見出し画像

長編小説「きみがくれた」中‐63

「誕生日」


 その夜遅く、部屋のドアをノックする音で目を覚ました。

「もう寝てたね」
 暗闇の中、ドアの隙間から顔を出したのはマスターだった。

「ちょっと付き合ってくれないか」
 珍しくこの時間に夜コーヒーを引き上げて、母屋へ上がってきたようだった。

 マスターがこんな夜更けにここへやって来ること自体が初めてのことだった。
 まして寝ているところを起こし、こんな風に誘うことも今まで一度もなかった。

「リビングにいるから」

 そう残してドアの向こうへ消えていく足音を聴きながら、重い腰をゆっくり上げた。

 照明を落とした部屋は程よく暖かく、画面の明かりがやけに眩しかった。
 マスターはその手前に置かれたテーブルの上で何か機械をいじっていた。

「今夜はこれを観たくなってね」

 マスターは手にしていた円形の平たいオレンジ色を“ハチミリテープ”だと言った。

「央人1歳の誕生日会」

 ソファに上げてもらい、画面の明かりに目を細める。
 マスターは機械と向き合いながら、独り言のようにこう言った。

「誕生日会をやろうって、俺が言い出したんだ」
 あの時のあいつの表情(かお)が―――今も忘れられない―――。

 オレンジ色の古びた“8ミリ”を“再生”し、マスターはソファに腰を下ろした。

“ほんとのやつ?”

「俺は誕生日会なんて誰でもやってるもんだと思っていたん。そういう人生を送ってきた。でもあいつのあの言葉を聞いて、はっとしたんだ。自分が当たり前にしてきたことが、当たり前だと思っていたことが、そうじゃない人もいる――自分の誕生日がいつなのか、そんなことを考えたこともない―――それが当たり前の人もいるということに」

 マスターは画面の明かりを消した。

 白い壁に映像が映し出され、その中にいたのは霧島にそっくりなあの人だった。

 息を呑む程そっくりだった。
 背格好、纏う(まとう)雰囲気、目元も口元も顔のラインも―――
 まさに霧島そのものだった。

 声は良く聞こえないけれど、その音、発声が身体の奥に重く響いた。

 あの日、何もない空っぽの部屋でマスターが見せてくれた、たくさんの写真、そのどれよりも動くその人は“本物”だった。

“じゃあそのローソクに火をつけて”
“うん全部、1歳だけど1本じゃさみしいからいっぱいもらってきたんだよ”

 それってどういう意味?

 耳に心地よく響く女性の声が遠くで聴こえた。

 所々にマスターの声に似た音が入る。
 若者らしい高いトーンの声色。

“そうそう、そしたらこっち向いて”
“志緒ちゃん、央人こっちに向かせて座らせて”

 暗闇の中、呼び掛けられ振り向いたその人は、写真にも写っていた女性だった。
 ローソクの火に照らされた白い頬、長いウェーブがかった髪、白いワンピース。

 その膝に上に座っているのは

「これ、央人だよ、この日は央人の1歳の誕生日」

 やっぱりかわいいなぁ。
 
 今の陽よりずっと小さく、あどけないその表情に、マスターは懐かしそうに目を細めた。

 真っ黒な丸い瞳に白い肌、ピンク色の丸い唇。
 霧島とは全然似ていないその幼い子供は、母親と“瓜二つ”の顔だった。

 その隣でローソクの火をじっと見つめている“聖”は本当に霧島にそっくりだった。

 
 けれど、この人は何かが“欠けている”。
 こちらを不安にさせる何か―――果てのない“危うさ”
 そこにいるのにいないような、不思議な存在感があった。


“じゃあローソク吹き消して”
“消したらみんなでハッピーバースデーって言うんだよ”

「あぁそうそう、これ、この顔‥聖のキョトン顔――たまにするんだよ、これ‥」

“いーのいーの、せっかく付けたけど、消すの、そういうモンなの”
“そう、全部だよ、ふぅーって消して”
“ほんとはお誕生日の人が吹き消すんだけど、央人はできないだろ”

「ははは‥今付けたばっかなのにもう消すの?って‥あはは」

“はいじゃあ電気付けて”
“プレゼントはここ、持って来て”

 明かりが付いて、3人の様子がはっきりと見えるようになった。

「あぁ‥志緒ちゃん、本当にかわいいなぁ‥この頃の央人は志緒ちゃんにそっくりだ‥二人とも精巧に造られたお人形みたいだろう」

 そう話すマスターの横顔は普段とはまるで違って見えた。

「この後、プレゼントを央人に――ははは、あいつなんか緊張してるんだよなぁ」

“あるわ、ここに”
“航平さん”

 はっきりと聴こえたその声に、全身の皮膚が波打った。

 白い頬にかかる栗色のウェーブに小さな手がじゃれている。
 その幼い子供を優しくあやしながら、女性は近くにあった紙袋をこちらへ差し出した。

「おぉ‥志緒ちゃんのアップ‥この一瞬、俺思わず見とれちゃったんだよ‥こっちを見上げる角度が絶妙だったんだ」

 柔らかそうな薄茶色の前髪、大きな黒い瞳、小さなピンク色の唇。
 その腕に抱く子供をそのまま少し大きくしたような――。

“聖、それを央人に渡して”
“ハッピーバースデーって言って渡すんだよ”

“お誕生日おめでとうでもいいよ、どっちでも”

「―――――‥」

 マスターの掛けた声に、その人はじっとこちらを見つめた。

 霧島とそっくりな、けれどどこか不安になる”儚い存在感”、“そこにいない”ように見えるその人は、色白の薄い肌と華奢な顎、

 そして“まるで深い深い海底のように”

 “吸い込まれそうな瞳”―――――――。


「誕生日おめでとう」

“航平さん、それはどういう意味?”

 そう尋ねる女性は小首を傾げこちらを見上げた。
 お人形のような小さな丸顔に、濡れたように澄んだ黒い瞳。


“ほんとのやつ?”


“航平、ほんとのやつやってくれる?”


カラララン・・・コロロロン・・・

 画面から聞き覚えのある音が聴こえた。

カラララン・・・コロロロン・・・

“何、それ”

カラララン・・・コロロロン・・・

 小さな手がベルのひもを引っ張っては興味深げに耳を澄ます。

カラララン・・・コロロロン・・・
カラララン・・・コロロロン・・・

“素敵な音色でしょう?”

 ベルの音のように優しく微笑む母親の腕に揺られ、幼い子供はうれしそうに笑った。

“ドアベル?なんで?”

 その声にこちらを向いた“聖”の、その薄い微笑みは、寒気がするほど霧島そのものだった。
 そこにいるのは全くの別人なのに、霧島を想った。

 霧島に会いたい。
 そう強く思った。

 
 その人は口の端を少しだけ上げてこちらを見つめ、それから母と子に視線を戻した。

“音は、繋がってるから”

 その声に耳の奥が震えた。

 霧島がここにいない不安が襲った。

“それどういう意味?”

“この子に、末永く良い音が響きますように――”


 もう一度聞きたかったその声は、もう聞けなかった。

 初めて聞いたその声が耳の奥から離れない。
 霧島に会えない不安がその声に纏わりついている。

“央人、お誕生日おめでとう”

 長い髪にじゃれつく小さな手を取り、女性はその小さな丸い頭に頬を寄せた。
 その隣に寄り添うように腰を下ろし、“聖”は骨張った大きな手で子供を受け取った。
 小さな体は父親の腕にすっぽり収まり、その胸に顔をうずめる。


“ありがとう、航平”


 音は聴こえなかった。
 けれど確かにこちらを見上げるその人の口はそう言っていた。


“ありがとう”


 その消え入りそうな薄い笑みがマスターにとってどれだけ掛けがえのないものかということはすぐに分かった。


 映像はそこで終わった。

 そして部屋は真っ暗になった。


「‥――やっぱ‥まだムリだ――‥‥」

“本当はこれを見せてやるのが一番いいのかもしれないけど”

 あの日マスターは2階の部屋の本棚に向かってそうつぶやいていた。

“今はまだ”

“俺が無理だ”

「‥っはぁ――‥‥全然ダメだ―――」

「‥‥まだ‥ダメなのか――――‥‥」

“時間なんて、何の意味もない”

 暗がりにマスターの鼻を啜る音が響く。

「これを央人と一緒に見るなんて――‥‥」

 マスターは勢いよく鼻を啜り上げた。

「あと2本あるんだけど‥――もう、限界だ―――」

 マスターはその2本を“一度も直視したことがない”と言った。

 映像の音を聴くだけで精いっぱいだ、と。


 マスターはそれから長い時間一人静かにすすり泣いていた。
 こらえるように震える背中は込み上げるたくさんの想いを必死に受け止めているようだった。

 
 夜明け前、いつものように暗がりで目を覚ますと、マスターはまだソファに横たわっていた。

“遅くまで悪かったね”
“付き合ってくれてありがとう”

 真っ暗な部屋でマスターの哀しい声が聴こえた。


“聖、誕生日おめでとう”

 最後にそうつぶやいたマスターの涙に震えるその声は、行く当てもなくいつまでも闇の中に漂っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?