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長編小説「きみがくれた」中‐④

「祈り」


マーヤの父親から封筒を預かり、マスターにあの紙を託した夜、亮介が家に帰ると冴子はまだ起きていた。

玄関まで出てきた冴子は、マーヤは喜んでいたか、マスターの店へ寄って来たのか、それにしても随分と遅かった、といつものように一人でしゃべっていた。

「夏目君あの花好きそうだもの、ねぇ?真理子さんも気に入ってくれたんじゃない?そう言えばあの子ったら帰って来たなら顔出せばいいのに、ねぇ、央人じゃあるまいし」
「まぁ出掛ける時に言って行くだけ央人よりマシか‥ていうか央人はまだ帰ってなかった?全くあの子ったら自分の誕生日も忘れてどこほっつき歩いてんのかしら」

そして冴子は亮介が家に上がって来ないことにようやく気が付いた。

「―?」

玄関へ戻って見ると、亮介はまだそこに立っていた。
「亮ちゃん?」
その尋常ではない顔色と、纏う雰囲気に、冴子の声も上ずった。
「――ど‥したの?」

その夜は美空も静かに眠っていた。

「冴子、落ち着いて聞いてくれ」
リビングのソファに並んで座り、亮介はそう前置きをして、けれどそんなことは何の意味もないということは分かっていた。
「落ち着いてるわ、なんなの?」
冴子の手はもう震えていた。

まだ、そうと決まったわけじゃないから。
まだ、今は、確認の段階だから。
まだ、可能性は残ってるから―――。

自分に言い聞かせるようにそう言うと、亮介はそれからしばらく押し黙った。

今にも泣きだしそうな亮介の横顔を見守りながら、けれど冴子にはその言葉のどれもが何の説得力も持たなかった。

見たこともない思い詰めた表情に、冴子は急かすことも問いただすこともしなかった。
赤く腫れた目に滲む涙を必死でこらえようとしている亮介は、次の言葉を選ぶ余裕すらなく見えた。

冴子は一度立ち上がり、キッチンへ向かった。
コップに水を汲んで戻って来ると、そっと亮介の前に置き、
「私は落ち着いてるわ」
と静かに言った。

亮介が口を開いたのは、それからしばらく経ってからだった。

その日の夕方、マーヤの家に行き、父親に会って聞いた話を、亮介はなるべく冷静に、淡々と伝えた。

警察からの情報――バスの事故、身元不明の遺体、その遺留品と思われる物―――。
それはまるで、どこか知らない国に住む顔も知らない人々の身に起きた出来事のようだった。
今ここにある現実とはかけ離れた、架空のお話のようだった。

「‥待って」
冴子はやっとの思いで亮介の話を遮った。

「‥‥ちょっと‥待って―――」

「まだ、決まったわけじゃない」

小さく震える冴子の声に、亮介は語気を強めた。

頭が回らない―――

冴子は小さく“やだ‥”とこぼし、言葉を詰まらせた。
膝の上で握った両手が震えている。

“遺留品”
その言葉は冴子を酷く動揺させた。

「そんな‥亮ちゃ―――。」
焦点の合わない目を亮介に向ける。
「まだ決まったわけじゃない。可能性の話だから。」

“身元不明の遺体”
“唯一の手掛かり”

「俺たちは誰も、あれが夏目のものかどうか分からないんだ。だから今はまだ何とも言えない。」

“霧島が帰って来るまでは”

そう亮介が口にしたとき、冴子の黒い瞳から涙が溢れた。

「っ‥―――やだ‥‥」

見開いた目から涙が次々零れ落ちる。

「冴子?」
「だめよ!!そんな、やだっ‥どうしよう‥‥―――っ」
「冴子、落ち着け」
「いやっ‥‥!!」
「冴子っ!!」

亮介は冴子の肩を強く抱いた。

「―――っ‥‥‥だって‥‥!!あの子――あの子っ――‥‥あんなにうれしそうに――やっとっ‥‥やっと夢が叶うんだって‥‥‥っ!―――最高のタイミングなんだってうれしそうに―――、‥‥っっ――やっとっ‥‥チャンスが――‥小さい頃からの―――‥‥ずっと‥‥ずっと待ち望んでた―――、‥やっと―――叶うって―――‥‥なのにっ‥―――なのになんで―――‥‥‥」

なんでこんなことにっっっ――――――?!!

「大きな声を出すな!!」

「いやぁぁっっっ―――‥‥!!うぅっ‥うぅっ‥―――っっ‥‥‥‥」

冴子は亮介に全身を預け泣き崩れた。

「まだ決まったわけじゃないって、言ってるだろう」
取り乱す冴子に亮介は何度もそう言って聞かせ、けれどその声も酷く頼りなく、何の役にも立たなかった。

だったらなんで泣いてるの

お願いそんな顔しないで

亮介はすがるよう泣きじゃくる冴子をただ抱きしめることしかできなかった。

「霧島が帰ってくれば分かる」

「あいつなら知ってるはずだ」

あれが夏目のものなのか、そうじゃないのか。

“央人ならきっと分かるさ”

“違うって”

明るいリビングに冴子の籠ったすすり泣きが一晩中続いていた。
永遠のように長い、長い夜だった。

カーテンの隙間から光が覗き、先に目を覚ましたのは冴子だった。
明かりの下で亮介の身体を押しのけ、体を起こすと、冴子は気が付いたように宙を仰いだ。
腫れた目を薄く開き、亮介のシャツを掴んだ。

「亮ちゃん―――」

亮介はソファに体を倒したまま、苦悩の表情で目を閉じている。

「亮ちゃんっ!!」

亮介の腕を強く叩きながら、冴子の視線はどこにも定まらない。

「亮ちゃん!!ねぇ亮ちゃんてば!!」

疲れた体を重たそうに起こした亮介に、冴子は馬乗りに圧し掛かった。

「ね‥昨日、央人に何をさせるって言った‥‥?」

冴子は緊迫した声で亮介の目の奥に問い掛けた。

「央人に何をさせるって言ったの――‥‥?」

間近に冴子の狂気を感じ、亮介は目が覚めた。

「亮ちゃんてばっ‥‥――!!」

両腕の袖を強く掴まれたまま、亮介は注意深く言葉を探した。

「――ん‥‥写真―――見つかった、遺留ひ――」
「ダメよ!!」
「っ?」
「そんなこと絶対にダメ!!もし夏目君の物だったらどうするの?!」
「‥だからそれを確かめるために――」
「ダメよ!!絶対にダメ!!」
「あの子がそんなこと耐えられるはずないでしょ?!やめて!そんな酷いことさせるなんてバカじゃないの?!絶対にダメよ!無理よ!無理だわ!あの子どうにかなっちゃう!!」
冴子は亮介に掴みかかった。
「でもあいつだけは頼りなんだよ、他の誰にも分からないんだ」
「じゃあ違うのよ!誰にも分からないなら違うってことでしょ!!」
「いやだから、霧島にも見覚えがなければ可能性がゼロに近くなるだろう?それを確かめるために――」
「だからって!!あの子に、その判定をさせるっていうの?!亮ちゃんはあの子にそんな――酷だわ!!酷すぎるわよ!!」
亮介は冴子を引き剥がそうと体を起こした。
「夏目のじゃないと分かれば一安心だ。けどそれは同時に、また別の何かが起きているかもしれないということに繋がる。夏目がまだ帰らない、他の理由が‥‥だとすれば、違う捜索をしなきゃならない。違う街にも範囲を広げるとか、――」
疲れた体を立て直し、亮介は冴子に言い聞かせた。
「あいつの答え次第なんだよ。それも早くしないと――もし何か他のことが起きているとしたら、一刻も早く手を打たないと――」

亮介は冴子をソファに座らせ、言い聞かせるようにそう言った。
「私だって分かってる。それが夏目君のじゃないって、なんの関係もないって確信したい。でもっ―――それを、あの子にさせるなんてっ‥‥!」
「もしよ?!もし、万が一、それが、―――だったとしたらっ――――?それをあの子に―――?央人に証明させるっていうの?!」
「亮ちゃんは‥‥―――そんな残酷なこと‥‥あの子にさせられるの‥‥―――?!」
冴子は亮介を突き飛ばすようにソファから離れた。
「仕方ないだろう?俺もマスターも、親御さんたちでさえ分からないんだから――!」

“まだ決まったわけじゃない”
“可能性の話だから”

「どうしたらいいの――‥‥?――どこにいるの――‥‥?」
「早く帰って来て‥‥二人とも―――早く―――‥‥‥」

冴子はその場に座り込み両手で顔を覆った。
亮介は冴子を引き戻ろうと手を伸ばし、けれど冴子はその腰に触れた手を力いっぱいはたいた。

「ほかに別のやり方があるはずよ!!指紋とかなんとか警察でしょう?!」
「なんで民間人にっ‥‥一般の人間に頼ることしか方法がないわけ?!しかもまだ未成年の…――そんなのおかしいじゃない!!」
「できることがあるならとっくにやってるさ!!言っただろ?!あれが“唯一の手掛かり”なんだよ!!」
遂に亮介は立ち上がり冴子を怒鳴りつけた。
「事故から一週間も経ってるんだ――遺留品が特定されなきゃ先に進めねぇってんだから仕方ねぇだろ――?」
亮介は力なく首をもたげ、頭を抱えた。
「あいつが――夏目がこのままずっと帰って来れなくてもいいのか?」
「やめてよ!!そんな言い方しないで!!まだ決まったわけじゃないって言ったじゃない!!」
「だからっ‥‥!それを早く確かめたいんだろ?!夏目が無事だって、そっちを!なんで分からねぇんだ!!」
「だからそれは警察の仕事だって言ってんのよ!!人一人の身元を確かめることもできないなんておかしいでしょ?!何のための警察よ!!」

断固として引かない冴子の態度に、亮介は吹っ切ったように息を吐いた。
「“身元不明”としか報告のしようがなかった理由、聞きたいか?事故の詳細を知りたいなら全部教えてやろうか?」
亮介の冷えた低い声色に、冴子の表情が止まった。

亮介は深く溜息をついてソファに腰を下ろすと、床に視線を落としたまま続けた。

「もちろん遺体の身元確認は警察の仕事だ。鑑識かなんだか知らねぇけど、普通はそういうとこで調べるんだろ。けど今の時点では、もうそういうレベルの話じゃなくなってるってことだよ。‥たった一つだけ見つかった、その遺体に関係するであろうものに――その証言に頼るしかねぇって‥そこまできちまってるってことだよ――」

 それでもよく地面を掘ってくれた。
 亮介はその“遺留品”を探し出してくれた人に感謝だと話した。

「警察だって身元不明のままにしないようにできる限りのことをしてるんだよ」

“それが唯一の手掛かりである”

「そこまで――って‥‥――」
冴子の目から涙が流れる。

「だからあれがっ‥‥!――っ‥‥唯一の手掛かりなんだよっ――何度も言わせんな‥‥」

亮介は勢いよく鼻を啜り上げ、苦しそうに涙を流した。

そして亮介はマーヤの父親が警察から聞いたという話を冴子に伝えた。

あれがかろうじて形を留めていたのは、そこに居持ち主と思われるご遺体が
体の下に、さらに土の中に埋めて置いたから

恐らく、相当大切なものだったのでしょう
最後にそれだけは守りたいと思ったのでしょう

「うぅぅぅっ……うぅぅぅっ……わぁっ…――あぁ―――………っ!!」

土の中にあったので、炎の影響が少なくて済んだのです

よほど大切なものだったのだとお見受けしました

これが唯一の手掛かりです

「うぅぅわぁっ……あぁぁぁ…―――っ…っ!!」

どなたか見覚えのある方を探していただいて

それによって身元が判明できればご遺体の思いも―――

声を上げて泣く亮介を、冴子は上から包むように抱きしめた。

「わぁぁぁ……あぁぁぁっ―――…‥‥っ――!!」

身元が分かるものを残すためだったとも考えられ――

“それなら霧島が知ってる”

“そんなに大事な物なら”

うぅぅぅっ…うぅぅぅっ…――うぅっ―――……

“それを央人に証明させるの”

うぅっ…ううぅっ……
うううっ…―――っ―――

“そんなの持ってなかったって”
“央人なら”

“違うって”

明かりを付けたままのリビングで、二人はもう何も我慢せずに泣き崩れた。

どうか違いますように

きっと今日にでもあの笑顔が帰ってきますように

あの子にお帰りを言えますように―――

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