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文学ともっと付き合うと決めた

 フランス革命の激動の時代を生き抜き、理想の社会を目指して政治活動や著作を発表してきた偉人ビクトル・ユゴー。彼のことがずっと気になっている。

 『レ・ミゼラブル』と並ぶ代表作『ノートルダム・ド・パリ』。映画やミュージカルにもなっている。原作を読もうとしたところ、鹿島茂氏による解説本があると知り、読んだら、これが滅法わかりやすい。先に原作を読んだら、途中で挫折していたかも知れない。

 それは『ノートルダム・ド・パリ』が神話的小説だからだ。近代小説のように登場人物の一人の語りで話が展開していくのではなく、関連がなさそうな話が次々と出てきて、流れが見えず、あたかも複数の作者が書いているかのようだという。

 ところが、その大まかなストーリーは誰もが知っている。それが神話的である所以だ。原作を直接読んだことがなくても、大体の内容は誰もが知っている。時代が変わって、神話をリメイクしようとする人が現れ、細部を変更してもかまわないのだ。

 つまり、『ノートルダム・ド・パリ』は開かれた小説だったのだ。これまで様々な小説を読んだ時に、その世界に入り込める作品とそうでない作品とがあったが、それは「作家性」という作品の閉じられたの性格によるものだったのだろう。

 近年、アートとの付き合い方について、教養として学ぶという態度ではなく、自由に解釈してみようという提案がある。作品をどう感じるか、そこから発想をどう広げるかは、見る人の自由である。この解釈が正しいということはないのだ。

 大学には文学部というものがある。社会の役に立たない学問などと、自虐ネタになりがちで、実際に権力者は国の発展のため、若者の理系進学に腐心している。

 文学部といっても、その中には文学、史学・地理学、哲学、心理学などがある。この中で、真にクリエイティブで開かれている学問はどれだろうか?

 もちろん文学と哲学だろう。それ以外の学問は、どこかで実用性や科学性を意識している。役に立つ、とか役に立たないとか。そのような考え方自体がおかしい。その発想の行く先に国家が見えてくる。政治的な臭いがするところがあまり好きになれない。

 人間という存在の謎。自然という近くて遠い驚異。

 あらゆる壁を超え、無限の可能性を秘めているから、文学は面白い。


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