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大手でない出版社に1年間だけ勤めていたときの話

こんにちは。
本日は私が中規模出版社に勤めていたときのお話を書かせていただきます。

主な内容としてはどのように就職したか、仕事内容、なぜ辞めたか等のことを書いていきます。

雑誌が好きだった

学生時代に旅行しながら写真を撮っていたこと、ファッションが好きだったことなどがあって雑誌は結構な頻度で買っていた。今でも家にはBRUTUSやTRANSITが大量にある。編集者というなんとなくクリエティブそうな職業にも憧れていた。ちょっとお洒落なお仕事に就きたかつたのだ。就職活動は特に一生懸命やらず、たまたま見たタウンワークの求人にアシスタントの募集が出ていたので応募した。

面接では在籍する編集部の編集長が直接出てきて、気に入られ、その場で採用となった。

キワモノ揃いの編集部

私含めて4人の小規模編集部に配属された。全員40代の既婚おじさんである。ちなみに私は男性、当時22才である。

担当する雑誌は季刊の趣味本、隔月刊の趣味本、月刊のミリタリーものの3誌。この編集部員がかなりのキワモノだった。まず3人ともコミュニケーションがそんなに上手くない。というよりド下手だった。言ったことはバンバン忘れるし、仕事の振り方も雑、時間管理も雑。周りを散々振り回す。会社の中でもなかなかアクの強い人間が集められている編集部だった。

・どのように働いていたか
時間通りに出社してくる人は少ない。みんな雑誌の毎月の校了に照準を合わせて動いているため、校了前の徹夜は当たり前。そして校了後は気の抜けたような顔で平気で遅れて出社してくる、もしくは来ない、ということがある。毎月雑誌させ出れば何も文句は言われない、というような雰囲気だった。

私も入社前は、なんで校了直前で焦るのだろう、と思っていたが、やはり締め切りに追われないと力が出ないという人がいるということを認識した。

編集者は雑誌の全てを作っているように思われることがあるが、基本的にその周りには多くの人間が関わっている。
カメラマン、ライター、スタイリスト、メーカーの方々、社内の営業、広告関係の部署などである。関係各所とコミュニケーションを円滑にとり、ロケや取材などを行い、文章や写真が校了に間に合うように動くのが編集者である。大半の企画立案は編集者が行う。ただたまにライター主導で始まる企画もある。

アシスタントとしての仕事

仕事としては校正、ライター、カメラマンとの連絡、ロケでの雑用などから始まり、ある程度時間が過ぎると、ページを任されることもあった。すでに長く連載しているページを引き継ぐこともあったし、数ページを渡すから企画を考えろ、と言われて0から担当させてもらうこともあった。アシスタントレベルでここまで目に見える仕事を任せて貰えたのは規模がそこまで大きくない編集部ならではではないか、と思う。


少し前に校閲ガールというドラマが流行り校閲者が話題になったが中規模雑誌社だと校閲専門の人間などいない。私がいた編集部では全員が全てのページに目を通し、赤入れ(直し)をしていた。

何が楽しかったか(当時感じていたこと)

やはり自分が関わったモノが世に出るというのはなかなか緊張感が伴う達成感のある仕事だった。またライターやカメラマンなど普段関わり合いを持たない人間とお仕事させていただいたことは貴重な経験だった。
またありきたりなことだが自由が多かった。上司が自由に働いているので服装に縛られたり、時間に縛られることが少なかったのがよかった。

なぜ辞めたのか

これから書くことはたった1年半で辞めた人間の甘さを含む内容である。寛大な心で読んでください...

1.給料が安い。
とにかく給料が安かった。もちろんアシスタントなので最初からそんなに貰えないのは覚悟していた。ただ1人前になれば編集者という仕事はある程度給料をもらえるのだろう、という風に入社前は思っていた。

しかし1年も働いていると周りの給料事情も耳に入ってくるのだ。10年以上も働いている人が一般企業の新卒くらいの給料しか貰ってないことを知ってしまい衝撃を受けたこともある。当時2014年頃だったが、出版社は儲かる、というイメージがまだ私の中に残っていた。将来的には自分もそうなるんだ、と信じていたが、その希望は正しくないことを思い知った。

やはりネットが発達してきたことによる出版不況の影響をモロに受けていた。もちろんこれは他社で売れている雑誌は存在するわけで、言い訳にも聞こえるだろう。ただやはり昔と比べたら雑誌が売れない時代になっている。

2.担当しているコンテンツを好きになれなかった
出版物を作ることにもちろん楽しみを感じていたが、やはり興味をモテない内容を扱うことはモチベーションの維持が難しい。例えば毎月テーマが変わっていく雑誌であれば自分の興味を向けることも難しくはないと思う。

私の担当していた雑誌はかなりディープな内容の趣味本だった。ミリタリーであれば毎月エアガンやサバゲ、自衛隊の特集などがあったがやはり興味をもつのは難しかった。その逆で3人の上司の中の一人はかなり怠惰な人間だったが、ミリタリーものの知識だけはピカイチな人がいた。その知識だけで給料をもらっているようなものだった。

3.自分の才能を疑った
先ほど書いたように編集部は一般的な社会から見れば少し外れてしまうようなコミュニケーション下手な人が多かった。ただこの人たちは0から1を生み出すことに関してはピカイチだったと思う。特に編集長に関していえば、見た目は男前(関係ないけど)だが言ったことは忘れるし、人の反感を買うこともかなりあるし、時間に関してもルーズ。ただ企画力に関してはさすがだな、と思うことが多かった。その切り込み方でページを埋めるんだ、と思うことがあったし、少ない情報でもページを成り立たせる事に関してはさすがだな、と思った。

それはラフ(下書き)を書く段階から感じ取れた。ラフの段階でページが想像できるし、なんだかカッコいいのだ。私がラフを書くと、ただの配置図で何も感じ取れないが、編集長のラフはなんだか良さげな雰囲気が漂っていた。当時の私は自分に0から1を生み出す才能はないのではないのか、と思ってしまった。


3つ理由は書いたがメインは3である。1と2の理由は置いておいて、自分を省みた時にこの奇人、変人っぽい人たちのように将来成れないのではないだろうか、と思ってしまった。自分がものすごくまともで面白くない人間に感じてしまったのだ。ある程度にはなれるが、ある程度にこなす自分しか想像できなかった。
一方で私はライターやカメラマンなどとのコミュニケーションや進行管理などには長けていたと思う。また何より編集部の3人が仲が悪かったため、その間を取り持つのがうまかったと謎に自画自賛している。最後の方の校了直前は全体を把握して自分が回しているという感覚があった。ただこの能力が活きるところは編集部ではないのではないか、と思ってしまった。

辞めたあとに感じたこと

今思えば当時の自分は甘かったし、少し時期尚早な判断だったと思う。そもそも大学を出たばかりのペーペーが編集長と比較して才能云々を考えること自体が間違っていたな、と思う。ただ後悔はしていない。やっぱり自分は向いていなかったな、と今でも疑っているし、自分が活きる道は他にあったのではないか、と思っている。

ただ単に我慢や努力と呼ばれるものが足りなかっただけじゃないの、と言われたら反論できないのも事実である。

編集者に必要だと思うモノ

これまた1年半しかいなかった人間が語るのはおこがましい。あくまで辞めて振り返った時の乾燥である。

やはり必要なのは強い自己肯定感といい意味での自分勝手さだと思う。

編集は自分が考えたものが世に出る。要するに俺はこれがいいと思っているんだ!!ということを世の中に発表する行為だと思っている。この2つの要素はどの仕事をする上でもある程度必要だと思っているが、雑誌編集という行為に置いてはとりわけ必要なものであると思った。

当時の私はまず自分は何に惹かれるか、ということもはっきりとわかっていなかったし、それを自信を持って言える気概も無かった。そんな奴のページは面白いはずがない。要するにこんな感じだと収まるかな?というようなことしかできていなかった。楽しめていなかった。作っている人間が楽しめていないものは見る方も楽しめない。

最終的に1年半ほどお世話になって辞めることになったが、今思うとたった1年半だがかなり経験値を積めたと思う。あのようなクセの強い人間がいる中で働くことはこれから無いと思うし、労働環境的にもなかなか酷かった。

そのおかげで辞めたあとはどんな環境でもあの時よりもマシだと思えたし、何より仕事=ページを自分ごととして責任を持って取り組むいうことを教えてもらった気がする。この経験は現職でも活きている。

今でも雑誌や書籍などのコンテンツを生み出す人には自然と尊敬の念が沸く。こんな文章を書いているのもなんとか0を1にしたいという憧れから来ているのだと思う。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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