過去がなくなると人は消える
この小説を読み終えた時、ことばを発することができませんでした。
いま私のことばでこの小説を伝えることは不可能だと自覚させられました。
もしかすると考察とか評論という位相で触れてはいけない作品なのでは、とも感じました。
だから、この記事も内容を語るというより、この驚愕(としか言いようがない)を伝え、わずかな感想を述べることしかできないです。
その本は、小川洋子『密やかな結晶』(講談社文庫、新装版、2020)です。
でも、他の読者がどう感じたのか気になるのでググってみました・・・
でも、このNOTEですでに書かれている記事の方がはるかに信頼できると思いましたので、詳しくはそちらをぜひ。
ここでは2点だけ記します。
翻訳できるのか
この作品は後に英語に翻訳され、2019年「全米図書賞」翻訳部門、そして、2020年「英国ブッカー国際賞」の最終候補になりました。
「密やかな結晶」が「記憶警察」というタイトルになり、デザインも何やらおどろおどろしいです。英語版は読んでいないので、訳自体にはコメントできません。ただ紹介文などを見ると、ジョージ・オーウェルの『1984』を引き合いに国家による監視社会というホラーとして扱う側面が強いように感じました。もちろん、小川作品にみられる独特の静謐さも強調されてはいます。でも、21世紀の現在の社会状況に引きつけて、「ディストピア小説」として捉える傾向もあると思います。
さらに秘密警察の弾圧に対して、住民たちがまったく「抵抗」しないという点に疑問をもつコメントも散見されます。封建社会の圧政との「闘い」によって民主主義を勝ち取ってきた欧米社会の歴史文化を背景にする人にとって、これは違和感があるのでしょう。
小説をどのように読むかは個人の自由ですし、それができるのが優れた小説だと言えますが、英語圏での受容のされ方と日本のそれとは少し違いがあるように感じます。
とにもかくにも、小川さん自身による美しいことばを読めることに感謝したいと思います(英訳も興味がありますが…)。
ちなみに、日本ではこんな表紙です。旧版と新版と二つあります。
さて、みなさんはどちらがお好みですか。
私は新しい方かなあ。とっても素敵だと感じます。文字は新版では大きい活字が使われていて読みやすいです。
わたしは過去からできている
次は内容と少し関わるのですが、ストーリーを通して進行する「消滅」という現象です。それは現象としては、モノがなくなる(あるいは自ら捨てるようになる)のですが、同時に、そのモノの機能はもちろん、モノに関する「記憶」がなるなるのです。
言い換えると「存在価値」が「見えなくなる」ということです。人間が長い年月をかけて用いてきた道具から、愛着をもって用いてきたモノたちがいとも簡単に「断捨離」されていく。何の感謝のあいさつもなく。
ストーリーの登場人物は3タイプあります。語り手など大多数の「記憶」を徐々に失っていく人たち、「記憶」をまったく失わない人、そして「記憶狩り」をする秘密警察。
洋書のタイトルが「記憶警察」とあるように、「記憶」ということばが小説でも頻繁に出てきます。これは確かにキーワードでしょう。
でも、私たちは過去をすべて記憶してはいません。どうでもいいことや嫌な記憶は徐々に忘れていきます。これは自然なことです。
人が大切にする記憶とは何か。それは「物語」なのではないでしょうか。
だから秘密警察が本当に消そうとしたのは、人が自尊心を持て、豊かな暮らしを送ることができる、心のよりどころとしての「物語」なのかなと思います。
そして、すべての物語は過去のものです。過去を大切にする社会は生き生きとしています。だから、「未来」とは「過去」から生まれるのだと思います。
なぞは沢山あります。記憶を失う人と、そうでない人がいるのはなぜか。彼ら同士は決して「一つになれない」し、愛憎ふたつの感情もあるように書かれています。
私たちの日常会話を振り返ってみると、かなり「昔の思い出」を話している割合が多いということに気づきます。「ああ、そんなことあったよね。」
という物語の共有は私たちに癒しを与えているように感じます。
だから物語を共有できない者同士は「居心地のよさ」を抱くことができないのでしょう。
★
最後に文学がとっても大切であることを言いたいと思います。それは物語の大切さ、小説を書くことの尊さです。
英語圏では、「ものがたり」=ストーリー・テリングが大切にされていますが、日本では自分のことを書いたり、人前で話すことは恥かしがられる傾向にあると思います。
これからはもっと個人の「小さな物語」を紡いでいく必要があるように思っています(国家や民族の物語は十分に、あるいは十分すぎるほど語られているのですが)。そして、「小さな物語」を共有したい。
今後、それを仕事の一つにしたいと思っています。
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