に漂う甘い香りに気が付くと、霧島は起き抜けの顔をいっそう曇らせた。

 正体不明の物事を整理するように、霧島は四つん這いのまま恐る恐るテーブルに近づいた。

 小瓶に活けられた一輪のバラ。
 ベッドの前で足を投げ出しているのは

「―――‥‥」

 浅く息をついた後、霧島は暗がりの中で改めて辺りを見回した。

 昨日は気が付かなかったふすま側の壁を飾っていたのは、一面に咲き誇る満開の桜だった。

“おはよう”
 ふすまの向こうから顔を覗かせ、満面の笑みであいさつをする。

“どお?”
“これ、スゴイでしょ!”

 そう得意げに笑うマーヤの顔が目に浮かぶ。


「ふぁ~~~ああ~~‥‥っと」

 大きなあくびに両手を広げ、亮介は思いきり伸びをした。

「んーーー~~~んんんーーーっっ‥‥‥っふぅっ・・・・・・・」

 霧島はその豪快な目覚めに冷めた目を向けている。

「っ痛てぇ‥体中がガッチガチだ‥うぉ~~~~!」

 ガラス戸の側で座り込んだ霧島に、亮介は眠そうな顔で「よぉ」とあいさつをした。

「相変わらず早起きなやつだな‥おじいかおまえは」

 その言葉に霧島はいかにも不満そうな顔を亮介に向けた。

「……なんでいんの」

「ふぁ~~~~~ああ~~~あっと」

 亮介はもう一度大きなあくびをして体を伸ばし、硬い体をゆっくり動かしながら腰を上げた。
 そして部屋の中を一通り見渡すと、霧島が見惚れていた桜に体を向けた。

「おまえ、桜とりんごの花びらの違い、分かるか?」

「―――‥」

 霧島はわかるわけないとでも言いたげに亮介から顔を背けた。

「俺さあ、夏目に聞かれたんだよな。桜とりんごの花ってどう違うの、って。同じバラ科だし大して変わんねぇだろって答えたら、それじゃあダメなんだって。俺ぁ知らねぇから自分で調べろっつたんだ。あいつ家に図鑑だのなんだのめちゃくちゃ持ってそうじゃん?」

 亮介は折り紙を切り取って作られた薄ピンク色の花で埋め尽くされた壁を眺めながら、半ば呆れたような笑みを浮かべた。

「あいつさ、その後すぐうちの店に戻ってきてさ――」

“亮介さん!”

“分かったよ!!”

“見てほら、これ!!”

「まるで世紀の大発見でもしたみてぇにさ‥――先っちょが切れてるのが桜で、丸っこいのがりんごだって、すげぇうれしそうに――」

 だから、それは桜だ。

 亮介は正面の“作品”を見てそう言った。

「――で、こっちはりんごの花びら」
 亮介はそう言うとベッドに積もった紙の花びらを一枚取って見せた。

 窓の周りを飾るりんごの木は、緑の葉を茂らせ赤い実を付けている。
 ベッドの花びらはこのりんごの木が花を咲かせ、散った後の様子だろうと亮介は説明した。

「見ろよこれ。全部手作業で切ったんだ。しかもほぼ実物大。すげぇよな‥この量ハンパねぇよ。これ全部、あいつが一人でやったんだぜ。俺たちは何も知らなかったんだ。あいつが一人で全部考えて、全部あいつ一人でここまで‥一体どれだけかかったんだか――」

 亮介はベッドの上の花びらをすくい、手の平から滑り落としながら、部屋全体を見回した。

 窓から差し込む朝日が霧島の身体を優しく包む。
 床に置いた手の端には所々滲んだ血の色と青紫色の痣。

 亮介は霧島の近くに飾られたコルクボードに視線を映した。
 周りを飾る真っ赤なアザミも陽の光にその赤みを増し、鮮やかに浮き上がる。

“あいつらの写真がこれでもかってくらい貼ってあった”

“俺が知らない小せぇ頃の”

 幼い二人のあどけない表情

 秋の写生大会

 小3の遠足

“何枚も何枚も”
“あんなに飾り上げて”

 亮介はその数えきれないほどのスナップ写真を見つめながら、ため息混じりにぽつりとこぼした。

「辛いな――」

“あいつらずっと一緒にいたのに”

“ずっと…ずっと何年も”

“一番近くにいたのに”

「―――こんなの‥‥ねぇよな―――」

 逆光に背を向けて亮介は涙を流していた。

 テーブルの上には、マーヤのお気に入りの花。
 甘い香りの、白い大きな“ふわっとした花。

 

 窓の外は鳥の声も遠のいて、見上げれば空はすっかり青く輝いていた。

 霧島はマーヤの桜を眺めたまま、ぼんやりと涙を流していた。

“仕方ないよ”

“桜が満開だったんだもの”

 マーヤはいつも霧島の側にいて、いつも隣で笑っていた。

「―――俺―――どうしたらいいか‥分からない――――」

 霧島は消え入りそうな声を漏らした。

「何が」

 正面の写真に目を向けたまま、亮介は短く応えた。

「――――もう‥なにもかも‥‥何の意味もない―――――」

“大丈夫だよ”

“霧島なら何にでもなれるよ”


 霧島は壁に寄りかかり、表情もなく涙を流した。


“僕の家で一緒に暮らそう”

“俺はマーヤと離れたくない”


「バカだなおまえは」

 亮介は光の中の霧島をじっと見据えた。

「だからおまえは自覚が足りねぇってんだ」

 ベッドの前に腰を下ろし、亮介は溜息混じりにこう言った。

「おまえ、あいつのことなんも分かっちゃいねぇのな」

「―――――‥」

“おまえは何もわかってない”

“俺のことなんか何も―――”


「なんだそんな“ハトが豆鉄砲”みてぇなツラして」

 亮介は霧島に冷静な視線を向けていた。

「小せぇ頃から10年以上も四六時中いっつもくっついてたわりに、おまえはあいつのことを何もわかってねぇ。今のおまえがその証拠だ。」

「――――‥」

 亮介は呆然とする霧島に浅く溜息をついた。

「俺が説明してやらなきゃ分かんねぇか?」

“おまえがここにいないなら”

“こんなの何のイミもない”


「なぁ霧島、あいつはどんなやつだ?」
「おまえがこんなんなってるの見たら、あいつが何て言うと思う?」

 亮介はスナップ写真を眺めながら、静かにそう尋ねた。

「せっかくこんだけのモンを準備して、おまえのためにコツコツコツコツ折り紙おって、切って、貼って、これだけの作品を作り上げたってのに、おまえ全然うれしくねぇの?」

 何も答えない霧島をしばらく待ってから、亮介は「やっぱりな」とつぶやいた。

「いいか。俺が今更言うことじゃねぇが、仕方ねぇから教えてやる。」

 亮介は体制を変え、あぐらをかくと改めて霧島と正面から向き合った。

 亮介の“こういうカンジ”に霧島は珍しく背を向けず、いつものように“どうでもいい”とも言わなかった。

「あいつがこの街を出たのは、ガキの頃からの夢を叶えるためだ。これまでで一番、最高のタイミングを見計らってあの日を選び、出発した。想像以上の絶景を見れるはずだったし、あいつはそれを心底楽しみにしてた。実際現地に着いてすぐマスターに電話をかけてきたときのあいつはテンション爆上がりで、あのマスターが引くほどだった。」


“予報通りだよ”

“僕うれしくてドキドキしてるんだ”

“きっとこれまでにない史上最高の絶景が見れるよ”


「―――‥‥けど、それは実現できなかった。あいつは目的の場所へ辿り着くことができなかった。あれだけ夢見ていた景色は見れなかった。それにあいつはここでおまえの誕生日を祝ってやることもできなかった。おまえとの約束を守れなかった。あいつはこの先もずっと、叶えたかったことを叶えられない。この先も、ずっとだ。」

「何が言いたいんだよ」

 霧島は鋭い言葉で亮介を睨んだ。

「そんなことわざわざ言うことじゃ――」

「“そんなこと”なんだよ」

「――は?」

「“そんなこと”なんだよ。夏目にしてみれば、自分の長年の夢でさえ、“そんなこと”になっちまうんだ。おまえのことに比べれば。」

「―――‥‥」

「マスターと電話で話してるとき、あいつがあんなにテンション高かったのは、“もうすぐ自分の夢が叶うから”じゃなかったんだ。それが理由じゃなかったんだよ。」


“そんなことより”

“そんなことよりマスター聞いてよ”


「―――あいつ―――‥‥よっぽどうれしかったんだ―――」


“僕ね、すっごいの見つけちゃったんだ”


「おまえがずっと探してたものを、向こうで偶然見つけてさ」


“僕ここに来てよかった”

“本当によかった”


「自分の目的のために来たのに‥長年待ち望んでいたタイミングが全部重なって、遂に史上最高の絶景が見れる‥その直前だったってのに―――」


“今までで一番の最高の誕生日プレゼントだよ”


「―――――‥」


“僕もう今から待ちきれないんだ”


「分かるか。あいつはおまえのこととなると自分のことなんか二の次、三の次なんだ。つかほとんどどうでもよくなっちまう。それが自分にとってどれほど大事なことでも、どんなに価値のあることでもだ。」


“聞いてよ”

“僕ね、すっごいの見つけちゃったんだ”

“これほんっとにすごいから”

“超ウルトラハイパーサプライズ間違いなしだから”


「あいつはそれだけの想いをおまえに‥もうずっと子供の頃からおまえのことを大切に想って生きてきたんだ」

「――‥この手紙。おまえこの意味ちゃんと分かってんのか。」

 亮介はテーブルの上に広げたしわくちゃの紙に視線を落とした。

“僕が間に合わなくてごめんね”

「こんなセリフ、誰にでも言えるもんじゃねぇよ。誰に対しても言えることじゃねぇ。あいつはちゃんと自覚してたんだ。自分がいなかったらおまえが悲しむって、分かってたんだよ。」


“パーティーの準備はしておいたから”


“こんなの全然うれしくねぇよ――――”


「おまえさ、この部屋のデコレーションのイミ、履き違えてんだろ。あいつがおまえの誕生日に間に合わなかったときのために、こんだけのことをしてったと思ってねぇか?間に合わないこと前提で、いわば償いも込めてここまでしたと思ってねぇか?」

“おまえがここにいないなら”

“こんなの何のイミもない”


「やっぱばかだなおまえは」

 霧島には亮介の言葉のどれも意味が解っていないように見えた。

 亮介は霧島の傷ついた拳を目に留めると、呆れたように鼻を鳴らした。

“僕がいなくても”
“楽しい誕生日を過ごしてね”

「あいつはすぐに帰って来るつもりだったんだ。俺にもそう言って出掛けてった。マスターの電話でもそう言ってた。けど向こう行ったら自然相手のことだから、いくらあいつが帰りたくたって帰って来れねぇ可能性は十分ある。だから手紙を書いて行ったんだ。」

「自分が間に合わなかったらおまえが悲しむと思ってな」

「もしおまえの誕生日までに目的が果たせないとしても、あいつはとっとと帰って来ちまっただろうよ。あいつはおまえとの約束を蹴ってまで自分の夢を優先するようなヤツじゃねぇからな。」

「———――?」

「あいつはここに帰って来ることしか考えてなかったんだよ。でも帰って来たくても来れない可能性がでかかった。だからこそ、帰って来てから準備するんじゃなくて、行く前にこんだけやってったんだ。こんだけやってやりたかったからだ。出発の前にたっぷり時間をかけて、この会場を作り上げたかったんだ。」

“いいこと思いついた!”

“霧島、喜んでくれるかな”

“念のため、置手紙をしていくよ”

“もしも僕が間に合わなかった時のためにね”

 
 霧島は亮介の言葉のひとつひとつをなんとか呑み込もうとしているようだった。

“僕がいなくても”

“楽しい誕生日を過ごしてね”

「おまえそれ、あいつが自分なんかいなくてもみんなで楽しくやってよって意味で書いたと思ってるんじゃねぇか?」

“もし僕が間に合わなくても、ちゃんとお誕生日当日にお祝いしてあげてね”


「あいつはここに帰って来たかったんだ。おまえの誕生日までには帰って来るつもりだったんだよ。」

“僕はすぐ帰って来るよ”

“霧島の誕生日までには絶対帰って来る”

「――――‥‥」

“僕今からワクワクしてるんだ”

“霧島、喜んでくれるかな”


「あいつだって、ここでおまえの誕生日を祝ってやりたかったんだ。これを見て喜ぶおまえの顔が見たかったんだよ。」

“ここへ来てよかった”

“本当によかった”

「あいつは出発するずっと前からおまえを喜ばせたくて、何日もかけてここで準備をしてさ。向こうでは偶然“ハイパーサプライズ”なシロモノを見つけちまって、自分の夢なんか吹っ飛んじまうくらいにうれしくて―――。」

“僕ね、あのね”

“さっき着いたばっかりなんだけどもう帰りたくなっちゃったんだ”


「おまえのことで頭がいっぱいだったんだろうよ。帰りたいって言ってた‥あいつはいつだっておまえのことを――‥‥」

“僕早く帰りたい”

“帰って霧島の誕生日会やりたい”

“ここへ来てよかった”

“だってこんなにすっごいの見付けられたんだもの”


「自分のことよりも何よりも、おまえのことばかり考えてたんだ」

“僕霧島に早く会いたい”

“あいつの喜ぶ顔が早く見たい”

「――――‥‥‥」

 呆然と涙を流す霧島に、亮介も涙ながらに訴えた。

「そんなあいつが今のおまえを見たらどう思う?自分がいなくなったせいで、おまえがそんな抜けガラみてぇになってたら―――しかもこんだけ時間かけて、めいっぱい気持ち込めて作り上げたもんをおまえが少しも喜んでないときたら――――あいつがどんだけがっかりすると思う―――?」

 そういうこと少しは考えろ‥―――。

 亮介は鼻を啜り上げ、尚続けた。

「少なくともあいつは、おまえがあいつを想うよりもずっと、おまえのことをよく解っていたはずだよ」

“楽しい誕生日を過ごしてね”

 霧島はそう話す亮介から顔を背けた。

「―――んなこと言ったって―――楽しいはずねぇだろ―――?」

“霧島”

“すぐ帰って来るよ”

「こんな―――部屋だけこんなんされたって―――楽しいわけ―――‥‥‥」

「だからおまえは自覚が足りねぇってんだよ」

 亮介は怒ったように霧島の言葉を遮った。

「いいか。あいつは‥夏目は、自分がいなきゃおまえがしょぼくれちまうなんてことは百も承知だったんだ。」

“ごめんね”
“しばらくは帰って来ないかもしれない”

「けど、もし自分がいなくても、楽しい誕生日にしてやりたいって思ってたんだ。だから俺たちにもちゃんと祝ってやってくれって言って回ってさ―――。分かるか?あいつは、自分がいなくてもいいなんて思っちゃいねぇ。自分がいないことで、楽しめない誕生日にしてほしくない、そう思ってたんだよ。だから手紙を置いてったんだ。自分がいなくてごめんって。だけど、どうか楽しい誕生日にして欲しいって。あいつはあいつなりに手を尽くして、おまえに思い出に残る誕生日を過ごして欲しいって、それだけを考えて―――むしろそれしか考えてねぇんだよあいつは―――‥‥いつもいつもいつも‥‥あいつはそういうやつだろうがよ―――――。」

 亮介は霧島を捕えたまま、涙を流し続けた。

“すぐ帰って来るよ”

“絶対帰って来る”

「あいつは帰って来たかったんだ。そんでみんなで誕生日会をやりたかった。ここで、おまえの喜ぶ顔を見たかった。最高にスペシャルなサプライズにおまえが驚く顔を見たかった。喜んで欲しかった。すっごいの見付けちゃったんだって、おまえの前で言いたかったんだよ。」

 亮介の頬を伝う涙がシャツを濡らしていく。

「いつかあのりんごの木がでっかく育って、何年か先には花が咲いて、こんな風にたくさん実が成るのを楽しみにしてた。おまえにりんごジュースを作ってやりたかった。」

“亮介さん”

“一番おいしいりんごが成る苗木だよ”

「おまえとの思い出をこれからももっとたくさん――その写真だってもっと‥これからもっとたくさん増えてくはずだった―――‥‥あいつはおまえともっと一緒に居たかったんだ―――だから―――」

 亮介は溢れる涙を拭いもせず霧島を強く見据えた。

「あいつは、ここへ帰って来たかったんだよ――――おまえのとこに―――今すぐにでもさ――――」

“こんなのイミねぇよ”
“俺のことなんか何も―――”

“おまえは何もわかってねぇよ”

「それくらい―――俺に言われなくたって分かってやれよ――――」

 正面には真っ青な空の上に生い茂るりんごの木。

 真っ赤な実が成を楽しみにしていたマーヤの笑顔―――。

「――――――‥‥‥」

“今年の誕生日はこの部屋でやろう”

“記念にりんごの木を地植えにしよう”

“きっと3年もすれば僕らの背よりずっと大きくなって、たくさん花を咲かせるよ”

「霧島」

 亮介は涙で濡れた目を霧島に向けた。

「愛だよ」

 部屋をぐるりと見渡しながら、霧島はただ涙を流していた。

「友情も、何も、全部飛び越えた、途方もなく広くて、宇宙レベルに果てしないあいつの―――」

 永遠の愛だよ――――

“霧島、喜んでくれるかな”

“サプライズだから!”


「いいか。おまえらみてぇな繋がりは当たり前じゃねぇんだぞ。そんなヤツに誰でも出会えると思うなよ。おまえはガキの頃から今までずっと、なんも考えずにあいつと一緒にいただろうからピンとこねぇかもしれねぇけどな。そんなダチ滅多にいねぇからな。」
亮介は涙を押し出すように顔をしかめ、それでも霧島をじっと見据えた。

「つかおまえらはぶっちゃけ特別だよ。そのことをまずは認めろ。そんであいつと出会えたことを、これまで一緒に過ごせたことを、今こそ喜ぶときなんだよ。あいつがいないのは辛いし、悲しいし、淋しいし、わけわかんなくなるくらいの絶望のドン底に落っこちちまうくらい、どうしようもなくなるのも分かる。けどな、そんな底なしの泥沼みてぇなとこでうずくまって、ただ苦しむだけでいいのかってことだ。おまえにとってあいつはそんな存在だったのかってことだよ。」

“夏目君の死を酷い事実としてだけ、受け入れがたい現実してだけでとらえて欲しくない”

“そこに足を獲られ、この先の人生をずっと引きずりながら生きていって欲しくはない”

「おまえはさ、夏目の――あいつのでっけぇ愛を、全身全霊で受け止めりゃあいいんだよ。こんなに想ってくれてありがとうって、それだけでいいんだよ。これまで一緒に居られたことを、夏目に出会えたことを、心からよかったって、感謝してれば‥それだけでいいんだよ。」

“大切なのは、前を向くことだ”

“いつでもその手を掴めるように”

「今、おまえの中に在る膨大な哀しみや苦しみの渦で、そういう真っ暗な闇のせいで、これまでのおまえらの時間を‥特別なかけがえのない友人がいたという事実を、その思い出までも、そんな絶望の淵に追いやって欲しくはない。そこにこそ、今だからこそ、光を当ててやって欲しいんだよ。」

 コルクボードに敷き詰められた写真の数々。

 マーヤの笑顔があちこちで笑い声を上げている。

「あいつはさ‥あいつの存在は‥もっと明るい、日の当たる場所でさ――おまえの中に無限に広がる真っ黒な哀しみさえも―‥一向にふさがる気もしねぇでっけぇ穴みてぇな淋しささえも‥―まるごと全っ部、笑って照らせるような‥そんなもん簡単に包み込んじまうような――そういうやつなんだからさ―‥‥」

 霧島の頬を涙が止め処なく流れていく。

 幼いマーヤのあどけない笑顔。

“霧島”

“大丈夫だよ”

 どの写真のマーヤもこちらを向いて笑っている。

“霧島”

“写真撮ろう”

「――――あの写真」

 亮介はコルクボードの隅に貼られた写真を指さした。

 霧島はその視線の先を目で追った。

「あれ、右上の、夏目が一人で写ってるやつ」

 唯一これだけ、おまえが一緒に写ってない。

 霧島は亮介の言葉に小首を傾げた。

 それは、高校の制服を着たマーヤが一人こちらを振り向いて笑っている写真だった。

「それ、おまえが撮ったんじゃねぇか」

 そう言われ、霧島は考えるようにじっと写真を見つめた。

「‥覚えてな―」

「ばぁか、覚えてるとか覚えてねぇとかそういうことを言ってんじゃねぇよ」

「――‥‥?」

「っとにどんくせぇなおまえは。なんで俺がそう思ったか、だよ。めんどくせぇからもう教えてやる。それだけ他の写真と全然違うんだよ。それ夏目のいつもの笑顔に見えるか?全然違げぇよ。おまえにしたらこれがいっつもおまえに向けられてたんだから分かんねぇだろうがな。夏目がこんな笑顔見せんのはおまえだけなんだよ。こんな表情(かお)で笑う相手はおまえしかいねぇんだよ。」

「―――‥‥―――」

「おまえが信じようが信じまいがこれは事実だ。あいつはいつも笑ってた。笑ってたけど、俺が普段あいつといる時、こんな笑顔は見たことねぇよ。こんな‥も、すっげぇうれしいみたいな、すっげぇたのしいっ!みたいなさ。この笑顔全部が、おまえのことが大好きだ!!って言ってるみたいに見える。そう思うのは俺だけじゃねぇぞ。これを誰が撮ったかって聞きゃあ、100発100中、誰に聞いたっておまえだって答えるさ。」

“夏目がこんな笑顔見せんのはおまえだけなんだよ”

 亮介はゆっくりと立ち上がり、霧島の傍らに腰を下ろした。

 そしてコルクボードを指差しながら、こう言った。

「ここに貼ってあるのは、どれもおまえと一緒に写ったもんばっかだ。あいつはおまえと写ってる写真を選んでここに貼ったんだ。けどこれだけは、夏目一人しか写ってない。それをわざわざここに貼ったのはなんでだ?控えめにこんな隅っこに‥けど一番上に貼ったのはなんでだと思う?」

 マーヤの笑顔を見つめる霧島の頬を涙があとから流れていく。

「うれしかたんだ。きっと‥最初で最後だったんだろうよ。おまえが写真を撮ってくれたのがさ。おまえにとっちゃ覚えてもいねぇような些細なことかもしれねぇけど――あいつには特別な一枚だったんだ。だから、どの写真にも埋もれないこの場所に、きっと――これを完成させる、最後に貼った一枚だったんだ。」

“これは初めて霧島がカメラで撮った写真”

 あの日のうれしそうなマーヤの笑みがよみがえる。

「言っとくが他の写真だってそうだぞ。こいつのこの笑顔は、おまえの隣にいるからこそのもんだ。あいつはおまえの隣にいる時、きっと他の誰といるよりもうれしくて、楽しかったんだ。」

「―――――‥‥‥」

 見ていると声が聴こえてきそうなマーヤの笑顔が、霧島をよりいっそう淋しさの縁へと追いやっていく。

“霧島”

“来たよ”

「あいつはおまえといるだけで、毎日こんな表情(かお)で笑えたんだ」

“霧島”

“お待たせ”

「おまえと毎日一緒にいるだけで、あいつは最高に楽しかったんだよ」

“霧島”

“一緒に帰ろう”

「霧島、いくらでも泣けばいい。いつまででもメソメソしてていい。ただ、考えろ。夏目が、あいつが、今のおまえを見たらどう思うか。」

 亮介はスナップ写真の前に座る霧島とまっすぐに向かい合った。

「自分のせいでおまえがこの先後ろばっか見て生きていくことになったらあいつがどんな顔するか」

 涙に崩れたその顔に、亮介もまた涙を流しながら言い聞かせる。

「おまえはこれまで、あいつの存在が当たり前すぎて無意識に通り過ぎちまって来たんだ。おまえが今、あいつに何もしてやれなかったと思うのは、今更そのことに気付いたからなんだろう。」

「そのことにすら、おまえはまだ気付いてない。」

「おまえは当たり前にあったものの大切さを、意識して心に刻むべきだ。あいつとのことも、おまえ自身のことも、両方だ。」

「今おまえがどうしたらいいか分からねぇって思うのは、おまえにとってあいつの存在がでかすぎるのに、それをちゃんと意識してねぇからだ。」

「その大切なもんの重みを、質量を、それがどんだけ大事かってことを知らねぇからだ。それがおまえの中でどんだけでっかく根付いていたかを自覚できてねぇからだ。」

「おまえは今、それを突然目の前に突き付けられて、見たこともねぇでかさを思い知らされて、その存在の圧倒的な重さに面喰っちまってんだ。」

「だからおまえは、自分の中にあるあいつのことが大切だと想う気持ちに、ちゃんと向き合う必要がある。」

 亮介は霧島の濡れた瞳の奥に訴えるように続けた。

「おまえはそこから始めなきゃ‥前には進めねぇよ」

 おまえが自分のせいで苦しんでるなんて、夏目がどれだけ悲しむか。
 自分のせいでおまえがこんなに辛い思いをしてるなんて、淋しい思いをしてるなんて、こんなに泣いてるなんて‥。
 おまえの喜びがあいつ自身の喜びだってことを、もっとよぅく自覚しろ。
 おまえがそんなんなってることを、あいつが望むはずねぇだろ?
 あいつは自分の死をそんな風に悼んで欲しいなんて思っちゃいねぇはずだ。

 

 部屋はすっかり明るくなって、陽の光で満ちていた。

 マーヤはあの頃、ここから移り行く空を見上げながら、毎日霧島のために折り紙を折っていた。


「なぁ、霧島‥あいつ、出発の日俺んとこに来て、言ったんだ」

“ごめんね”
“きっとしばらくは帰って来ないかもしれない”

“もし僕が間に合わなくても、ちゃんとお誕生日当日にお祝いしてあげてね”

「おまえがここに居ない理由も、帰って来るタイミングも、あいつは全部分かってた
よ。あいつは自分がおまえにとってどれだけの存在かってことを、ちゃんと分かってたんだ」

「――――‥‥‥」

“ごめんね”

「あいつは分かっていたよ。自分が帰るまではおまえは帰って来ないって――あいつはそう思ってたんだ。」

 亮介の言葉に、霧島の涙が再び溢れた。

「おまえは夏目を見送らなかった」

「最後に会ったのがいつだったかも覚えてないんだろう」

「けどそんなことに罪悪感を抱く必要はないんだ」

「―――――――‥‥‥」

 テーブルの上の白い花が、眩しいくらいに輝いて見えた。

 亮介はタンスが置いてある壁に目を向けた。

「‥虹———‥‥」

 壁の端から端に架かる7色の――――。

「おまえら、前に巨大な虹を見たって言ってたな‥――」

“霧島ー!!”

“虹ー!!”

「――――。」

“あの日は霧島の誕生日だった”

「あん時の‥あいつのうれしそうな顔――‥‥」

“亮介さん!”

“今日の虹見た?!”

「“完璧な虹”だったって‥」

“どこまでも真っ青に澄みきった大空に”

“絵に描いたような完璧な虹が、空の端から端まで架かっていた”

“神様から霧島に”
“誕生日プレゼントだよ”

「すごかたよねって、“すっごく大きかったよね”ってさ――大はしゃぎで‥‥」

“虹は空からの贈り物なんだって”

「――――‥‥‥」

「見ろよこれ。全部アジサイで埋められてる。」

 亮介はその“虹”を指でなぞった。

「7色の折り紙でアジサイを折って‥こうやって虹の形に貼り付けたんだ―‥‥すげぇな――どうりでなんか立体的だと思った…―――。」

 亮介は感心しながらその“作品”に見惚れていた。

“霧島―!!”

“霧島の誕生日にこんなすごい贈り物!!”

“すごいね”

“よかったね”


 霧島の頬を涙があとから伝って落ちる。

「―――マーヤに‥‥会いたい―――‥‥‥」

 そう声を詰まらせる霧島に、亮介は思わず顔を歪めた。

「―――あぁ‥」

「――あぁ、‥そうだな――」

“霧島”

“僕、出発の日決めたよ”


「俺も、マスターも、楽しそうに出て行くあいつを止めなかった。」


“おう、気ぃ付けてな”

“気を付けて”

―――ごめんな―――‥‥‥


 眩い陽の光の中に消え入りそうな声だった。


“俺はあの日、もっと強く止めるべきだった”

 

 錆びた階段を下りる足音がゆっくりと遠退いていく。


“ごめんな”


 部屋に一人残された霧島は、両足を抱え咽び泣いた。

“僕、出発の日決めたよ”

“何十年かに一度の絶好のタイミングなんだって”

 太陽の光が射し込む窓を見上げると、りんごの木にかかるタペストリーが7色に煌めいていた。

“いいこと思いついた!”

“これは虹のプリズム色”

 陽に透ける7色のHAPPY♡BIRTHDAY

 それは床の上に光の色となって映し出されていた。

“霧島”

“お誕生日おめでとう”

“僕が間に合わなくてごめんね”

「うぅぅっ‥‥‥――――――っ」

“マーヤに会いたい”

「うぅぅぅ―――――――っ――――。」

“パーティーの準備はしておいたから”

“みんながちゃんとお祝いしてくれるから”

「ぅぅうっ…うぅぅっ―――――」

“僕がいなくても”

“楽しい誕生日を過ごしてね”

「うぅぅぅっ………――――――。」


 もう一度、あの笑顔に会いたい。

“霧島”

“お帰り”

 もう一度、あの声を聴きたい。

“すぐに帰るよ”


 ただ、もう一度会いたい。


 
 さよならも、ありがとうも言えなかったマーヤに

 霧島はもう一度会いたかった。


 ただ、それだけだった。

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