見出し画像

「きみがくれた」スピンオフ『マーヤの思い出➁』

 

「ヒマツブシ」


 僕と霧島が通っていた楓の森中学は、山の上にあった。校舎の裏には楓の森が広がっていて、紅葉の季節になるとその本領を発揮する。特に夕焼けの時間帯は赤や黄色やオレンジ色のグラデーションがまるで水彩画のように浮かび上がる。 放課後廊下の窓からその景色を眺めるのも、森に入って下から細かい葉の間に赤く染まった空を見上げるのも、僕の大好きな時間だった。

 毎年秋には合唱コンクールがあって、クラスで一人ピアノの伴奏をする人が選ばれた。僕のクラス担任の結城先生は音楽の先生で、コンクールの1か月くらい前から放課後は毎日一人ずつ伴奏の練習をみてもらっていた。

 中学2年の時だった。
 あの日、僕は委員会があって、終わるのがいつもよりも遅くなった。来年は校庭の花壇に何を植えるか、花壇に腐葉土をすき込むのはいつにするか。秋から冬は土づくりが忙しい。

 僕はみんなの意見をノートにまとめて、羽村先生に提出してから音楽室に行った。5時間目をサボっていた霧島がもしかしたらまだいるかと思って。

 すると、音楽室の前の廊下に結城先生の姿が見えた。

 ピアノの練習はとっくに終わっている時間だった。
「どうしたんですか」
 僕が尋ねると、先生はそっと口にひとさし指を当て、
「もう少し待って」
と小声で言った。

 ドアの隙間から聴こえていたピアノの音に耳を澄ますと、その曲は僕のクラスがコンクールで歌う予定の課題曲だった。
 きっと宮本さんがまだ一人で練習をしているんだと僕は思った。
 それにしても、先生は教室の中へ入ろうとはせず、ドアの隙間から流れてくるその音に聞き入っているようだった。

 はじめ僕は気が付かなかったんだけど、先生の隣でしばらく聴いているうちに、何か違うと思った。僕はピアノを弾いたこともないし、楽譜もちゃんと読めないけれど、聴こえてくる音は合唱の伴奏っていう感じじゃなかったから。

 多分、すごく上手すぎた。
よくわからないけど、伴奏よりもかなり複雑な感じだった。
聴けば聴くほど、曲全体のボリューム感が違うというか、臨場感て言えばいいのか、もう単純に凄いとしか言いようがなかった。
 僕も先生も、いつの間にか完全にあの映画の世界に引き込まれていた。物語の中の印象的なシーンがいくつも頭に浮かんできて、胸がどきどきしていた。

 曲が最後まで終わるのを待って、僕は手を叩きながら教室の中へ入って行った。

「すごいね!!」
「いつもと全然違うね!!」
「宮本さん、こんな風にも弾けるんだね!!」

 僕もう感動しちゃって涙が出ちゃったよ―――

 グランドピアノの後ろに回って見ると、けれどそこに居たのは霧島だった。

 本当に驚いた。僕は大興奮で霧島に抱きついていた。
「すごいよ霧島!!すごすぎるよ!!」
 けれど霧島は、まるで何事もなかったかのように平然と椅子から立ち上がった。
 僕も結城先生も感動して涙目ですごいすごいって言ってるのに、あいつときたら僕たちの興奮も溢れるばかりの感動も受け止める気なんかこれっぽっちもなかった。
「ヒマツブシ」
 そう一言だけ残して音楽室から出て行った。

 僕は知らなかったんだ。霧島がピアノも弾けるなんて――しかもあんなに感情的に弾きこなせるなんて。
 先生があとから教えてくれたんだけど、あいつはあの時、楽譜も何も見ないでピアノを弾いてたんだ。それにこれまであの曲を一度もきいたことがなかったっていうんだから、さらに驚きだった。
 あいつはその日初めて聞いた曲を、楽譜も見ずに、あんなに劇的なアレンジをして弾いていたんだ。

 霧島がなぜ音楽室にいたか、その理由は僕が知っている通りだった。
 あいつはもうすぐ合唱コンクールがあることも、クラスで選ばれた人が放課後ピアノの伴奏の練習をしていることも知らなかった。だから5時間目が始まる前に音楽室へやって来て、教室の一番後ろの端っこで居眠りをしていた。いつものように絨毯敷きの床に足を投げ出して、窓際の壁に寄りかかって。
 ピアノの音が鳴った時、霧島は目を覚ました。
「油断した」と霧島が気付いた時はもう遅かった。
 すぐに教室から出ようとしたけど、霧島が居た場所は先生たちからは見えなかったらしく、動くのもめんどくさいしってことで、僕が来るまで寝ることにしたらしい。

 そうは言っても、ピアノの音は騒々しいし、曲の途中で何度も最初に戻ったり、同じ場所を繰り返したりするものだから、“不快マックス”でそれからは全然眠れなくなっちゃったんだって。

「それで何度も聞いてるうちに弾けるようになったの?」
 廊下を先へ行く霧島の前へ進み出た結城先生は、すっかりテンションがハイになっていた。
「そうだけど」
 霧島はなんでもないことのようにサラリとそう言い捨てた。
「誰にでもできることではないわ」と先生は霧島に構わず大喜びした。
「バックにオーケストラが流れているようだった」
「ラストのあの場面がくっきりと目に浮かんだわ」
 僕と一緒で先生もあの映画が大好きで、有名なシーンのセリフを二人で言い合ったりてしるの前を、霧島はひとつも興味なさそうに歩いていた。

 僕は霧島が耳コピでギターを弾けることは知っていた。でもピアノでもそれができるんだって、あの日初めて知ったんだ。しかも自分で全然違うアレンジまでして弾けちゃうなんて、本当に驚いたし、ものすごくうれしかった。

 霧島がすごいことが僕はすごくうれしいんだ。
 
 昇降口は薄暗い夕焼けに照らされていた。
 別れ際、結城先生がこんなことを言った。
「霧島君の演奏は本当に素晴らしかったけれど、伴奏は頼めないわね」
「だって、唄う側が聞き入ってしまっては合唱にならないもの」
 僕はもちろん先生の意見に大賛成だった。
「あなたにはリサイタルをやって欲しいわ」
「いつか全校生徒の前で披露して欲しい」
 僕はそれも、もちろん大賛成だった。
 体育館は満員になるだろう。霧島の演奏を聴きに、きっとみんなのお父さんもお母さんも来るし、近所に住んでる人たちだってやって来る。
ステージでグランドピアノを弾く霧島を観たら、みんなどんなに驚くだろう。そして、演奏が終わった後の拍手はずうっと鳴りやまないはずだ。

 僕はその日のことをばばちゃんにも話した。
「ばばちゃん聞いて!」
「霧島ってほんとにほんとにすごいんだ!!」
 縁側でばばちゃんのプリンを食べながら、僕はついさっき目の前で起きた出来事のひとつも逃さず話して聞かせた。
 霧島が「どうでもいい」と言って立ち上がっても、僕は話を続けた。
「まさか弾いてるのが霧島だったとは!僕がどれだけ驚いたと思う?!」
「だってあんなにすごい演奏できちゃうなんてさ!」
「ものすごく壮大で、臨場感に溢れていて、僕も先生も泣かせるほど感動させた――」
 ばばちゃんはどれだけ霧島がすごいかっていうことをうれしそうに聞いてくれた。
「音楽の先生でさえあんなに上手に弾けないって!」
「楽譜も何も見ずに弾いてたんだよ!」
「初めて聞く曲だったのに耳コピで弾いてたんだ!」

霧島は縁側から部屋に入り、そのまま座卓の上にプリンとリンゴジュースのコップを置いた。

「ばばちゃんも知らなかったでしょう?」
「霧島ってほんとにすごいんだよ!」
 僕はばばちゃんに訴え続けた。
 あの時の驚きと感動、興奮と、ものすごくうれしかったことは、ずっと心に残っている。

「まーちゃんがひーちゃんの側にいてくれて、ありがとうねぇ」

 ばばちゃんはそう言ってうれしそうな笑みを浮かべた。
 少し離れたところでばばちゃんのプリンを食べている霧島の背中を、そっと見守りながら。

“まーちゃんがひーちゃんの側にいてくれてありがとうねぇ”
 ばばちゃんがよく言っていた言葉。

 あの頃僕は、その言葉の意味を考えることもしなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?