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長編小説「きみがくれた」中‐⑪

「前を向いて」


 今朝も目を覚ますと青白い寝顔がそこにあった。

 前髪が少し湿っている霧島は、昨日から“微熱”が続いている。


 部屋のドアが開き、マスターが顔を出した。

「やぁ、起きたね」

 マスターは店の仕事の合間を縫って、一日に何度もここへやって来る。

「最近はめっきり午後型になったね」

 そう言いながらマスターは“チェスト”の上のグラスを交換した。


「まだ熱いな」

 マスターは持って来た濡れタオルを霧島の額に乗せた。


 枕の端で丸くなり、目だけでマスターを追っていると、「心配だよな」とこちらを見た。

「大丈夫だ、じきに目を覚ますよ」


 このまま熱が下がらなければ即入院――昨日ここで安西先生はそう言っていた。


“熱がある”のに血色のないその頬に、マスターはそっと手を添えた。


「央人、戻ってこい――」



 マスターは霧島の髪を撫で、その寝顔を見つめる表情はけれどどこかうれしそうに見える。


“俺はあいつをこのまま眠らせておいてやりたい”


あの夜そう泣いていた亮介に、マスターは言葉を見つけることができなかった。


“この現実を2度も突き付けることなんて俺にはできない”

“あいつには夏目しかいないのに――”


 マスターは管に繋がれたその白い腕を取り、目覚める気配のない霧島をじっと見つめた。


「大丈夫だ。おまえは一人じゃない。」


 力なく垂れた指先を握り、呼び掛ける。


「おまえは幸せになるために生まれてきたんだ。」


“あの子は私の願い”

“あの子は私たちの希望”


 けれど閉じた瞼は閉じたまま、寝息さえ聞こえない。


「頼むよ‥‥――央人、俺たちのところへ戻って来てくれ―――」

 祈るようにその手を握り、マスターはじっとその寝顔を見守っていた。


                 ◆


 夕方の配達の途中で店に寄った亮介は、全部済んだら霧島のアパートへ行ってくると言った。

「あと3、4件あるんでこっち来るのは夜になるかもしれないですけど、とりあえず着替えだけ取ってきます」

「うん、ありがとう‥忙しいのにいつも悪いね」


 店先で二人が話していると、お客さんが数名やって来た。

「こんにちはぁ!」

「マスター、今日のディナーのおすすめは?」

「ねぇマスター、最近なんだか疲れてない?このところ急に老けちゃった気がする」

「お店の営業時間を変えたのって、そのせい?どこか身体でも悪いの?」

「その無精ひげのせいじゃない?オシャレならもうちょっときちっとしないと!知り合いの理容師さん紹介しましょうか?」


 店の前に立ったまま、お客さんは口々にそう言って声高く笑った。

「早くイイ人見つけて結婚しなさいよ、マスターもいい歳でしょう?」

「料理の腕は最高なんだもの、お嫁さんになる人がうらやましいわぁ!」


 マスターはお客さんたちに苦笑しながら、「お見苦しくてすみません」と後ろ頭を掻いた。


「お好きな席へどうぞ」


カラララン・・・コロロロン・・・


「あらまぁ、もうこんなに混んでる!」

「ランチタイムからディナーの間が2時間もお休みになっちゃったからその分混むのよぉ」

「私たちが一番乗りだと思ったのにねぇ!」

「今度はもっと早く来ましょう!」


「それじゃ、また後で来ます」

 亮介はお客さんたちが席に着くのを見届けてから、ミニキャブを停めた駐車場へ戻って行った。

「ありがとう、宜しく頼むよ」


 気を付けて、と亮介を見送って、マスターは賑やかな店内へ入って行った。


 閉店時間が近付いてきて、お客さんの数も残り少なくなった頃に安西先生がやって来た。

 先生の診療所は橅の森にある。“椴の森”からも“‘楡の森’”からもずっと遠い“秘境のような地区”で、亮介に言わせれば“気楽に呼んでいい場所じゃない”。

 けれど“この深森の住人で安西先生のことを知らない人はいない”。

 霧島も小さい頃から“お世話になっている”し、ばあちゃんを“看取った”のも先生だった。


“一説によると、安西先生は深森の精なんじゃねぇかって噂だ”

 いつだったか、亮介は二人にそんな話をしていた。

“だってよ、あんな橅の森の山奥からここまでチャリンコで来るんだぜ”

“なにがしかの術でも使わなきゃあのご老体で無理だろ”

“つかあの風貌、見たまんまじゃんか、既にネタバレしてるようなもんだ”

 そうわざとらしく真剣な表情を作る亮介を、マスターは“大人として”制した。

“亮介君だって相当お世話になってるでしょ、あんまり言うとその術でお仕置きされるよ”

“なんだよマスターだってあながち先生のこと人外扱いしてんじゃん!”


 
 昨日からずっと熱が下がらない霧島を看て、先生は

“絹子によく似て頑固じゃのう”と眉根を寄せた。

 岩のような手で白い髭を撫でおろす。

「わしらにできることは待つことだけじゃ。それはここに居ても、病院にいても同じ。戦う場所は、ここでも病院でも変わりはしまい。」

 先生は白い眉毛の下からマスターの表情をじっと伺い、それから管の先にぶら下がる透明の容器を見上げた。

「おまえにこれを用意してやる気はないぞ」

 その言葉にマスターは僅かに身じろいだ。

「まぁ、きっちり待ってやることだ―――それから‥こいつの帰る場所を失くしてやるなよ」

 先生は背中をかがめ、黒い大きなカバンを持ち上げた。

「まったく手のかかる親子じゃ」

 もう一度霧島の手を握り、先生はゆっくりと部屋を出て行った。


 渡り廊下のガラス戸を開け、マスターは先生の草履を揃えた。

 日の落ちた中庭を歩く先生の後を、マスターもついて行く。


「――のぉ、航平」

 足を止めた先生は、夕暮れの空を仰いだ。
 まだ薄紅色が残る藍色の彼方、一番輝く星が出ていた。


「誰も、誰かの代わりにはなれんよ」

 澄んだ空にレモン型の月が浮かんでいる。

「おまえがそれを一番よく分かっていると思うがの」

 そう言って先生は長い顎髭を撫でおろした。


「まったく手のかかる親子じゃ」
 そう一度だけマスターを見上げると、先生は芝生を踏みしめ歩き出した。

 フォッフォッフォ

 門扉の向こうに留めてある自転車は、マーヤのとは全く違う形をしていた。
 前の台にカバンを乗せ、軽やかにまたがると、先生は颯爽と漕ぎだした。

 フォッフォッフォ…

「先生、ありがとうございました!」

 思い出したように声を出し、マスターは深々と頭を下げた。


 先生の姿はすぐに夜へと消え、けれどマスターはしばらくその姿を見送っていた。


               ◆


 亮介が戻って来たのはマスターが店を閉めてしばらく経ってからだった。
 ドアベルの音がして、マスターの声が亮介を迎えた。

「やぁ、ありがとう、お疲れ様」

 けれどその後に亮介の声は続かなかった。

「‥すまないね、忙しい中、大変だっただろう」

 マスターの声色はどこか戸惑っているように聞こえた。


「亮介君‥、何かあったのかい?」

 マスターに促され、亮介はようやく顔を上げた。
 その表情は険しく、哀しく歪んでいた。

「マスター、アパート、‥行った?」

 絞り出すような声だった。

「あいつの部屋に入った?」

 亮介に尋ねられ、マスターは不思議そうに首を振った。

「‥いや、アパートには行ったけど、冷蔵庫に――前に夏目君から荷物が届いて、それを入れに行った‥けど、キッチンより先には入ってないよ」

 央人の部屋の摺りガラスの戸も閉まっていたし。

 それが、どうかしたの?


 押し黙った亮介にマスターはもう一度声を掛けた。

「亮介君、何があった?」

 二人は店の入り口の辺りに立ったままだった。

 亮介は抱えていた白い紙袋をカウンターの上に静かに置いた。

「亮介君――?」

 マスターはその目から零れる大粒の涙に驚いた。

「どうしたんだ、何があったんだ?」

 よく見ればその顔はひとしきり泣きはらした後のようだった。
 赤く腫れた目元を拭いもせず、亮介は訴えるようにマスターを見据えた。


「‥俺――見ちゃったんだ――‥‥‥」

 紙袋に涙の粒が落ちていく。

「見たって、何を?」

 そして亮介はまるで体の底から吐き出すような勢いで声を出した。

「夏目の――っ―――‥‥」

「あいつの愛が―――‥…惨い――っ‥‥‥―――」

 亮介はそのまま紙袋ごとカウンターの上に突っ伏した。

「ああぁ‥‥‥――‥‥っっうぅぅっ―――あぁ‥‥っ――」

 マスターは突然泣き出した亮介に動揺していた。

 全身の力を込めて絞るように涙を流す亮介は、苦しそうな声を吐き出した。
「こんなのねぇよ―――‥」

“夏目の愛が―‥惨い――――”

 震える拳を抱える悲痛な泣き声は、抑えようもなく続いた。

 
 マーヤが出発前に準備していた誕生日会。
 霧島のために何日もかけて飾り付けた部屋。
 

 亮介はやっと泣き止みそうになるとまた激しくむせび泣き、落ち着いたように顔を上げると涙がこぼれた。

 そんなことを何度も繰り返し、亮介はマスターになかなか話をできなかった。


 目と鼻をキッチンペーパーでこすり、それでも溢れる涙を袖口で拭い、口を開こうとするとまた涙が出る。

「いいよ、待つから」

 亮介の向かいに腰を据え、しばらくその様子を見守っていたマスターは、そう言うとゆっくり立ち上がった。


“いつもより濃い目のコーヒー”と、温めた“クランチチョコたっぷりの大きなソフトクッキー”。
 マスターは亮介の好きな“ベストコンビ”を用意した。

「‥‥ごめ‥‥マスター‥俺――」

 亮介は両腕に顔を伏せたまま重い鼻を啜る。

「いいよ、ゆっくりでいいから」

 店内にコーヒーと甘い香りが漂う。

 マスターは山盛りのキッチンペーパーの屑を片付け、かごにおしぼりを入れて持って来た。

“ミント”の香りがするおしぼりで顔を覆い、亮介は深く息をついた。

 どうにか体制を整えた亮介は、もう一度ゆっくり息を吐くと、目元をおしぼりで押さえたままぽつりぽつりと話し始めた。


「さっき、仕事終わりにアパートに行って‥――これ‥、取りに‥‥それで‥‥あいつの部屋を開けたら――」


“俺‥‥――見ちゃったんだ――‥‥‥”


「――うん‥」

「――部屋の、電気を付けたら‥‥部屋ん中‥すげぇことになってて――」


 亮介は再び泣き出しそうになるのを呑み込むようにこらえながら、言葉を繋いだ。

「っ‥‥壁のっ‥部屋全体が‥、――すげぇ色で―――、‥いろんな色が―――目ぇ覚めるくらいの色が‥‥そんで――、正面の窓に――」

 懸命に話す亮介の目から涙の筋がいくつもこぼれた。

「タペストリーが――――‥‥‥」


“タペストリーだよ”


「ハッピー‥‥バースデー‥‥って‥‥―――っ――」


“HAPPY ♡ BIRTHDAYってつなげるんだ”


「うぅっ‥‥――――――」


“これは虹のプリズム色”


「壁の…色が―――全部―――‥‥全部にさ―――、花とか‥葉とか‥虫とか‥全っ部、折り紙で折ってあってさ―――、あいつの部屋の、全部の壁に―――全部‥違う絵が描いてあるみたいな―――‥‥隙間なく、折り紙で作った花びらとか――びっちり貼ってあってさ―――それと‥輪っかのリースが‥天井から吊るしてあって―――」

 亮介は流れる涙をおしぼりでこすりながら鼻を啜り上げる。

「ベッドの上なんかはさ‥‥すげぇ量の花びらが――‥折り紙で切った花びらがさ―――どっさり積もっててさ――」


“パーティーの準備は万端”


「あいつさ‥あんな‥――あんな大っ量の飾りをさ‥――たった一人で‥――あいつ‥一人で作ったんだ‥どんだけ‥どんっだけ楽しみだったんだよって――俺――っ‥‥」

「あの部屋でさ‥あいつの想いが――もんっのすげぇ想いがさ――霧島のためにっていう――‥その想いが――‥あいつ―――‥一人で―――」

「――信じらんねぇよ‥‥あんっなにたくさん―――」

 息継ぎをするように天井を仰ぎ、亮介は顔を歪めた。


「その部屋の一角にさ―――あいつらの写真が――――‥‥」


うぅっ‥‥‥――――っ‥‥


 あの日、マーヤはとてもうれしそうだった。
 大量の折り紙を一枚一枚丁寧に折りながら、一人霧島を待っていた。


「真っ赤な折り紙の花で囲った、でっかいコルクボードにさ‥‥あいつらの写真が‥‥これでもかってくらい‥貼ってあった―――俺が知らないあいつらの‥小せぇ頃のとか‥何枚も、何枚も―――あんなに飾り上げてさ―――‥‥」



“これは、アザミ”



「あいつらさ―――あんなにずっと一緒にいたのに―――ずっと――、もうずっと何年も‥‥一番近くにいたのに―――」

 吐き出すようにそう言うと、亮介は再び泣き崩れた。


“霧島、喜んでくれるかな”


 マーヤはうれしそうだった。

 丸い大きな瞳をくるっと輝かせ、いつもの笑顔で霧島の帰りを待っていた。

 色とりどりの折り紙に囲まれて、とても楽しそうだった。


「そんで、俺‥テーブルの上にあった手紙も――見ちゃったんだよ――‥」

ぅうううっっ――――‥‥―――ぅうっ・・・・

 亮介はむせび声を震わせた。


「あんなの―――っ―――っうぅ‥‥っ・・」
「――あんなの俺っ・・・・―――」
「うぅっ――‥あいつに‥あんなの――っ――――」


 あいつに

 あんなの

 見せらんねぇよ―――


“僕が間に合わなくてごめんね”


“僕がいなくても”



「―――え?」

「“パーティーの準備はしておいたから”―――って‥‥」


“みんながちゃんと”

“お祝いしてくれるから”


「あいつ―――あん時‥出発の日に俺に言ってった―――」


“僕がいなくても”

“楽しい誕生日を過ごしてね”


「―――‥っうっっ―――‥‥うぅぅっ――――」



 霧島の誕生日は、もうとっくに過ぎてしまった。


「マスター、俺‥‥やっぱあいつ‥‥このまま――目ぇ覚めねぇほうがいいのかもって―――本気で思っちまうよ―――」

 亮介はカウンターに肘をつき、両手で顔を覆った。


 記念に植えるはずだったりんごの木は、まだ鉢植えのままアパートに置いてある。



 マーヤはまだ帰って来ない。



「―――っ‥‥くそっ‥‥!」
「なんでこんなことにっ―――‥‥」
「なんでだよっ―――なんで――」

「夏目―――くそ‥‥‥―――!!」



 いっそこのまま―――


 このまま―――。




「だめだ」

 マスターの聞き慣れない低い声だった。

「それはだめだ。」


 亮介は真っ赤に腫れた涙目でマスターを見た。


「それじゃだめなんだ、亮介君。」

「‥分かってるよ、俺だって、あいつには元通り元気になって欲しいって思ってる」

「けどさ、こんなに辛い想いをあいつにもさせるなんて――」


「うん‥‥央人を辛すぎる現実から遠ざけてやりたい気持ちは僕にもよく分かる。その方が幸せだと思う気持ちは僕にだってある。」

「でも、僕らがそんな風に思ってしまったら、あの子を守るどころか、あの子の手を僕らの方から放してしまうことになる。」

「僕だって、この現実から――辛くて、悲しくて、苦しい思いをさせないように、そこから央人を切り離してやりたい。けどそれは、あの子をひとりぼっちにするのと同じことなんじゃないかな。」
「僕らがそんな考えでいたら、本当の意味で、あの子は一人になってしまう。僕たちが央人を一人ぼっちにしてしまうことになるんだよ。」


「――そんな――‥‥」


「だから僕らは、央人が目覚めない方がいいなんて、それが央人のためだなんて思ってはいけないんだ。絶対に。」


「そんな弱気なことではだめなんだよ。」


 それは央人のためでもなんでもない。

 僕らはあの子の手を放したらだめだなんだ。

 僕らの方からあの子の手を放すことは絶対に――。


 マスターの表情は厳しく、けれどどこまでも温かみを帯びていた。


 あの子を一人現実から遠ざけて、安全で安心な何の哀しみもない場所へ追いやるということは、僕らの方から央人の手を放してしまうことと同じなんだ。

 僕らは央人を守りたいと思ってそんな風に考えているけれど、それって実は単に僕らの気持ちを守っているんだと思う。

 口ではあの子を悲しませたくないと言いながら、実は僕ら自身が悲しんでいる央人を見たくないだけ――そんなの愛情でも何でもない。


 本当に央人のことを思うなら、まずは僕ら自身が辛い現実から目を逸らしちゃいけないんだ。

 苦しむ央人から目を逸らしちゃいけないんだ。

 僕らは自分自身の辛い気持ちを見て見ぬふりせずに、央人に何があってもそこから目を逸らさずに、一番近くで僕らも一緒にその全部を受け止めていくんだ。

 それができて、初めてあの子の正面から手を差し伸べて、あの子の手を掴んでやれる――掴んで、こちらへ引き戻してやれる――戻って来たあの子を受け止めてやることができる―――。


 僕はそう思っている。


「央人を支えられるのは、僕らしかいないんだから」

「ね、亮介君‥そうは思わない?」


 真っ直ぐに問い掛けるマスターに、亮介の目から涙が零れた。

 けれどその泣き顔は弱々しく歪んだ。

「俺だって――俺だってあいつの支えになりたいよ――‥‥マスターが言うこともよく分かる‥‥それができたらどんなに――けど‥‥―――けどさ―――。」


 亮介は大粒の涙を流しながら言葉を詰まらせた。


「俺はこんな時、夏目がいてくれたらって―――‥‥ばかみてぇにさ――そんなこと思っちまうんだよ――――」


「亮介君――」


「こんなん思うのおかしいよ、イミ分かんねえこと言ってるって分かってる‥‥けど――夏目がいてくれたらって‥‥夏目なら今の霧島にとって一番いいやり方で、きっとなんとかしてやれるんだろうなって―――‥‥あいつなら、この状況を変える正解を知ってるはずなのにって――‥‥」


 亮介は悔しそうに顔を歪めた。


「こんなんじゃさ‥‥俺――自信ねぇよ―――俺がこんなんじゃ‥‥あいつの力になんか‥なってやれねぇよ―――‥‥――」


 亮介はそう言って再び顔を伏せてしまった。


「――とにさぁ‥‥あいつ―――夏目―――」

「――っうぅっ‥‥――っ‥なんでおまえ――」

「ここにいねぇのかなぁ―――‥‥――ぅぅぅうう‥‥っ―――」


 なんで―――ここにいねぇんだよ――――――



 咽び泣く亮介の震える肩に、マスターはそっと手を添えた。



「誰も、誰かの代わりにはなれない」


“のぉ、航平”


「亮介君、僕はね、こう思うんだ」


 僕らは、僕ら一人一人が、央人を支えることができるはずだよ。

 夏目君が、もうずっとそうしてきたように。

「――――‥‥‥」


「僕らは夏目君の代わりにはなれない‥ならなくていいんだ。」

 マスターは涙と鼻水まみれの亮介の顔に優しく微笑んだ。

「央人を想う気持ちに、優劣なんてない。」

「僕らは一人一人、央人のことを大切に想っている。」

「僕らは一人一人が、央人に愛情を注いでいる。」

「それは夏目君もそうだ。」

「僕らは夏目君を愛している。僕らは央人を愛している。」

 マスターはゆっくりと言葉を置くように続けた。


「大切なのは、前を向くことだよ。そして、夏目君がいないことから目を背けないこと。央人が目を覚ました時に、その手をしっかり取ってやれること。それは、僕らにしかできない。今ここにいる僕らだからできることだ。」

「夏目君への想い、夏目君がいない哀しみを知っている、僕らにしかできないことだよ。」

「誰かを大切に思う気持ちに一番も二番もない。誰も誰かの代わりにはなれないし、もちろん自分の代役だっていない。僕らは一人一人違う人間で、誰にだって大切な人のためにできることはあるんだよ」

「それをできないと言うなら、その自信がないと言うなら、それはただの逃げだ。弱い自分への言い訳だ。」

「僕らは強くならなきゃいけない。夏目君がいないことを受け止めて、その哀しみごと、央人の手を取れるように。」

 マスターは亮介の肩に力を込めて、もう一度笑顔を浮かべて見せた。

「何もできないことなんてないはずだ。僕らが央人を大切に想っている、それが一番大事なことで、それが全てだよ。」


“自信をもってあの子を待とう”

“いつ目が覚めてもいいように”

“いつでもその手を掴めるように”


 僕らはいつでも、前を向いて―――。

 マスターは自分自身に言い聞かせるようにそう言った。


 長い長い夜だった。

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