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長編小説「きみがくれた」中‐⑦
「陽だまりの匂い」
あの夜久しぶりにここへ帰って来てから、霧島はずっとベッドの中にいた。
あれから数日、霧島は一度も目を覚ましていない。
朝がきて、同じベッドの布団から顔を出し、今日もここに霧島がいることを確認する。
今日も昨日と同じように、ただ静かに目を閉じている霧島を、いつまででも見つめている。
動かない霧島の側に、今日もいつまででもいられる。
窓から射し込む暖かい光と、霧島の匂い。
もう一度布団にもぐって胸元から顔だけ出してみる。
頬ずりをしても、鼻で髪を掻き混ぜても、少しも動かない。
重い腕を少しずらして、なるべく体をくっつけて、それからもう一度眠りにつく。
マスターはこの“納戸”から“材料”と“資材”を片付け、空きスペースを広くし、窓には新しく白いカーテンを付けた。
空調は“人が快適と感じる温度と湿度”に設定し、ベッドサイドに置いた低い“チェスト”の上には毎朝常に新鮮な水を入れたグラスを準備していた。
仕事の合間にも何度もこの部屋にやって来て霧島の様子を伺う。
安西先生がやって来たのは霧島が倒れた翌日のお昼過ぎだった。
“誕生日にこれとはな”
先生は霧島を一通り触った後、ため息混じりにそう言った。
寝息すら立てない霧島に、先生は白い眉毛の下の細い目を一層細めた。
“治す薬はない”
岩のような手で白い長い髭を撫でおろし、先生はそう断言した。
“心因性のもの”だから、“時間がかかる”。
マスターも亮介も、深刻な表情のまま先生の背中を見送った。
今は気が済むまで眠らせてやることだ。
そう言い残し、先生は診療所がある橅の森へと帰って行った。
普段からあまり眠らない霧島が、こんなに長い時間ベッドの中にいる。
朝も昼も夜も、どこへも行かず、一日中ずっと、同じ場所にいる。
目を覚ませば、ここに霧島がいる。
“このまま目を覚まさなかったら”
二人はすっかり肩を落とし、不安を口にせずにはいられなかった。
“俺たちにできることはなにもない”
“僕らにはどうすることもできない”
一日中眠っている霧島がここからいなくなることはない。
どこへも行かないから、帰りを待つこともない。
“ただ待つしかないのか――”
二人の辛い後悔が漂う部屋に、午後の穏やかな光が射し込んでした。
霧島の温もりの側で目を覚ます日々。
毛布から顔を出して、顎の先に頬ずりをする。
霧島がここにいる。
今、霧島はここにいる。
床に敷いた布団に横たわるマスターの寝顔は、今朝も硬く険しい。
あの夜以来、マスターは2階の部屋へ上がらず、ここで一夜を明かしている。
霧島の目が覚めないことをマスターも亮介も酷く深刻な顔つきで話していた。
安西先生もここへ来るたびに白い眉毛を寄せる。
すぐ側に霧島がいる。
何日も、一日中どこへも行かずにここにいる。
こんなに満たされた時間はいつ振りだろう。
首元で丸くなり、その寝顔をじっと見つめる。
浅い眠りの中で、いつかのばあちゃんの家の縁側を思い出していた。
昼寝をしている霧島の横で、一緒に眠った。
庭ではマーヤの笑い声。
暖かい日射しと霧島の小さな寝息。
大好きな温もりの、大好きな匂い。
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