長編小説「きみがくれた」中‐56
「白い花束の日」
今朝もまだ暗いうちに外へ出て、お昼過ぎにマスターの店へ戻って来ると、駐車場に冴子の青い車が止まっていた。
カラララン・・・コロロロン・・・
お客さん数人と入れ違いで中へ入ると、カウンター席の端に冴子がいた。
「毎年ありがとう、とてもきれいだね」
いつの頃からかこの季節になると冴子は白い花だけで作った“ブーケ”をマスターに届けに来るようになった。
そして、その日の夜は決まってマスターはその花を手にどこかへ出かけて行く。
「やあ、お帰り」
出迎えたマスターに軽くあいさつをして店の中を見渡すと、昨日赤やオレンジだった客席の花はどれも白一色に変わっていた。
マスターに抱かれると、冴子が「久しぶり」と耳の後ろを撫でた。
母屋へ続くドアを開けて、廊下に上げてもらう。
部屋へ戻り、床に敷かれたタオルケットの上で丸くなる。
目を閉じて僅かに残る大好きな匂いに鼻を摺り寄せ、疲れた体をそっと委ねる。
霧島は今日もどこにもいなかった。
◆
その日マスターは普段よりも少し早く店を閉めた。
夕暮れを待つ空は薄く晴れ渡っていた。
アネモネまで行ってみると、メイプル通りの大きな楓の木の下にマーヤを見つけた。
店先ではまだ亮介と冴子が忙しそうに動いている。
「ママぁ、今日は陽のお迎え行かないのぉ?」
花鉢を抱える冴子の足元で美空がエプロンの端を引っ張った。
その甘えた声に冴子は美空の前にかがんで座り、花鉢を横に置いた。
「今日はほとり先生が一緒に連れて帰って来てくれるから、お迎えは行かなくてもいいの」
「ふぅん、なぁんだ、ほとりせんせい、うちに来るのぉ?」
「ええ、きっともうすぐ帰って来るわ」
「陽の心配してくれてありがとう」
冴子は「二人が帰って来たらお夕飯にしましょうね」と言って美空の頭を撫でた。
「はぁい!」
「今夜はほとり先生もお夕飯に誘おうか」
「えー!ほんと?!やったぁ!」
冴子は店頭に並んだ花を黒いケースにまとめていく。
その側で、美空は店の入り口に並んでいる花をひとつひとつ眺めながら立札の文字を読み上げていく。
「ゼ・ラ・ニ・ウ・ム、サ・フィ・ニ・ア、ブー‥ゲン、ビ・リ・ア」
「美空、ほら、アゲハがきたぞ」
“観葉植物”の大鉢を運んでいた亮介が美空の後ろを指さした。
「わぁー!ほんとだ、鳥みたい!」
「そうだなぁ、立派だなぁ」
「ねぇパパぁ、このまえねぇ、ミクのお友達のユリちゃんのぉ、おうちのぉ、屋根の下のとこのぉ、ところにねぇ、ツバメが巣を作ったんだってぇ‥うちにもツバメ来るかなぁ」
「うーんどうかな、うちは人がいっぱい出入りするからなぁ」
「ねぇパパぁ、このお花枯れてるのぉ?」
「それはそういう色の葉っぱなんだよ」
「えー?こんな色の葉っぱなのぉ?枯れてるみたぁい!」
「そうか、枯れてるみたいか、でもきれいだろ。」
「ねぇパパぁ、」
「ねぇこれはぁ?」
楓の木の幹に手を添えるマーヤの視線の先で、美空が亮介の足にまとわりついている。
「ミクちゃん、‥かわいいね」
その声色は前よりも落ち着いて響いた。
夕暮れが始まる赤みがかった空の下、おしゃべりな美空の幼い声が止め処なく聞こえていた。
「ママぁーー!!」
突然大きな声が響いた。
通りの向こうに一目散に駆けて来る小さな影。
そのおぼつかない足取りに美空は大声で呼び掛けた。
「陽!」
「マーマーぁ!」
店から出て来た冴子が両手を広げ、陽を丸ごと抱き留めた。
「ママ!」
「お帰り、陽」
「たぁっだいまぁ!!」
抱き上げられた陽は冴子の首元に顔を擦りつけながら両足をバタつかせる。
冴子はそれを片手で押さえながら、後から歩いて来たほとりちゃんに軽く頭を下げた。
「お帰りなさい、ほとりちゃん」
「先生!こんばんわぁ!」
美空が冴子の足に捕まりながらほとりちゃんにあいさつをする。
「美空ちゃん、こんばんは」
「陽おまかせしちゃって、ありがとう」
「いえ、全然です、遅くなってしまってすみません」
ほとりちゃんの手には陽の黄色いバッグと帽子。
「ううん、助かったわ、いつもありがとう」
冴子は帽子だけ受け取ると、陽を下に降ろした。
「陽、いい子にしてた?ほとり先生の言うこと、ちゃんの聞いた?」
「うん!ハルイーコにしてたっ!」
「ほんとぉ?」
「はい、陽くん、ちゃんといい子にして待っててくれました、ねー?」
「ねー!!」
陽はほとりちゃんの顔を覗き込み、体を横に反らした。
「ふふふ、ねー?」
陽はひとしきり冴子に甘えると、今度は亮介のところへ駆けて行った。
美空もそれを追って行く。
「ほとりちゃん、ちょっと待っててね、今持って来るから」
冴子は亮介とたわむれる二人を見届けてから店へ入った。
「かわいいなぁあの子」
マーヤは亮介の肩によじ登る陽を見つめ、「元気いっぱいだ」とうれしそうに微笑んだ。
「ミクもぉー!カタグルマがいいー!」
「やぁっだ!やぁだ!きゃははは!」
「もぉいっつも陽ばっかりズルいぃー!」
「美空はそろそろ無理だろう、カンベンしてくれ」
「いけー!進めー!パパロボーーーっ!パーンチ!」
陽は両手を振り回しながら大きな声を上げている。
「あははは!いいなぁ、楽しそうだね!」
マーヤは笑いながら亮介の上の陽に向かって手を振った。
すると陽がこちらに気付き、さっきよりもっと大きな声でこちらへ叫んだ。
「マーヤ!!」
その声に亮介とほとりちゃんが一瞬固まった。
「あはは!ハルくん」
マーヤはこちらへ手を振る陽に両手を大きく振って見せた。
慌てて店から出て来た冴子が、二人と目を見合わせる。
「陽?今なんて―――」
「あはははは!すっごい大きな声が出たね!あはははは!」
マーヤは亮介の上からこちらに両手を振っている陽に手を叩いた。
「‥今、何て?」
亮介は肩に乗せた陽の両足を掴んだまま、ほとりちゃと顔を見合わせた。
ほとりちゃんは陽のバッグを握りしめ、表情を硬くしたまま亮介を見つめている。
「陽‥おまえ―‥」
こちらへ手を振る陽を見て、亮介とほとりちゃんもこちらへ目を向けた。
冴子は陽とほとりちゃんを交互に見て、それから亮介を見上げる。
その表情は明らかに戸惑っていた。
「もぉ~~~!!陽ウルさぁい!!耳がおかしくなっちゃうぅ~~!!」
美空だけがいつものように陽を叱った。
亮介の後ろに回り、陽のお尻を叩いている。
「やぁだっ!ヤメロ!」
陽はその美空の手を払おうと体を反らせる。
「もぉっ!バカハル!!」
「やぁっだ!やぁだ!ヤーメーロ!」
「ちょ、危ねぇから暴れんな」
亮介の声はほとんど上の空で、けれど陽の足だけはしっかり掴んでいる。
「何、今の‥」
冴子はほとりちゃんを気遣うように亮介と顔を見合わせた。
とうとう叩き合いを始めた陽を下に降ろし、亮介は逃げようとする小さな体を腕の中に引き戻した。
「おい陽、おまえ今、何てった?」
亮介にがっちり押さえつけられ、けれど陽は美空との戦いに夢中だった。
「美空、ちょっとたんま、一端休戦」
「えーなんでぇ?もうっパパはいっつも陽の味方なんだからぁ!」
「違う違う、ごめんマジでちょっと待って」
亮介は美空の肩を撫でながら、こちらに手を振る陽に目を見張った。
「陽――‥」
「くくくっ…!」
陽の視線の先に怪訝な顔を向ける亮介に、マーヤはいたずらな笑みを浮かべた。
「しーっ」
マーヤは陽に向かって人差し指を口元に当てて見せた。
すると陽も鼻先に指を押し当て、「しぃーーーーーっっ!!!」と大声で叫んだ。
「あはははは!あははははは!!」
マーヤは陽の動きに大笑いしながら、「鼻じゃないよ、口だよ!」と言った。
「口だよーーー!!しぃーーーっっ!!」
「―――?!」
大人たちは陽の様子に益々言葉を失った。
「うるっさいなぁもう!バカハル!いちいち大きな声出さないでよっ!」
美空は陽のおしりをはたき、「バカハル!」と繰り返した。
「もぉ、マーヤってミツバチのことでしょぉ?!どこにもいないじゃん、ハチなんてっ!あれはね、アゲハチョウ!チョウチョよ、チョウチョ!ハチじゃなくて、チョ・ウ・チョ!分かった?!」
美空に両手でほっぺたをいじくられながら、けれど陽はおもしろそうにマーヤのマネをしている。
「しっしっししー!しーしーしー!!」
「ハチ‥?」
冴子はそう呟いて、もう一度こちらへ目を向けた。
ほとりちゃんは少し離れた場所で恐る恐るこちらを見つめている。
「ねぇママぁ、ミクお腹空いたぁ!早くおうちに入ろぉよぉ。」
立ち尽くす冴子のエプロンを引っ張り、美空が甘えた声を出す。
「ねーぇったらぁ、ねぇ、マーマーぁ!」
美空に促され、冴子は気が付いたように持っていたブーケをほとりちゃんに差し出した。
それは昼間マスターに渡していたブーケと同じ白いブーケだった。
「あれ、すごくかわいい花束だね!」
「ラナンキュラス、フランネルフラワー、ビバーナム、ラムズイヤー、それとあのバラ―――」
“冴子さん、僕この白いバラ好きだなぁ!”
「あの白いバラは何ていう品種かな‥カップ咲きのあんなに大きな‥」
マーヤはその“カップ咲き”の白い“大輪のバラ”を初めて見るような目で見つめている。
「僕、あの白いバラ好きだなぁ」
そう言ってマーヤはうれしそうに笑った。
「他の花も、僕全部好きだなぁ!」
「ほとりちゃん――‥大丈夫?」
ブーケを両手に抱いたまま黙って体を硬くしているほとりちゃんに、冴子は心配そうに声を掛けた。
「どうしたんだろう、あの人全然うれしそうじゃないね」
あんなにかわいらしい花束なのに‥
「ほとりちゃん―――」
冴子はほとりちゃんの側へ寄り、その背中にそっと手を添えた。
「元気ないね‥どうしたのかな」
マーヤは白い花束を抱きしめるほとりちゃんを心配そうに見つめた。
「“ほとりちゃん”、その花束、とってもかわいいよ」
マーヤはその哀しい瞳に、にっこりと微笑んだ。
「ほとりちゃん‥」
頬を滑る一筋の涙が、白い花びらにぽたりと落ちた。
「先生、今日うちで一緒にごはん食べるんでしょぉ?」
立ち尽くすほとりちゃんの足元で美空がその手を引こうとしていた。
「あの人、お腹痛いのかな‥大丈夫かな」
マーヤはそう控えめに手を振った。
「僕はその花束、大好きだよ」
ほとりちゃんの涙があとから溢れ、白い花束を濡らしていく。
「あ‥あの人、――淋しいんだ‥」
マーヤはぽつりと呟いて、心配そうにその涙を見つめていた。
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