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長編小説「きみがくれた」中‐⑬

「笑顔」


 暖かい風が心地よい午後だった。
 中庭の緑が濃く蒼くきらめいている。

 渡り廊下に腰を下ろし、安西先生はマスターが煎れたコーヒーを啜っていた。

「光樹は良い子供じゃったのぅ」

 その丸い背中の少し後ろにマスターは膝をついて控えていた。

「深森の子供たちは皆、わしの孫みたいなものじゃ。皆、かわいいわしの―――孫か、ひ孫か。」

 高く澄みきった空へ視線を投げて、先生は独り言のようにつぶやいた。

 高くそびえるニレの木の葉をそよ風がすり抜けていく。
 ばあちゃんのアジサイも日に日に色付いていた。

「あの子は取り分けおもしろいことを言う子じゃった。昔からあのかわいらしい容姿でよくわしのところへやって来た。無理難題を持ってのぅ。」
 白い眉毛の下の目元をいっそう細め、先生はフォッフォと小さく笑った。

「おまえも知っての通り、あの子は生まれつき標準よりも体の色素が薄い子供だった。髪も、瞳の色も、肌も透けるように白かった。幼い頃はその特徴が顕著に現れとった。光樹は周りの子供らの目を引く対象にされて、散々からかわれたようじゃ。無論、随分と辛い思いもしたようじゃ。背ぇも周りより小さくて、身体も弱かったしのぅ、しょっちゅう母親と連れ立ってわしのとこに来ておったもんじゃ。」

 先生はマグカップを床に下ろし、正面を向いたまま話を続けた。

「ある日、あの子が初めて一人でうちにひょっこり現れてのぅ。欅の森から幼い子供がようたった一人で来れたもんじゃと驚ろかされた。おまけに親にも内緒で来たという。わしにも内緒にしろと言いおった。あの子は髪が黒くなる薬を作ってくれと言ってきた。肌の色が濃くなる薬と、背が伸びる薬も作れと。お医者様なんだからできるでしょ、と言いおった。真剣な顔で‥あの何の曇りもない、純粋な目ぇを真っ直ぐにわしに向けてのぅ。それからは度々一人きりでやって来て、もうできたのか、まだできないのかと催促されたもんじゃ。」
 先生は細い目をいっそう細めて笑みを漏らした。

「そんな薬はないと、容姿なんぞ気にせんでよいと言ってやることもできたが‥わしはただ、薬はまだできていない、そのような薬を作るのは時間がかかるとだけ話して聞かせた。
あの子がそこまで一生懸命になるのは、あの子自身の問題だけではないと分かっていたからの」

 先生はそう言うと体の底からゆっくり息を吐いた。

 マスターは先生の背中を見つめたまま、その言葉の続きを待っていた。

 先生はゆっくりとコーヒーを口へ運び、一口啜った。

 光樹は体が弱かった。そのことは母親にしても負担じゃった。光樹の世話が負担という訳ではない。自身の責任としての負担じゃ。母親は光樹の生まれながらの性質を全て自分のせいだと思っておった。そのせいでそりゃあもう過保護にあの子を育てておった。
 幼稚園で辛い目に遭っていると分かると、いよいよ自分を責めてのぅ。
 真理子はあの子を普通の子供と同じに産んでやれなかったことを、あの子が生まれてからずっと悔やんでいた。それで幼稚園での問題も自分のせいだと、あの子が辛い思いをしている責任は全て自分にあると、それが申し訳なくて耐えられないと‥そう自身を責め続けた。
 一時期は心が不安定になってしもうてのぅ。精神の薬を何度も欲しがるようになって、量も増える一方じゃった。
 幾度となくお前のせいではなかろうと諭してもだめじゃった。光樹は確かに医学的には少数に見られる性質を持って生まれてきたが、それを悔やんでいるのは真理子本人だけじゃった。
 しかし‥あれもわしの言うことをきかんからの――。

“お前が自分で光樹を普通の子供ではないと決めつけているのだぞ”

“母親がそんなことでどうする”

「真理子が病めば病むほど、光樹は自分を例外だと認識し、普通ではない人間なのだと思い込んでしまう。そのことをあれに何度も言って聞かせたが、自責の念に取りつかれて全く聞く耳を持たなかった。」

“なぜ他の子供と比べるんじゃ”

“他と比べて見た目が違うとお前が率先して知らしめてどうする”

“光樹にとっては普通なんじゃ”

“母親ならばまず光樹を受け入れてやらないか”

“他の誰よりもあの子は普通だと認めてやらなければ”

“お前が気に病んでいるその心根は園児たちとさして変わらんぞ”

 おまけに毎日毎日めそめそと泣きおってのぅ。
 自分を責めることが即ち光樹が普通ではないと認めることと同じだと、何度言っても聞かんのじゃ。
 自分のせいで光樹が生きづらい思いをしていると電話口で何度泣かれたか知らん。

 それが光樹をからかう子供らと同じ目線になっていると分からぬのかと、懇々説教してやったものじゃ。

“お前があの子にすまないと思い続けるのなら、あの子は一生自身を肯定できない人間になってしまうぞ”

 先生はそこまで話してマスターを振り返った。

「のぅ、航平。」

「――はい。」
 マスターは緊張した面持ちで先生と向き合った。

「それでも光樹は、笑顔を絶やさぬ子供じゃった。体を壊してベッドの中にいるときでさえ、幼稚園へ行きたがった。それは真理子の―母親のためじゃ。光樹は子供ながらに、自分が元気でいることが母親の救いになると思っておったのじゃろう。」

 元気に笑っていれば、自分は他の子供らと何も変わらない、自分は普通だと思えたのかも知れん。
 いずれにしても、あの子の笑顔は心からのものではなかった。真理子自身もそのことには気付いておった。そしてそのこともまた、自身を責める要因に変わっていってしまった。
 まさに負の連鎖じゃ。お互いを思い遣っておるにもかかわらず、そこには自責の念と無意識の自己欺瞞が出来上がってしまっておった。

 マスターは先生の話を黙って聞いていた。
 
 先生は庭の木々に目を細め、おいしそうにコーヒーを啜った。

 あの子が小学校に上がった頃か、それとも2年生になってからだったか‥ある日真理子から電話がかかってきたんじゃ。どんな心境の変化か、光樹が髪の色はこのままがいいんだと、この色がいいんだと言ってきたと‥真理子は電話口でそれはそれは喜んでおった。
 そりゃぁもう話ができんくらいにわんわん泣いておった。始めは何を言っているのかさっぱり聞き取れんかった。
 よくよく聞いてみれば、あれが涙ながらに話してくれたのは‥あの子は救われたと――そして自分もまた、救われたという報告じゃった。

 その電話があって数日後に診療所へ光樹がやって来た。
 あの子は笑っておった。
 わしはそれまであの子があんな風に笑うのを見たことがなかった。
 いつもにこにこしておったが、あんなにうれしそうに、溌溂とした笑顔はあれが初めてじゃった。

 先生は長い髭を片手でゆっくり撫でおろし、静かな笑みを浮かべていた。

「光樹はもう髪が黒くなる薬はいらないと言った。散々わしに黒髪になる薬を作れなどとせがんでおったのにのぅ。小さな体で、橅の森にあるわしの診療所まで、真理子にも内緒で、いったい何時間かけて歩いたのやら。」

 先生が一息ついたのを見計らって、マスターは後ろから控えめに声を出した。

「―――夏目君は‥」
 僕が知っている彼は、いつも笑顔で、いつも楽しそうに笑っていました。

「そんな幼少期があったなんて、少しも感じませんでした」

 先生はマスターの言葉に無言で頷いた。

「幼い頃のあの子の笑顔は、残念ながら母親のためのものじゃった。しかし、そのある時を境に、変わったんじゃな。」

 真理子はあの電話でしゃくり上げながら、光樹には生まれてからそれまで正直罪悪感しかなかったと言っておった。だがこの度初めて真っ直ぐな愛情を込めてあの子を抱きしめることができたと―――光樹も自分もまるで生まれ変わったようだと言っておった。

 マスターは先生の話を聞きながら、不思議そうに口元に手を添えた。

「いったい何があったのでしょう‥?」

「真理子の話では、どうやら別のクラスの同級生が光樹に掛けた言葉が原因だったようじゃ。それが光樹の心を変えた―――真理子の言いようじゃと、救った、と言った方が正しいかのぅ。」

「言葉――‥」

 詳しことは、わしゃ知らんよ。ただなんにせよ、光樹があんなによう笑う子供になったのは、その同級生のお陰なのじゃろう。真理子はその子に対して随分と感謝しておった。
 あの親子はあのままいっていたらお互い悪戯に心の傷を増やすだけじゃったろうからのぅ。精神的にも負担は大きくなっていたことじゃろう。仲の良い母子ゆえにのぅ。しかし――その子のお陰で、自分たちは心の底から笑えるようになったと、そううれしそうに言っておった。

「その同級生って、もしかして―――」

「央人じゃろうな。小学生の央人が、さて何を言って光樹の心を救ったのか‥真理子の積もり積もっておった自責の念を、一瞬にして取り払ったのか―――知りはせんがのぅ。」

 先生は真っ青な空を仰ぎ深く息を吸い込んだ。

 先生の吐く息とともに、穏やかな風が庭を通り抜けていく。

「あの子は、人を比べないんじゃ。」

 木々の葉を、草を風が優しく撫でていく。

 マスターはその言葉に思いついたように顔を上げた。

「自身と他人も、他人同士も、比べることがない。それは央人の良いところでもあり、しかしその性質が故に様々な誤解が生まれることもある。だが対光樹にあっては、それが良い方向へ転じたのじゃろう。」

 そして先生は遠くを見つめたままこう付け加えた。

「あの子らは、互いに救われたんじゃ。」

 これはわしの単なる想像だがの―――。

 ゆっくりと腰を上げ、先生は丸い背中を伸ばした。

 そして後ろへ向きを変えると、けれど厳しい表情でマスターを見据えた。

「央人の今の状況が長引くことは避けねばならん。治療方法がなくとも、医療の整った環境にあることに越したことはない。桜の森病院への紹介状ならいつでも書くからな。」

「――――‥‥‥」

 まるで親に叱られた子供の用にマスターは身を縮めた。

「無精ひげがサマにならん男じゃのぅ」

 フォッフォッフォ…

 先生は両手の拳を腰に当て、大空へ向かって気持ちよさそうに笑った。

“大変なのはあの子が目覚めたその後じゃ”

“そこからが、本当の闘いじゃぞ”

 先生の残した言葉にマスターは表情を硬くした。

 眩しい日の光の下、芝生の上を行く先生の上で、ニレの木の葉が青々と輝いていた。

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