長編小説「きみがくれた」中‐51
「知らない思い出」
“ばばちゃん、このお花かわいいね”
“ばばちゃん、このお花すごく小さいね”
“ばばちゃん、このお花、なんていう名前?”
“それかい、それはね、すみれ”
“あのスミレはね、きっとばばちゃんの大好きな人が、ずっと昔にあそこに種を蒔いたんじゃないかなぁ”
“だってあのスミレを見てる時のばばちゃん、すごく幸せそうだもの”
“これはね、ずっと昔に、ずっと遠くの国からやってきたの”
“遠くの国?”
“そう”
“こことは違う土と、こことは違うお水と、それからこことは違う太陽の光。”
“本当は、この土地を選ばないお花なの”
“選ばない?”
“芽を出そうかな、よそうかな、ってね”
“でも、こんなにたくさん咲いてるよ”
“そうねぇ、今ではこんなにたくさん、咲いてくれたねぇ”
“たくさん、たくさん時間をかけて、少しずつ、ほんの少しずつ、数も増えてくれたねぇ”
“そんなにたくさん時間がかかるの?”
“そお”
“たくさんて、どのくらい?”
“そうねぇ、まーちゃんが生まれるよりも、ずっと、ずーっと、前からねぇ”
“えぇ!そんなに?!”
“――ふふふ”
“その人はきっと、遠くの国で偶然あのスミレを見つけてさ”
“ばばちゃんに本物を見せてあげたくなったんだよ”
“だから種を持って帰ったんだよ”
“花を摘んでも枯れちゃうから”
“本物を見せてあげたかったんだ”
“たくさん時間がかかっても”
“ねぇ霧島”
“それってすごいことだと思わない?”
“土も、水も、光も、全然違う環境で、何十年もかけて花を咲かせたスミレも”
“ねぇ霧島”
“植物ってすごいよね”
“ねぇ霧島”
“そう思わない?”
“霧島!”
“こっち見てよ霧島!”
“ほらここ!”
“見てよ、ばばちゃんのスミレが咲いてる!”
“もう、ほんと霧島は全然植物に興味ないんだからなぁ”
◆
翌日、アネモネの向かいの大きな楓の木の下にマーヤは立っていた。
幹に両手を添えて立つその横顔を見上げると、珍しく笑顔が消えていた。
店の外へ出て来たのは“最近すっかりお姉さんらしくなってきた”赤いランドセルの美空だった。陽の手を引きトラックから積み荷を降ろしている亮介の側へ歩いて行く。
「パパぁ、はるがまた幼稚園の黄色いバッグの中にお菓子入れっぱなしにしててぇ、中でぐちゃぐちゃになっちゃっててぇ、ねぇ見てぇこれぇ、こんなになっちゃってるのぉ、もぉみくやんなちゃうー」
繋いだ手を振りほどこうとする陽の体を引き戻し、無理やり後ろから抱きかかえながら、美空はそのバッグを亮介に広げて見せた。
「あー、そうか、じゃあ美空がきれいにしてやってくれ」
「えぇーやぁだぁ、だってぇ、わたしもう学校に行かなきゃいけない時間なんだモン、もうすぐあやちゃんときぃちゃんとたつきくんが迎えに来てくれるんだモン」
「逆さにしてポンポンってしてやってくれ、そこは後でパパが掃いとくから」
「え~~~、もぉやぁだぁ、ばかはるー!いっつも、いっつもいーーーっつもわたしがやってあげてるのにぃーー」
美空は口をとがらせながら、バッグを逆さにして底を叩いた。
「あーあぁ、もったいなぁい!はるのばかぁ」
それはこのところよく見かける、幼い二人のありふれた光景だった。
美空は亮介の足にまとわりつく陽を引き剥がし、自分の腕の中に納めようとする。
その二人の姿に、マーヤはじっと見入っていた。
「美空ありがとう、もういいわよ」
店の中から顔を出した冴子が嫌がる陽を捕まえている美空に声を掛けた。
「あとはママがやるから‥ほら、あっくん!」
「きゃあ!ちょっとママ、しぃっ!!」
お客さんの花束を仕上げながら舌を出す冴子に、美空は顔を真っ赤にした。
「もうっ、ママ!」
「はい、行ってらっしゃい!きぃちゃんたちも後ろから来てるわよ!」
「あ!ほんとだ!行ってきまぁす!」
美空は持っていたバッグを陽の首に引っ掛けると、真っ赤なスカートをひるがえして駆け出した。
「行ってらっしゃい、気を付けてね!」
冴子は美空の後ろ姿を見送ると、すぐに店へ戻って行った。
「ママぁ」
おぼつかない足取りで冴子を追う陽を見守りながら、亮介は積み荷を店の入り口まで運ぶ。
「ママぁー」
陽の甘えた声に冴子は「はぁい、ここよ」と返事をし、仕上げた花束をお客さんに見せた。
「お待たせしました、こちらでいかがですか」
「まぁ、素敵、先方もきっと喜ばれるわぁ!」
美空ちゃんもすっかりお姉さんになって。
ええそうなんです、弟の面倒をよくみてくれるので、この頃は安心して任せちゃってます。
「いつもありがとうございます、またお待ちしております」
笑顔でお客さんを送り出すと、冴子は足元の陽を抱き上げた。
「さぁてと、お迎えが来る前に、お帽子取って来ないとね!」
陽は帽子が嫌いで、“いつの間にかどこかで脱いでくる”。
それは“不思議なことに”小さい頃の亮介と同じ“性質”だった。
“陽は俺にそっくりなんだ”
亮介はどこかくすぐったそうな笑顔でそう話していた。
「―――――‥‥」
長い箱から切り花を取り出し、作業台の上に乗せていく亮介と、それを次々受け取り“水揚げ”をしていく冴子の様子を、マーヤは呆然と見つめていた。
“冴子さん、髪切ったんだね”
“まるで機械みたいに速くて正確”な冴子の仕事で、床に並ぶいくつもの細長い“オケ”は見る見るうちに 色とりどりの花で埋まっていく。
“あの細腕で”“意外とパワフル”な冴子の作業は、“一つの無駄もなく”“魔法がかかったように”あっという間に“完成する”。
けれど今日そんな冴子の姿を初めて見たマーヤの視線は、もう小さな陽に移っていた。
慌ただしく作業が続くその外側で、さっきからずっと店頭に並ぶ赤い花鉢の前にしゃがみ込んでいる。
「クロアゲハ―――」
そうマーヤが呟くと同時に、陽の手のひらよりも大きな“チョウ”が舞い上がった。
陽はつられて顔を上げると、その行き先を追うように両手を上げて立ち上がった。
「陽ー?はーるー!」
大量の葉やら茎の切れ端やらを豪快に掃き集めながら、冴子はいなくなった陽を呼んだ。
「陽ー!どこ行ったのー!陽ー!!」
幼稚園児が2、3人入りそうなビニール袋を広げ、集めた緑の山を両手で一気に押し込んでいく。
「やだ陽、また帽子!どこやったの?!」
「まぁた、どこ隠しやがったんだ?」
亮介はあっさり陽を捕まえ、その小さい体を軽々両手で持ち上げた。
「きゃっきゃっやぁだ、やーあーだぁ!」
「どこに隠したんだ小僧!吐け!ほらっ吐け吐け!!」
「やぁだくすむったい!やぁ!きゃっはは!やぁめてっ!きゃはは!!」
「―――――‥‥」
亮介から逃れようと手足をバタつかせる陽を、マーヤはぼんやりと眺めている。
「おらおらこれでもか!こうか!」
「きゃっきゃっ!やははっ!くすむったぁいったらっ!いやぁひゃひゃっ!!」
それはいつもの、よく見かける光景だった。
陽とじゃれる亮介の、父親の顔。
“冴子さん、髪切ったんだね”
「――――きれいな人だね‥」
“亮介さん、残念だろうな”
“だって亮介さんは、冴子さんの長い黒髪が”
「――――亮介さん‥」
マーヤのこんな顔は初めて見た。
笑顔に陰る僅かな戸惑い。
「もう、陽ったらバス来ちゃうわよー!」
亮介と陽が遊んでいる間に、冴子は花束づくりの残骸が詰まった大きな袋を体全部で押し込み、端を強く縛った。
それを店の裏へ持って行き、それから“オケ”に入れた切り花を全て透明な冷蔵庫の中に並べ終えた。
開店の準備が整うと、冴子は店の外へ出てまだ店先で遊んでいる二人の様子を伺った。
「あった!ここにあったぞ!」
「きゃっきゃっ!やぁだっやぁだぁ!!」
亮介はトラックから飛び降りると陽を捕まえ帽子をかぶせた。
「やぁだじゃねぇ!このこのこのォ!!あんなとこに突っ込みやがって!リスかおまえは!」
亮介は片手で陽を抱き上げ肩に担いだ。
「コラあばれんな!子ザル小僧!」
亮介は陽のお尻をはたきながら、冴子の下へ連れて行った。
“―――ね‥あの子、誰―――?”
「―――亮介さん、‥結婚してたんだ‥」
そうぼんやりこぼした後で、マーヤはまだ3人を不思議そうに見つめていた。
「知らなかったなぁ‥僕‥、――」
“亮介さんは僕らの中学の卒業生でね”
“いつも花壇の手入れを手伝ってくれて”
“亮介さんは花壇に植える花苗を納品する業者さんだったんだ”
「あんなにかわいい子供ちゃんが二人もいたなんて‥」
マーヤはどこか不思議そうにつぶやくと、けれどその表情はやがて笑顔に変わった。
「そうか‥亮介さんあんなにかわいい子供ちゃんが――」
そしてその笑顔はほどけていく。
「亮介さん、確か‥手嶌川の園芸店で働いてるって‥」
「知らなかったなぁ‥僕―――」
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