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長編小説「きみがくれた」中‐➁

「長い夜」


 窓の外は見渡す限り真っ白で、空と地面の境目も曖昧で、さっきからもうずっと誰も通らない。

 ヒーターの温度はちょうどよく暖かで、心地よくて、流れる音楽が眠気を誘う。

 目の前の白い世界はどこか不安が付きまとう。

 最後に霧島がいなくなってから、もうどれくらいの時間が経ったのだろう。

                 

                ◆



 あの日の夜は、いつものように閉店後のソファの上で居眠りをしていた。

カラララン・・・コロロロン・・・

 ドアベルの音に飛び起きると、現れたのは何日か振りの霧島だった。

 古いギターケースを肩にかけ、手には黒いナップザック。

 けれど霧島はドアの側で足を止めたまま、前髪の下で動いた瞳は既に何かを察知していた。

 駆け寄るのをやめ、少し離れたところから様子を伺った。

 マスターは久しぶりに会う霧島をカウンターの中から静かに迎えた。

 キッチンでは水が流れる音がしていて、マスターの両手からは雫が落ちていた。

 いつもの「お帰り」はなかった。

 そっと足元へ寄って行くと、久々に見た霧島の表面は張り詰めて、いつものあいさつも、
 一度も目を合わすことなく佇んでいた。

“央人、ちょっといいかな”

 普段を装うマスターの声色に、霧島は全身を逆立てているように見えた。

 入口から一番近いソファ席に霧島を座らせると、マスターは何も言わずキッチンへ戻って行った。

 水の音が止み、店内は静まり返った。
 傍らに置かれたギターケースとナップザックからは知らない街の匂いがしていた。


“君に見てもらいたいものがあるんだ”


  平静を保とうとするマスターの低い声。
 テーブルの上に広げたその紙を、マスターは霧島の前に置いた。

 それは数日前の夜遅く、突然店に入って来た亮介がマスターに渡していたあの“印刷写真”だった。

 前髪の下で霧島の顔は凍り付いた。

 けれどマスターは動じなかった。

“これに、見覚えはあるかい”

“泥まみれでよく見えないが、これはラジオか何かだそうだ”

“色はブルー”


 マスターはその写真を指しながら、静かにそう説明した。

 “ここにある、これは何かな‥‥”


 マスターの声は、もう霧島の耳には届いていなかった。


 “どう?央人、これに見覚えはある?”


 マスターは霧島と向き合い、しばらく様子を伺った。

 けれど何も答えない霧島に、マスターはこう切り出した。


「夏目君が帰らないんだ」

冷静な口調だった。


 出発した日から数えると、今日でもう一週間になる。
 早ければ一泊で帰って来ると言っていたから、7日は長すぎる。

 マスターは3日経ってもマーヤからひとつの連絡もなかったこと、心配した両親が4日目の朝に現地の警察に“捜索願”を出したこと、そしてその返事が昨日この紙と一緒に届いたことを話した。


「夏目君が向こうに到着したその日の夜、山で大型の観光バスが横転事故を起こしていたことが分かったんだ」

 そしてマスターはその事故のあらましを話し始めた。

 夏目君の目的地――あそこは前日からどしゃぶりの大雨だった。
夜には雨は上がっていたけれど、山道は水はけが悪くて滑りやすくなっていたそうだ。
 事故は山の中腹で起きた。
 山頂から降りてきたバスが、カーブを曲がり切れずにスリップして横転、そのまま山の斜面へ転落した。
 それからガソリンに引火して火事になるまでは少し時間があったようだけど、炎上したバスの炎はすぐに燃え広がり、その山火事が麓のビジターセンターで目視されるまで誰もその事故が起きたことを知らなかったらしい。
 恐らく運転手さんが無線で報告することができなかったせいだろう。
 それから再び視界が遮られるほどの大雨が降り出して、それにガス爆発の危険もあり、何より現場の地形が複雑でその日のうちに山へ捜索に入るのは断念された。
 乗客の救出は朝を待ち、けれど炎を沈めるだけでも困難を極めた。
 火事の範囲が広すぎて、乗客の救出活動どころではなかったそうだよ。


「――残念ながら、生存者はいなかったそうだ」

 マスターはそう言うと、俯いたまま身を硬くしている霧島を伺った。

「バスの乗客名簿に、夏目君の名前はなかった」

 夏目君はバスには乗っていなかったんだ。

 その言葉に霧島は顔を上げた。

 前髪の下で安堵したその瞳に、マスターはけれどこう伝えなければならなかった。

「警察からの情報で―――燃えたバスの残骸の撤去作業中、身元不明のご遺体が見つかったことが分かった」

「―――――」

「身元が分かるものが見つからなくて、警察が周囲を捜索中に、これは、見つかったご遺体の――その下の、土の中にあったそうだ」


 数日前、夜遅くに突然やって来た亮介は酷く動揺していた。
 手に握っていたその紙をマスターに差し出すと、

“俺にはできない――”

と唸るような声で言った。

“ごめん、マスター‥‥――”

 力なくその場に座り込んだ亮介は、震える喉を押さえながらどうにか声を絞り出した。

“霧島が戻ったらこの写真を見せて確認してくれ”

 ここに写っている物が夏目のものなのか

 これが唯一の手掛かりなんだ―――


 けれど、マスターが亮介に掛けた言葉は冷静だった。

“まだ夏目君の物と決まったわけじゃないじゃない”

“大丈夫、央人には僕から話すよ”

 ただ、一度コピーをとって、ここに記載されている文言を決してから、また改めてコピーをとって…
 この文言は最初からなかったようにしておこう…
 
 この言葉はあまりにも、ね――。


「央人、どう?」

“身元不明の――”

“バスの残骸――”

「万が一、これが夏目君の持ち物だったとしたら――」

“これが唯一の手掛かりなんだ”

「央人?」

 石のように固まったままぴくりとも動かない霧島に、マスターはそっと問い掛けた。

「やはりわかりづらいかな―――うん、こんなに汚れていてはね―――」

“央人ならきっと分かるさ”

“違うって”


 血の気が引いた白い顔は、完全に生気を失っていた。

「――?!っ央人?!」
 マスターは慌てて身を乗り出し霧島の肩を掴んだ。
「央人!!おい央人!!息をしろ!央人!!!」
 マスターは大声で霧島の両肩を激しく揺すった。
「おい央人っ!!しっかりしろっ‥央人!!」
 マスターの大きな平手が霧島の頬を何度も弾いた。

「っ――っっ‥げほっごほっ!!‥げほっ!‥――っ」

「大丈夫か?!」

「ごほっ‥!げほっがはっ‥!!」

 マスターは霧島の後ろに回り、背中をさすった。

「もしこれが夏目君のものだとしたら、すぐにご両親に連絡しないと――」

 事故から日にちが経ち過ぎている。
 このままでは“身元不明の遺体”として処理されてしまうかもしれない。

 マリコは既に寝込んでいて会話もままならない。
 父親もずっと会社を休んでいて、夜も眠れない日々が続いている――。

「央人――‥‥、まさか‥それが答えなのか――?」


 全てはおまえにかかっている。

 マスターはそう言って霧島の答えを待った。

 このままではいつまで経っても夏目君はここへ帰ることができない。
 マスターはそう静かに言った。

 それに、もし夏目君のものでないならば、別の可能性を考えなければならない。
 どちらにしても夏目君が今まで帰っていないのは事実だ。
 もしかしたら別の場所で違う何かが起きているかもしれない。

 そうマスターは説明した。

「捜索範囲を広げてもらって、すぐにでも手掛かりを探さないと――」
「もし何か事件にでも巻き込まれているとしたら、急がないと手遅れになるかもしれない――」

「やめろ」


 霧島は汗ばんだ顔を上げ、マスターの手を振りほどいた。

「央人?」


「もうやめろ」
「こんなもんなんの証拠にもならねぇよ」

 呻くようにそう言って、霧島はマスターを睨んだ。

「央人、どこへ行くんだ。」

 ギターケースを担いだ霧島の腕を、マスターが強く引き戻す。

「離せ」

「ちょっと待ってくれ」

「約束したんだ。俺の誕生日会をやるって、記念にりんごの木を植えるって。」

 霧島はマスターの手を振り払い、ナップザックを掴んだ。

「あいつは絶対帰って来る。」

 霧島は正面からマスターを見据え、鋭い眼つきでそう言い切った。

「もちろん僕たちもそう信じている。だが夏目君は早ければ次の日には帰って来ると言って出掛けたんだ。それをここまで何の連絡もなく帰って来ないなんておかしいと思わないか?彼がそんなことをするとは思えない。夏目君が僕たちにこんなに心配させるようなことをすると――」

「知るかよ、向こうで何かやりたいことでもあるんだろ。電話するのも忘れてるだけだ。山の中なんだから電話がない場所に行ってるのかもしれないし、小銭がなくなったのかもしれない。」
「それだって、壊れたから捨てただけかもしれないだろ。いくらだって、なんだってあいつが今ここにいない理由なんて考えられる。なんでも勝手に結びつけんな。あいつは絶対に帰って来る。」


“約束したんだ”

“誕生日会をやるって”


「央人、ちょっと待って、落ち着いて話を――」

 店から出て行こうとする霧島を、マスターが慌てて追いかける。


カラララン・・・コロロロン・・・


 ドアベルとともに現れたのは、緊迫した表情の亮介だった。

「霧島?!おまえ帰ってたのか?!」

 亮介は咄嗟に霧島の肩を片手で押さえ、入口のドアを閉めた。
 久しぶりに会えた霧島に驚きながら、けれどその顔には疲労が積もっていた。

「どうだった?」

 亮介は霧島を店の中へ戻しながら、マスターに尋ねた。

 目の下が黒ずんだ亮介の“無精ひげ”に、霧島の表情はいっそう硬くなる。
 ぼさぼさの髪に瞼がくぼんだ曇った瞳。
 赤く腫れたその目元は薄っすら濡れている。

 亮介は霧島をソファ席に押し込むと、自分も隣に腰掛けた。

「霧島、よく聞け」

 目元をシャツの袖口でこすり、亮介は背けた霧島の顔を覗いた。

「さっき、夏目の両親に会って来た」
 震える声を押さえながら、亮介はなんとか落ち着こうとしていた。

「あの日、夏目に背格好が似たやつを見かけたって人が現れたんだ。登山道の入口で、これから頂上まで歩いて行くって、言ってたって。どしゃ降りの雨の中、危ないからやめたらって止めたけど、あいつは……っ―――」
 亮介は霧島の目を睨むように見据え、けれどどうしても言い淀んだ。

“僕―――……”

 亮介は片手で霧島の肩を強く掴んだ。

「っ―――‥‥くっ――」

 テーブルの上に雫がいくつも零れ落ちた。

「“―――僕―――、雨が大好きなんです”―――って‥‥‥」

「うれしそうに笑って―――っ―――手をっ――‥‥振ってたって―――………っっ」

 亮介は勢いよく鼻を啜った。

「その‥‥、男の子の特徴は――‥‥色白で――、‥‥青い‥‥パーカーに――、‥デニムのパンツ―――、‥ネイビーの‥‥――リュックサックを――しょってたって―――…」

 亮介は両目を乱暴にこすりながら、それでも霧島を強く見据えた。

「登山用の、茶色いブーツを履いた、―――高校生くらいの―――‥‥瞳の色と、髪の色が‥印象的な――、琥珀色の‥‥きれいな―――、――きれいな髪の――っっ――…」

「やめろ」
 霧島は亮介の手を振りほどこうとした。

「道の駅の、売店でも、――似たような男の子を見たって人が――……色白で、茶色い髪の――――大きな瞳の色が特徴的で――」

「やめろっ‥」

「みんな、よく覚えてるって――気立てが良くて、明るい笑顔であいさつをしてくれたって―――‥‥だから――よく‥‥覚えて―――」

 ぅううっ‥‥―――うぅっ‥――――

 亮介はたまらず両手で顔を覆った。

「―――っ…うっ……ううっ―――…っっ‥‥。」

「なんで泣くんだよ?!」

 霧島は拳をテーブルに叩き付けた。

「だからなんだよ?!似てるからなんだっていうんだ!そんなのただのっ…ただのっ…――だからって、それがなんでっ…?!それがどうしたっていうんだよ?!」

「俺だって!俺だって、こんなのただの目撃証言だって思いたいよ!あいつに似たやつを見たってだけの、ただそれだけだって思いたい、思いたいけどっっ…!!」

 亮介は霧島に負けないくらい大きな声で怒鳴った。

「けどあいつは、あの日、事故があった山に登ったんだ。あいつは、現場にいたんだよ!そして、実際、今ここにいない。連絡もつかない。どこにいるか分からない。」

「それがなんだよ?!明日帰って来るかもしれねぇだろ?!もしかしたらもうすぐ帰って来るかもしれねぇだろうが!!なんでもかんでもこじつけて勝手に決めつけんじゃねぇよ!!」

「もし!!」

 亮介は霧島の腕を奪うように掴み、顔を突き合わせた。

「――もし、いいか、万が一、―――…あいつが、誰も知り合いがいない街で、一人ぼっちで、冷たい部屋で――……身元が…不明――扱いをされてるとしたら―――っっ……」

 亮介は流れる涙をそのままに、噛みつくようにこう言った。

「俺はっ――…そんなの耐えらんねぇよっっ―――……!!!」

 霧島を捕える亮介の目から、涙が後から流れていく。

 頬骨の際立つ血色の冴えないその泣き顔に、霧島は言葉を失った。


「実はあの日、僕は夏目君と電話で話をしたんだ」

 マスターはそこに立ったまま、静かに話し始めた。

 お昼の忙しい時間帯だった。
 店の電話が鳴り、マスターは受話器を上げた。

“聞こえる?!マスター、こっちはものすごい大雨だよ!!”


 受話器から漏れて聞こえるほど大きな声は、とても興奮しているようだった。

「あの子は‥夏目君は、こんな大雨久しぶりだって、うれしそうに――もう10円がないから切れちゃうって、それでも楽しそうに笑っていた――」

「いつものように――あの子は―――とてもうれしそうで―――」

 マスターは声を詰まらせ、けれど霧島にこう言った。

「“早く帰りたい”って――‥‥電話口であの子は、さっき着いたばかりなのにもう帰りたくなっちゃったって――‥‥」

「央人、おまえに“早く会いたい”って――そう‥‥言って――‥‥‥」

“マスター、僕霧島に早く会いたいよ!!”

“早く帰って、霧島の誕生日会をやりたい!!”


うぉぇっ

 鈍い嗚咽と共に霧島は両手で口を押えた。

「央人?!」
「霧島?!」

 亮介を押しのけ、そのまま崩れるようにキッチンへ駆け込んだ後、中から激しい嗚咽が繰り返し聞こえた。

 おぇっ…うぉぇっ…うぉぇぇっ…

 マスターは慌てて霧島を追い、残された亮介は呆然と立ち尽くしていた。

 うぅぉぇっ…おぇっ…


 悲痛な声に顔を歪め、亮介の目から大粒の涙がこぼれていく。

「―――こんなのっ……――こんなのねぇよ……――――」

 握った拳は小刻みに震えていた。

「なんでだよっ―――……っなんでこんなっっ―――……っ」


 長い時間をかけて、霧島は空っぽになるまで吐き続けた。

 もう体の中から吐き出すものがなくなってしまっても、苦しそうに嗚咽を繰り返していた。

 
 体力を使い果たし、床に倒れ込んだ霧島を、マスターと亮介は店の奥へと運んだ。

 向かったのは母屋へ続く数段高いドアの向こう、“材料置き場”にしているという“納戸”だった。

 “ソファベッド”の上に霧島を寝かせると、マスターは2階から“来客用の布団”を担いで降りてきた。


 その夜二人は一言も会話を交わさないまま、いつまでも霧島の側についていた。


 目を閉じて眠る霧島の青白い顔は、まるで抜け殻のようだった。

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