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長編小説「きみがくれた」中‐㊻

「後悔をする覚悟」


 あいつが何もしてやれなかったと思うのは、あいつが夏目にこれまで“何も返してこれなかった”と思っていたからだ。
 いつも当たり前のように側にいた夏目の存在が、当たり前じゃなかったと気が付いた。
 夏目にこれまでたくさんの想いをもらっていたことをやっと思い知ったんだ。

 あいつは気が付くのが遅かった。
 気が付いたのに、夏目はもういない。
 この先はもう返せない、返すチャンスがない――そういう思いが、霧島を追い詰めていると俺は思った。
 実際はそんなこと考えなくたっていいのに‥気持ちってのはモノじゃないんだからさ。
 相手を思いやる心、それだけでいいはずなんだけど‥あいつは目に見える何かで返したかったんだろうな。
 けどそれを受け取る相手がいないってところで思い詰めていたんだ。

“おまえさ、夏目がおまえに何かして欲しかったと思ってんのか?”

“やっぱおまえはなんも分かってねぇな”

 亮介は“今一ピンときていない”霧島を“もう一度店の中央辺りまで引き戻し”、いつかマーヤに聞いた話をした。

“おまえが何の前触れもなく、しょっちゅうどっかフラフラいなくなっちまうことを、夏目はどう思ってんのかって、聞いたことがあった”

“夏目にさえ何も言わずに、ある日突然いなくなっちまうことを、腹立ったりしないのかって”

「夏目は俺たちと違って、霧島がいなくなっても平気なカオしてたからさ。いつもと変わらない様子で、俺らが心配したり怒ったりしてる横で、一人でニコニコ笑ってたから。」

“霧島がそろそろいなくなることは、なんとなく分かるよ”
 
 
 
「自分には何か言ってけよって思わねぇのかなって」
 
 
“行ってきますくらい言わせてけよ”
 
 
「俺がそう言ったら、あいつ――」
 
 
“だって帰って来るんだもの”
 
 
「‥だってさ」
 
 
 
「夏目は昔っからおまえのことが大好きで、小さい頃からずっと一緒にいてさ‥あいつはおまえといるだけで、ただそれだけで、毎日がうれしくて、楽しくてさ」
 
 
“僕ね、いつだって一番最初に霧島にお帰りを言いたいんだ”
 
“霧島が帰って来た時、誰よりも先にお帰りって言いたいんだ”
 
 
「俺は霧島に言ってやった。あいつは、おまえの側にいたから、いつもあんなにうれしそうに笑ってたんだ、って。」
 
 
 アパートに飾られていた、たくさんのスナップ写真―――
 
 そのどれを見ても、二人一緒に写っていた。
 
 そのどれを見ても、マーヤはとてもうれしそうな笑顔だった。
 
 
 
 
 そんな夏目が、おまえに何をして欲しいと思うんだよ。
 おまえと一緒にいるだけで満足で、おまえの帰りを待つことすら楽しかったあいつが、おまえに何かを求めていたと思うのか。
 
 おまえは何も分かってねぇ。
 夏目がおまえといるだけで楽しくて、うれしかったのは、おまえのことが大好きだったのは、おまえがそれだけのことを夏目に与えていたからだ。
 目に見える何かじゃなくて、おまえの夏目に対する想いをあいつはちゃんと受け取ってたってことだ。だからこそ、あいつはおまえと一緒にいることが幸せで仕方なかったんだ。
 おまえを待っている時間さえうれしくてたまらなかったんだ。
 
 
“だって帰って来るんだもの”
 
 
 あいつはちゃんと分かっていたじゃねぇか。
 
 
“僕が間に合わなくてごめんね”
 
 
 あいつはおまえが自分のことを大好きだって、ちゃんと分かってた。
 おまえの気持ちはちゃんと夏目に届いていたんだ。
 
 
「考えるならそこまで考えろ」
って、俺はあいつに言ってやった。
 
“おまえは未だにそんなあいつの気持ちを全く分かってねぇってことだ”
 
 
“あいつはおまえの側にいるだけでよかった”
“あいつはおまえに何も求めちゃいなかった”
 
“それにおまえも”
“おまえもあいつに何も求めてなかった”
 
“それでいいんだよ”
 
 
「――あいつさ、俺の言ってることちゃんと理解できてんのか分かんねぇけど‥俺は俺が言うべきことは言っておこうって、とりあえずそれだけの気持ちでしゃべったよ」
 
 
 相手に何かを求めるってことは、自分にも見返りが欲しいってことだ。
 自分が相手にしてやったことに対して、その分の対価が欲しいってことだ。
 おまえらにはそういうもんがこれっぽっちもなかった。
 けどそのことに気付いてもいなかった。気にも留めなかった。
 だから尚更よりどころがねぇんだ。
 一緒にいるだけで十分だった、それが当然すぎて、ちゃんと伝えるきっかけがなかったから。
 あえて伝えるってことがないままだったから。
 でも別にそれでいいっちゃいいんだよ。
 それが2人にとっての当たり前なんだからさ。
 
 けどいざもう伝えられないとなったら伝えなかったってことに気がいっちまったんだろう。
 実はものすげぇでっかい“感謝”とか、“大好き”とか、“うれしい”、“楽しい”、その他いろんな“伝えたくなっちまった”気持ちがあったってことを、今になってようやく知ることになっちまった。
 気付いちまったら最後、今まで底にあった想いが勝手に溢れるだけ溢れ出てきちまって――それらを伝えてこなかったという後悔も何もかもがない交ぜになって押し寄せて‥
 でも、それを受け止めてくれるやつはもういない。
 今更「受け止めてくれ」「伝えさせてくれ」って求めようにも、夏目はもういないから。あとから込み上げてくる膨大な量の気持ちをぶつける場所はもうないから。
 あいつの中の夏目への想いは行き場を無くして、やりばが無くて、それ自体にも戸惑って悩んで―――それで結果、“何もしてやれなかった”っていう気持ちに集約したんだろう。
 
 ‥つかむしろそこに“落ち着いた”んだろうな。
 あいつなりの落としどころっつうか、あいつの中で“そういうことにした”っつうかさ。
 
 けど、あいつが抱えてるのは“何もしてやれなかった”ことへの後悔じゃない。
 
 
「そこはちゃんと整理しておいてやりたかったんだ」
 
 
 
だから
 
 
“おまえは夏目に何もしてやれなかったんじゃない”
 
 
“夏目がくれた想いに比べて、おまえはあいつに自分の気持ちを満足に表現してこなかった”
 
“ちゃんと伝えてこれなかった”
 
 
だから
 
 
“伝えたい気持ちがあった”
 
“そのことに気が付いたんだろう”
 
 
 
「あいつ、呆然としてた。夏目は霧島に何も求めちゃいなかった。まして霧島に感謝して欲しいなんてこれっぽっちも思ってなかっただろう。そのために言った言葉も、やったことも、なにひとつなかったはずだ。だからあいつの中のモヤモヤは、あいつ自身の問題ってことだ。」
 
 
“夏目のせいにすんじゃねぇよ”
 
“何もしてやれなかったんじゃねぇ”
 
“おまえが、しなかったんだ”
 
 
亮介は“相変 わらず鈍い”霧島に、ひとつひとつ“言葉を植え付けるように”言って聞かせた。
 
 
「おまえに足りねぇのは自覚だ。もっと自分が愛されてるって自覚をしろ。」
 
 
 霧島は夏目の「愛」を受け取って、自分の「愛」を渡すってことをしてなかった。
 そのことにうっすらとは気が付いたけど、‥とりあえずはもらってたモンの強大さってのは感じてるけど――そもそもあいつの中にそういう概念がねぇから‥今自分の中に在るモヤモヤの正体が分からなかったんだ。
 
 
 
「いいか霧島、人は誰かを愛し、愛されるために生まれてくるんだ。だから自分が自分以外の誰かに愛されるのは当然のことなんだ。」
「けどその前提には、自分自身が自分を愛してやらねぇと。おまえが自分を誰かに愛される存在だと認めてやらねぇとだめだ。」
「それは他の誰にもできねぇ。おまえにしかできねぇことだ。でないと、誰かに愛されていることを心の底から実感することができなくなる。」
「自分が愛を受け取るべき存在だと自覚してねぇやつは、自分が誰かに愛されていても、それを受け取ることはできねぇ。」
「結果的に自分は誰からも愛されねぇと勘違いする。ただ単に、その愛を見逃してるだけなのに、だ。」
 
「愛を受け取ることを覚えろ。自分は愛されていると自覚しろ。」
 
 
 降りしきる雪に閉じ込められて、二人は最後のお別れを交わしていた。
 
 
 
「でも、夏目は‥あいつはそんな霧島のこともよぅく分かってたから」
 
 
 
“大丈夫だよ”
“夏目はちゃんと分かってた”
 
“あいつはそんなおまえのことも、丸ごと全部大好きだったんだ”
 
 
 
 俺はあいつに言ってやった。
 
 
 
「あの手紙」
 
 
 
“僕が間に合わなくてごめんね”
 
 
 
「おまえにあんなこと書けるのは、あいつくらいだ」
 
 
 
“言ったろ、あん時”
 
“夏目はおまえが自分のことを大好きだって、ちゃんと分かってたんだよ”
 
 
 
“—―――――‥‥‥”
 
 
 
 
「“行ってきます”は、“行って必ず帰って来ます”っていう約束事なんだってあいつ俺に言ったんだ。でも霧島と自分にはそんなのいらないって。だって帰って来るんだからって。」
 
 
 
“どこって、霧島がいるところだよ”
 
 
 
“僕は霧島に黙っていなくなったりしないよ”
 
 
 
 
“そんなのいらないよ”
 
 
 
 
「あいつはおまえのことが大好きだから、おまえの考えてることなんか全部お見通しだし、おまえがどこで何をしていようが、そんなことはどうでもいいんだ。」
「どこにいても、ここになくても、どんなおまえでも、夏目はおまえのことが全部丸ごと大好きなんだから。」
「何もしてやれなかったなんて思わなくていい。何もしてくれなかったなんて思っちゃいない。そんなおまえも、おまえなんだから。夏目が大好きなおまえなんだから。」
 
 
 
“これは今、言っておかなきゃならないって思ったんだ”
 
 
 
「そんで、こっからは俺のこと。俺と、霧島のこと。俺は夏目とは違うからな。」
 
 
 
“それでもおまえが、あいつのためにやってやりたいことがあるなら”
 
“そのためにこの街を離れなきゃならないなら”
 
 
 
 亮介は“仕方ないから”できる限り“前向きな笑顔”を作って見せた。
 
 
 
“俺は、おまえを応援する”
 
 
 
 
 
「当分帰って来ないって、はっきり顔に書いてあっても‥」
 
 
 
 
“なぁ霧島”
 
“なにかやろうって決めた時はさ、何をやったかよりも、どこまでやったかの方が俺は断然大事だと思う”
 
 
“おまえの気が済むまで、やってこい”
 
 
 
 
「あいつにだってどうなるかわからねぇことをやろうとしてるんだって、なんとなく分かっちまったからさ」
 
 
 
 それから亮介は霧島の“あり得ない薄着”に、“そのまま行かせるわけにはいかねぇ”と霧島を店に残し母屋へ入った。
 
 
「特別に俺の一番のお気に入りの超高機能ダウンジャケットを貸してやったんだ。防水・耐水・撥水・防風あたりまえ、保温性抜群の断熱裏地にボア付き隠しフード付き。あの雪の中だってむしろ熱いくらいのさ。」
 
 
“これは、俺のスーパースペシャル大事にしてる世界でたった一つしかない超ウルトラ貴重な思い出の品かつ宝物”
 
 
 そう言って亮介は霧島の首に真っ赤な“マフラー”をかけた。
 
 
 亮介の“お気に入りのダウンジャケット”を着せられ、“宝物のマフラー”を“グルグル巻き”にされると、霧島は亮介の満足そうな笑みに顔を歪めた。
 
 
“‥重い”
 
 
“はぁ?”
 
 
“動きにくい”
 
 
“何言ってんだこの装備ならバッチリだぜ”
 
 
“でかい”
 
 
“うるせぇな文句言うな”
“凍えるよりゃマシだろ”
 
 
 亮介は“超絶不満そうな”霧島に、そのダウンジャケットとマフラーが自分にとってどれだけ大切なものでどれだけ大切にしている思い出の“シロモノ”かということを話した。
 
“俺サマのピュアーで甘酸っぱい淡くて初々しい思い出しても胸がキュンキユンする想いが激詰まりの超ウルトラスーパースペシャル重要アイテムだぞ”
 
“今まで一度たりとも他人に貸したことなんてない”
“むしろこのマフラーは外に出したこともねぇ激レアな神的希少価値のある…”
 
 
「それを、おまえに貸してやるって言ったんだ。なのにあいつときたら‥」
 
 
“いいよ”
 
 
“は?”
 
 
  霧島は首に巻かれたマフラーを丁寧にほどき始めた。
 
 
“わぁバカ、バカ野郎かおまえは”
 
“べつにいいよ”
 
 
“違うだろ、そうじゃねぇよ”
 
“何が”
 
“だから俺が言いたいのは――”
 
“どうせ重いし動きにくいし”
 
“てめぇ”
 
“このマフラー太すぎるし長すぎるし暑いし真っ赤だし”
 
“うるせえよだまれ”
“ほんとかわいくねぇな、馬鹿正直モノかおまえは”
 
 
 霧島は外したマフラーを亮介の前に突き出した。
 
 
“亮介にとってそんなに大事な物なら持って行けない”
 
そ して霧島はたった今着せられたジャケットも脱ぎ始めた。
 
“だから違うって、そうじゃなくて”
“そうじゃねぇよほんと鈍いヤツだな”
 
“?”
 
 
「あいつマジだからな‥あいつこそピュアの塊だっつーの。あの黒目がちのくっきり澄んだ目で、俺のことじぃっと見てさ‥こう切れ長の真っ直ぐな視線を俺に向けて‥」
 
「まぁ、あいつには口で言ってやらねぇとわかんねぇから」
 
 
“絶対に返せってコトだろうが”
 
“…?”
 
“俺の超絶大事なモンってことは、それをおまえに貸すってことはだ、絶対に、必ず返せってことだよ”
 
 
“‥?”
 
 
「キョトン顔がまた小憎らしいっつうかかわいいっつうかマジでイラついたんだけど」
 
 亮介は“イマイチ飲み込みの悪い”霧島の両腕を掴み、その前髪の隙間から覗く瞳を真正面からじっと見据えた。
 
「絶対に、必ず返せってことは、絶対に、必ず帰って来いってことだ」
 
 
“―――‥‥‥”
 
 
 亮介はまだ湿っている霧島の前髪をかき上げ、その切れ長の黒く澄んだ瞳に強く、深く、こう刻んだ。
 
 
“絶対に帰って来るって約束しろ”
 
 
“――――‥‥‥”
 
 
 何事も、大切なことは何をやったかというよりもどこまでやったかだ。
俺はそう言った。
 だから自分が納得いくまでやってこい。
 俺はそれを応援する。

 ただ、
 
 
“これだけは約束しろ”
 
 
“絶対に帰って来い”
 
 
 
 
 亮介は“後悔することを覚悟で”霧島を店の外へ出した。
 冴子に怒られることも怒鳴られることも泣き叫ばれることも、この先自分が抱え続ける心配や不安も“想定して”霧島を送り出すことに決めた。
 
 
「“行ってきます”は?」
 
 
“行ってきます”は、“行って必ず帰って来ます”っていう約束事なんだよ。
 
 
“だって帰って来るんだもの”
 
“そんなのいらないよ”
 
 
 
「俺は夏目とは違うから、いるんだよ」
 
 
 
 大きく開いた“業務用みたい”な“重い”黒い傘の下で、霧島は亮介を振り返った。
 
 
“待て”
“ありがとうもごめんもナシだ”
 
 
 
“絶対帰って来る”
“それだけでいい”
 
 
 
 
 真っ赤なマフラーに埋もれた白い頬
 
 雪の世界へ吸い込まれていく黒い後ろ姿
 
 
 
「その瞬間から俺の後悔は始まっていた」
 
 
 
 亮介はもうずっと、長く、深く傷ついている。

 あの大雪の日の出来事を、亮介は今でも酷く後悔している。

 亮介も、もうずっと長い間霧島の帰りを待っている。
 

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