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長編小説「きみがくれた」中‐53

「勇気」


 翌朝、いつもの月見山からの帰り道、もう一度アパートの跡地に寄ってみると、満開の薄ピンク色の花を背景にマーヤの姿が見えた。

「樫小に行こう」

 霧島とマーヤが通っていた樫の森小学校は、アパートがあった樫の森のどんぐり山の向こう側にある。
“今にもアパートを呑み込みそう”だった森は木々が生い茂り、一歩中へ入ると急に空気が冷たくなる。
 
 マーヤは山頂の方角へ体を向け、深くお辞儀をしてから先へ進んだ。

「山の上には山の主がいるんだよ」

「山の主は樫小の校庭にそびえ立つ大きな楠の木とは比べ物にならないほどスケールが違うんだ」

「一度会うと、忘れられない存在感があるんだ‥」

 その場所へ着いて行ったことはなかった。

“樹と風の共演”

 
「山の主の下に立って、風を待つんだ」

「山全体を駆け上がるような大風が吹き上がるのを」

「遠くからゴーーーって風の唸り声が響いてきて」
「その風の地響きに巨大な樹の体全体が共鳴して」

「空を覆う程の葉がいっせいにザーーーーーっっ・・・と音を立てる」

「まるで無限大の風のエネルギーに応えているようで」


「僕は自分の体が自然の一部になったような感覚になった」


 マーヤはゆっくりと歩きながらそう話してくれた。

 「大きな山の主と、大風に呑み込まれていくような‥」

 自分がとてもちっぽけに思えてうれしくなるんだ。


              ◆


 山の上から風が吹き降りていく。
 まるで流れる水のように、木々の葉音が森全体に響き渡る。

 マーヤは気持ちよさそうに両手を広げ、大きく息を吸い込んだ。

「僕が初めて霧島を見たのは、小学校の入学式の日だった」

 木洩れ日を頬に浴びながら、マーヤは独り言のように話し始めた。

「体育館での式が終わって、僕と母さんも外に出て、校門にはたくさんの人だかりができていた‥みんな、門の側にたった一本だけあった桜の木と一緒に写真を撮りたくて順番待ちをしてたんだ」

 その年はまだ花が残っていた。

「僕たちもその列に並んだ‥周りにいたお母さんたちは、桜が今日まで散らずに残っていてくれてよかったわね、とか、いい写真が撮れたわね、とか言っていて‥母さんもやっぱり“きれいね”とか、“入学式らしい写真が撮れたわね”とか、そんなことを言っていたと思う」

 そして写真を撮り終えたマーヤは、そこから少し離れた場所にその“親子”を見つけた。

“桜があってよかったねぇ”

 僕と同じ新一年生と、隣にいた女の人―――

「桜があってよかった、ってその人が言ったのがとても印象的だったんだ」

「その人に手を繋がれて、一緒に桜を見上げていた―――あの時の霧島が、なんていうか‥子供らしくないっていうか―――‥僕も十分子供だったけれど、そんな風に感じたんだ‥」

 あの日、ばあちゃんと“唯一の桜”を見ていた霧島のその表情が、マーヤの胸を“ツンとさせた”。

「うれしいのか、悲しいのか、悲しいとすればなぜ悲しいのか‥みんなが晴れ晴れとした気持ちで満ち溢れているその日に、あいつは―――ばばちゃんの言葉にも何も答えずに、ただじっとその桜を見ていたんだ」

 栗色の髪が風に揺れ、マーヤの白い頬をされりと撫でる。
 あどけなさが残る横顔はどこか淋しそうに見えた。

 マーヤはその日から“ずっと霧島と友達になりたいと思っていた”。

「僕がやっと霧島と同じクラスになれたのは、3年生のクラス替えの時。うれしかったなぁ―――…やっと、同じクラスになれた‥これでやっと話ができる、やっと友達になれる―――家に帰ってすぐに母さんに報告したよ‥夢が叶った!って‥今日はお祝いだよ!って」

――――僕、本当に、本当にうれしかったんだ――――

 マーヤは足を止めたまま、静かに空を見上げた。

 細かい光と葉の緑色、その先に真っ青な空が垣間見える。

 けれどそれから数ヶ月経っても、マーヤは“きっかけ”を掴めずにいた。

「僕の席は一番廊下側の、ちょうど真ん中くらいの席で、霧島は窓側の一番後ろだったんだ‥霧島は休み時間になるとすぐにクラスの女の子たちに囲まれちゃうから、僕が入る隙間なんてこれっぽっちもなかった‥もちろん給食の時間もね」

 放課後になると霧島は“誰よりも早く”“いつの間にかいなくなっていた”から、マーヤは一緒に帰ることすらできなかった。

「結局僕はせっかく同じクラスになれたのに霧島に話し掛けるどころか近付くことさえできなかったんだ」

 多分あいつ、僕の存在にも気づいてなかったんじゃないかな‥

 マーヤはそう言ってくすりと笑った。

 毎日女の子たちに囲まれて、にぎやかなグループの真ん中にいた霧島は、けれどいつでも退屈そうに見えた。
 顔を背け、頬杖をついてぼんやり窓の外を眺めている様子は、周りの子たちの話なんか“ちっとも聞いていないようだった”。

「僕は自分の席から女の子たちが何を話しているのか聞いてたんだ」
 マーヤはそうくつくつ笑った。
「みんな霧島にいろんな質問をしてたな‥あいつが全く反応しなくたってへっちゃらでね」

 マーヤはいつも“その時”がくるのを待っていた。

 体育の授業のグループ分け、遠足のバスの席や班決め、次の席替え―――

「いつか霧島と話すチャンスがきますように、って、お祈りしてた‥社会の発表をする班が一緒になりますように、壁新聞のグループが一緒になりますように、掃除当番が一緒になりますように‥ってね」


 大きな楠木の側で、マーヤはその幹に手を添えた。
 それから地面に張り出した根もとに腰掛け、その幹肌に体を寄せた。


 ある日の昼休み、“その時”は突然やってきた。

“霧島くんっていい匂いするよね!”

 それは霧島を取り巻く女の子の中の一人が発した言葉だった。

 その誇らしげな少女の一言が、初めて霧島の視線を動かした。

「そうしたら周りの女の子たちがいっせいに騒ぎ出したんだ‥“ほんとだいい匂いする!”って口々にね‥」

“なんの匂い?”
“どうしてこんないい匂いするの?”
“香水付けてるんだ!”
“なんの香水?”
“なんで香水付けてるの?”

「すごい騒ぎになっちゃってね‥そのうち自分はもうずっと前から気付いてたとか、私だって知ってたとか、なぜか女の子たちが競い合いみたいなことも始めちゃって」

 女の子ってほんと不思議だよね、とマーヤは笑った。

「僕はその時、教室の花瓶の水を取り替えに行って戻って来たところだったんだけど、窓際の先生の机の上に花瓶を置いて、その騒ぎを聞いてたら‥今度は別の女の子が」

“霧島くんてかわいいよね!!”

「って言ってみんなの注目を集めて‥」

 色が白くてお人形さんみたいだとか、目が大きくてまつ毛が長いとか、髪が黒くてキレイだとか、白目と黒目がはっきりしてるとか‥

「とにかく女の子たちがキャーキャー言ってさらに盛り上がっちゃって、僕はなんだか気が気じゃなかった‥あの騒がしい声が飛び交う中で、霧島がどんな顔して座ってるのかと思ったら、胸がざわざわしていてもたってもいられなくて‥」

“ラベンダーだよね!”

「僕、咄嗟に叫んだんだ‥ラベンダーだよね!って」

 マーヤは“今だ”と思った。
 “自分でもびっくりするくらいの大きな声が出た”。

「僕の声に驚いた女の子たちがいっぺんにこっちを振り向いて、その瞬間、塊が二つに割れて、女の子の壁の向こう側にいた霧島と目が合ったんだ」

 マーヤは“体の底からドキドキが突き上げた”。

「大きな目でこっちをじっと見て―――離れた場所にいたのに、僕すっごく緊張してた‥心臓が生き物みたいにばくばく動いて、足もいうこときかないくらいガクガクしてた」

“ずっとずっと待ちに待っていた”“3年越しの待ち望んでいた瞬間”が“今ついに叶った”。

「初めて自分から話しかけたものだから、僕は完全にハイになってたと思う」
 そう話すマーヤはおもしろそうにあははと笑った。

“ぼくもラベンダー好きだよ”
“お母さんが家でいろんなハーブを育ててるんだ”
“ラベンダーは夏に刈り取って家の中に吊るしておくんだよね”
“乾いたらタンスの中に入れたり靴箱に入れたりテレビの部屋に飾ったりしてるよ”

 クラス中がマーヤの話に注目していた。

 やがて女の子たちの興味は一気に“ラベンダー”に移った。

“私知ってる!”
“おみやげにもらったことある!”
“私だって知ってる!”
“うちのママもハーブやってるもん”

「僕は緊張で固まったまま、それ以上何もしゃべれなかったけど、女の子たちの興味が逸れて、そぉっと教室を出て行く霧島を見て、心底ほっとしたのを覚えてるよ」

 門の側に立つ“唯一の桜”は、今はもうすっかり緑色に変わっている。
 マーヤは懐かしそうに目を細め、遠く校舎の窓を見上げた。

「あの日はなんだかうそみたいに勇気が湧いてきて‥その後の授業も上の空だった‥僕は帰りの会が終わってすぐに廊下に出て、そしたら霧島がちょうど突き当りの階段を降りるところだった」

“霧島!!”

“一緒に帰ろう!!”

 廊下の一番端まで届けたマーヤの声は、霧島の足を止めた。

 その日はマーヤの“2つ目の記念日”になった。

 校庭にそびえ立つ大きな楠の木の下で、マーヤは満足そうに微笑んだ。
 その笑顔はやっぱり去年よりもずっと幼く見えた。

「それからあっという間に夏休みがきて、僕らは毎日一緒に遊んだんだ」

 ばばちゃんに植物のことをたくさん教わったし、手作りのプリンも―――初めて食べた時は僕おいしくてびっくりしちゃったよ。
 ばばちゃんの庭には植物がたくさん植わっていて、ラベンダーは僕らの肩くらいまである大きな株で、母さんもよくばばちゃんからハーブをもらっていた‥風邪の予防になるエキナセアは乾燥させてお茶にして、うがい薬になるタイムはお酒に浸けて、お肉料理に使うローズマリーはお化粧にも使うんだって‥

 そしてその年の夏休み中、マーヤの“3つ目の記念日”ができた。

「霧島が初めて僕の家に来た日にあの絵を見て―――」

“月と…花?”

「幼稚園の先生にも、あの絵を見た大人たちみんなに“将来は宇宙飛行士さんになりたいの”って聞かれたんだけど‥」

『ぼくの行きたいばしょ』

「幼稚園の頃に、大きくなったら行ってみたい場所を描きましょうっていう題目だったんだけど‥あの絵を月と花だって分かってくれたのは、霧島が初めてだったんだ」

 うれしかったなぁ――――

 楠の木の幹に額を寄せて、マーヤはそっと目を閉じた。

“ぼく、大きくなったらここへ行くんだ”

 小さい頃からのマーヤの夢。
 それは今も変わらず憧れの景色だった。

「いつかきっと行ける時が来るよ‥一番いいタイミングで、一番いい条件が揃う時に、いつか必ず―――」

 そう自信たっぷりな笑みを浮かべ、マーヤは清々しく晴れ渡る空を仰いだ。

“僕、出発の日決めたよ”

“何十年かに一度の絶好のタイミングなんだって”
 
“きっと史上最高の絶景が見られるよ”
 
 
“ついに夢が叶うんだ”
 
 
 
 長年の夢を叶えに行くマーヤの笑顔を、霧島は黙って眺めていた。



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