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長編小説「きみがくれた」下ー㉚

「友へ」


 中庭のりんごの木が今年も満開の花を咲かせている。
 すっかり大きくなったその木は今ではマスターの背も追い越した。
 
 
 リビングのテレビに映るのは、画面いっぱいに咲き誇る満開の桜。
 
 そして映像がゆっくりと下へ移動すると、小さな子供を抱いた男性の後ろ姿が映り込んだ。
 
 
 
央人、見てごらん
 
 
 
 その声は舞い散る薄ピンク色の花びらに紛れ、静かな風に消え入るような
 
 
お母さんが大好きな花だよ
 
 
 
 耳の奥に優しく残る―――空気さえ震わせることもなく、
 木漏れ日のように儚い音色
 
 
 
 映像は長い時間同じ光景を映し続けていた。
 遠くまで染まるピンク色の、その淡い景色に溶け込みそうな白いシャツ、細いシルエット。
 
 抱かれた子供は空へと手を伸ばす。
 
 花びらの雪に包まれて、その人は確かに笑みを浮かべていた。
 
 
「―――聖、央人は覚えていたよ‥―――」
 
 マスターは目の前でゆっくりと流れる時を眺めながら、一人そうつぶやいた。
 
「きっと、おまえの声も―――」
 
「腕の温もりも―――」
 
 
 
“心配しなくていい”
 
“君は愛されていた”
 
 
 
 その静止したような景色の中に、マスターは今も立っている。
 
 
 
 

 2本目のテープを手に取ると、マスターは小さく溜息をついた。
 
 
「これを観るまでに何年かかった―――?」
 
 
 まだ一度も観れていないその映像
 
 そこには真っ青な空と白い浜辺、そして遠くの岬に見える白い灯台――。
 
 
 風の音、波のしぶき、眩しい太陽の光。
 
 どこまでも白く、遠く広がる砂浜――
 
 捉えたのは遠く、小さな人影――
 
 
 
 その人はふわりと後ろを振り返った。
 
 映像はゆっくりとその人を大きく映し出す。
 
 
 白いTシャツをはためかせ、逆光の中の表情は口元だけが微かに動いた。
 
 
 
「―――――‥‥‥」
 
 
 海風になびく髪を片手で軽く押さえながら、その人は滑るように歩いて行く。
 
 そして、もう一度ゆっくりとこちらを振り返り―――
 
 
「―――――‥‥‥」
 
 
 口の端を少しだけ上げ、こちらへ薄い笑みを見せた。
 
 
 
 ずっと先を行く小さな後ろ姿がおぼつかない足取りで駆けて行く。
 
 
 振り向いたその人は、確かに優しい笑みを浮かべていた。
 
 
 
 
“こいつがこんな風に笑うなんて”
 
 
 
「この日でさえ、あいつは世界で一番、幸せそうな表情(かお)をしていたんだ――‥‥」
 
 
 
 映像は再びその人に向けられ、少しずつその姿を大きく映し出していく。
 
 
 
“航平”
 
 
 
 風の音でかき消されそうなその声に、マスターの顔が強張った。
 
 
「―――――‥‥‥‥」
 
 
 
 
“航平”
 
 
“央人が”
 
 
 
 
 昔見た写真とはまるで別人のような笑みがそこにあった。
 
 
 
 あの写真の中の笑みよりも、もっと―――
 
 
 
 波の音に消え入りそうな声
 
 
――けれどその意思を含んだ強く、温かい―――
 
 
 
「―――――?」
 
 
 こちらを振り向き、浮かべた笑みのその口元‥‥
 
 その人は、確かに何か言葉を口にしていた。
 
 
 
 
 マスターは映像を戻し、画面に目を凝らした。
 
 
 
“航平”
 
 
“央人が”
 
 
 その笑顔は光に霞み
 
 この世界がどんなに楽しいものかということを
 
 今この時がどれだけ幸せかということを
 一瞬でこちらへ伝えていた
 
 
 
 そして――――――
 
 
 
“―――――――”
 
 
 
 
 初めて見留めたその声に、マスターの目から涙が溢れた。
 
 
 
 その人は口の端を少しだけ上げて、眩しそうに目を細めた。
 
 
 
「――――聖‥‥‥――――」
 
 
 
 
 深い海のような―――吸い込まれそうな瞳のその人は、
 小さな小さな背中の後を、遠く、遠くへと追い、歩いて行く。
 
 
 映像は音もなくいつまでも続いていた。
 
 
 
「――――聖―――‥‥俺は―――――」
 
 
 俺がレンズから目を離せなかったのは―――
 
 
 
 俺は―――おまえに言葉を掛けることすらできなかった―――
 
 
 
 この光景を残しておかなければと思った。
 
 せめて――これが最後だと分かっていたから―――。
 
 
 
 言いたかったことも、
 言い出せなかったこともたくさんあったはずなのに――
 
 何一つ口にできなかった
 
 
 けれどこの目の前の景色だけは―――
 
 おまえの最後の姿だけは―――
 
 残しておかなければと思ったんだ――――。
 
 
  央人と映る、このおまえの最後の姿を――――‥‥‥
 
 
 
 ついに後ろから抱き上げられた幼い子供は、その人の腕の中でうれしそうにはしゃいでいる。
 
 顔を近付け、首元にじゃれついて笑うその映像を前に、マスターは両手で顔を覆い泣き崩れた。
 
 
「聖――――央人が――――‥‥‥」
 
 
 子供を抱き寄せ、ゆっくりと振り向いたその表情は、海風に吹かれ穏やかな笑みを浮かべていた。
 
 
「おまえの大切な央人が――――‥‥‥―――」
 
 
 
 
“ありがとう、航平”
 
 
 
 
「聖―――‥‥」
 
「―――‥‥おまえを失いたくない―――それだけでも伝えていたら、何か変わっていたのかな――――――」
 
 
 咽び泣くその声が映像の波の音に入り混じり、時折その映像からも鼻を啜る音が聴こえた。
 
 
「俺は―――おまえに礼を言われるような人間じゃない‥‥‥」
 
「おまえを―――央人におまえを――――」
 
 
「聖―――‥‥俺はおまえを―――大人になった央人に‥‥会わせてやりたかった―――」
 
 
 
 マスターはテーブルの上のティッシュを何枚も抜き取り、鼻をかんだ。
 顔中を涙でぐしゃぐしゃにしながら、けれどマスターはなんとか笑みを浮かべて見せた。
 
 
「央人が帰って来たら、もう一度一緒に観るよ」
 
「今度こそ、央人と一緒に」
 
 
 
 俺がこんなになっても、もう央人は大丈夫だから―――。
 
 
 映像の中で、その人は何度もこちらを振り向いた。
 
 眩しそうに目を細め、口の端を少しだけ上げて
 
 
 
“航平”
 
 
「―――――――‥‥‥」
 
 
 その穏やかな笑みに、マスターは思い出したように目を見開いた。
 
 
「――――そうか―――‥‥‥」
 
 
 そしてその瞳から涙があとから零れていく。
 
 
「おまえを手放してしまった――俺はそれをずっと後悔していた―――」
 
「おまえを逝かせてしまったことに罪悪感を抱き‥―――20年以上経った今でもずっと自分を責めて―――」
 
 
 マスターは涙を流しながら画面に向かってつぶやいた。
 
 
「俺はずっと、もう一度おまえに会いたかったんだ―――‥‥」
 
 
 
“聖―――”
 
“淋しいよ―――”
 
 
 
 
 単純なことだ‥‥―――
 
 ただ、それだけだったんだ――――
 
 

 ”航平”
 


 今年も、もうすぐ霧島がこの街へ帰って来る。
 
 
 
 
「聖‥央人が――――――」


「おまえの大切な央人が――――‥‥‥」
 
 
 遠くに映るその人に、マスターはもう一度話し掛けた。
 
 
「お祝いは―――何にしようか―――‥‥‥」


航平


央人を


よろしく


 
  
 あの日、青く広がる大空の下で、その人は確かに笑っていた。

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