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長編小説「きみがくれた」中‐⑫

「束の間」


 翌朝、今日も霧島はここにいた。
 カーテンから透ける淡い光、すっきりとした安らかな寝顔。

 顎先に頬ずりをして、首の周りに耳から額を擦りつけ、髪の間に鼻をうずめる。

 大好きな匂い、大好きな感触。

 鼻先に鼻を寄せ、冷たい頬に頬を滑らせ、閉じた瞼に―――


 ―――その時、睫毛の先が僅かに動いた。


 それはゆっくりと、少しずつ開き、光の中で眩しそうに歪んだ。

 
 久しぶりの霧島に、やっと会えた。


 まだ眠りの中にいる薄い瞼に、やがて濡れたように黒い瞳が現れた。


 やわらかな日の光の下、その優しい瞳がこちらを見つめる。


「‥‥きれいだな―――」


 大好きな声が、耳の奥まで浸み込んでいく。


 頬に、髪に、頬ずりをして、首元に体全部を押し当てて、胸元に乗って顎、頬、髪の中まで頭の先から擦りつける。

 前髪に鼻を寄せ、耳に、頬に、首筋に、そして―――

 その切れ長の目元が微かに濡れていた。


 こちらを見上げる切れ長の瞳―――

 そしてその端から一筋の涙が滑り落ちた。

“見て”

“宇宙みたいだ―――”


 まだ冷えた指先が耳の後ろを心地よくなぞる。


 大好きな手。
 大好きな匂い。

 その脱力した手の重さを受けながら、髪に、肩に、首元にすり寄っては頬ずりをする。

 懐かしい感触。


「央人?!」

 その大きな声に振り向くと、開いたドアの向こうにマスターが立っていた。

「央人、央人!」

 マスターはタオルを握りしめたまま駆け寄ると、霧島の顔を覗き込んだ。

「大丈夫か?どこも痛くないか?」

 天井を向いたままのうつろな瞳に、それでもマスターはうれしそうな笑みを浮かべた。

「央人―――よかった―――」

 マスターは霧島の髪を、額を撫でながら、何度も何度もそう繰り返した。

 そして、まだ半分眠りの中にいるようなその瞳が濡れていることに気が付くと、マスターから安堵の笑みが消えた。

「どこか痛むのか?」

 ぼんやりと視点の定まらない霧島に、表情を硬くする。

「央人――‥‥」

 マスターはその様子を心配そうに見守りながら、けれど気持ちはうれしくて仕方がないように見えた。

「喉が渇いているだろう?水はここに――ああそうだ、着替えをしよう」
「ちょうど昨日亮介君がアパートから持って来てくれたんだ」

 マスターは低いチェストの上のコップを取り、今朝も準備していたポットの水を注いだ。
 それから白い紙袋に手を伸ばし、中を漁りながら安西先生に電話しないと、と言った。

「央人、ひとまずこれに着替え―――」

 顔を上げたマスターを霧島がじっと見つめていた。

「―――央人‥」

「マーヤは?」

 顔だけを真っ直ぐにマスターに向け、霧島は独り言のようにそう言った。

「今日俺の誕生日会やるんでしょ」

 少しかすれた、消え入りそうな声だった。

「―――言ってたでしょ」

 今年は俺のアパートでやるんだって

 張り切ってた

「――――‥‥‥」

 マスターは真っすぐな視線を向ける霧島に言葉を失った。
 
 無表情なその瞳から涙がいくつも流れていく。

「うぉっ!!マジかよ霧島?!」

 突然現れた亮介は大声を上げた。

「おまえ!目ぇ覚めたのか!!よかったなぁ!!」

 よく通る大きな声を部屋中に響かせ荒々しく踏み込んできた亮介は、霧島の枕元近くでかぶりつくようにしゃがんだ。

「マジかよおまえ!心配したぞぉー!ハラ減ってんだろ?眠ってばっかでなんも食ってねぇんだからよ!たらふく食って体力付けねぇとなぁ!何喰いたい?俺が何でも持って来てやる!あーよかった!よかったよ霧島!!これで一安心だぜ!よかったなぁ、ほんと、よかった――」

 涙で顔を歪めながら、それでも亮介は笑顔を作って見せていた。

 霧島はそんな亮介を目の前に、けれどその虚ろな瞳は宙をさまよっていた。

 マスターはまだ興奮気味の亮介をそっと霧島から引き離した。
 不思議そうに振り向く亮介に、マスターは黙って首を振った。

 霧島は痩せた白い腕をゆっくりと動かし、身体を起こそうとした。
 マスターは慌ててそれを支えると、起き上がって大丈夫なのかと心配そうに声を掛けた。

「おぉ、なんだおまえ、もう起きれんのか?顔色も良くなってきたじゃねぇか!無理すんなよ、なんせ10日も寝たきりだったんだから――‥」

「マーヤ、アパート?」


 えっ…と思わず口をついて出た声を慌てて飲み込み、亮介はマスターを振り返る。


 マスターは目を伏せたまま首を横に振った。

「―――なんだ‥中止――?‥まぁ、いいけど‥‥」

 あいつ結構、楽しみにしてたから―――

 霧島はそうぽつりとこぼし、それから今度は足元を動かしながら

「あぁ、まだ学校か‥」
と小さくこぼした。


 ベッドから足を下ろそうとする霧島を、マスターは
「まだ横になっていた方がいい。」と手を伸ばした。
 繋がれた管を気にしながら、マスターはその痩せた体をベッドへ戻そうとする。
 それでも立ち上がろうとする身体をマスターが支え、霧島はその肩に掴まり床に足をついた。

「央人っ!」

 立ち上がろうとしたその時、霧島の身体は脆く崩れ、そのままマスターの腕に倒れ込んだ。

「霧島!!」

 亮介は慌てて後ろから抱え込んだ。

「こいつ!熱い!!」
「すごい熱だ」

 二人ががかりで霧島をベッドの中に戻し、マスターは足早に部屋から出て行った。

 さっきよりも赤味を増した霧島の頬に手を当て、亮介は悔しそうに顔をしかめた。

「おまえ―――まさか―――」

 開け放たれたドアの向こうから、マスターの焦る声が聴こえていた。


 霧島の汗ばんだ前髪を撫でながら、亮介は鼻息を荒げる。

「なんだよ―――うそだろ‥‥どうなってんだ―――」



“記憶が混乱しているようだって”

 安西先生が帰った後、マスターは電話でそう話していた。

 
 額に濡れタオルを乗せた霧島は、再び深い眠りの底に落ちてしまった。


“まさか、またあの日を繰り返すのか”

“あの瞬間をやり直せってのか―――”


 電話口でそう声を荒げる亮介に、マスターは深刻な表情で応じていた。


 その日、マスターはすぐに店を閉め、安西先生を待ちながら
“やっと熱が下がったと思ったのに”とこぼした。

“やっと目が覚めたと思ったら今度は―――”

 

 安西先生は霧島の様子をこう説明した。

「何もかもが、何一つとして折り合いがつかんのじゃろう。この子の心で起きた摩擦が、そのまま頭の中に散らばってしまった。」

 先生は霧島の布団を直してやると、ため息混じりにこう言った。

「重量オーバーじゃ」

 先生は白い顎髭を片手で撫でおろしながら、しばらくその目を閉じていた。

 恐らく央人は今、どこの場所にも立てておらん。
 向き合うべき事柄があまりにも大きすぎる。
 この子には己を守る方法も、そこに意識を向ける余裕もない。
 今はまだ、ただそこに置かれた強力なストレスに唖然としている状態じゃろう。
 そこに立ち向かうことはおろか、眺めることさえも苦痛、逃げ出すにも思考が、体が動かない。
 ならば、その身を守るにはどうしたらいいか――
 央人が今自分でできることは、思考を停めることの他にはない―――

「―――では、これから央人はどうやって―――…」

「長丁場になる」

 先生は低い声でそう言ってから、

 「明日も熱が下がらなければ入院させる」と断言した。


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