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脱中心化の発想。自分の「メガネ」を認知することで見えるもの。

こんにちは。RELATIONS代表の長谷川です。

今回のテーマは、「脱中心化の発想」。これからの組織、また社会において必要な考え方だと捉えています。
”いかに脱中心化な発想を構築していくのか”について、私なりの考えを綴ってみたいと思います。

そもそも「脱中心化の発想」とは

そもそも、脱中心とは----
発達心理学者のピアジェが提唱した、「子どもの思考の発達過程」を系統立てた概念です。
脱中心とは、自分の視点だけではなく、他者の視点(見えている世界や考え方)を理解できるようになることです。他人が異なるものであることを理解し、自己中心性の強い思考から抜け出すことを意味します。

変化が激しい時代。あらゆる前提が次々と置き換わっていきますよね。しかし、人間の特性上、自分の前提を正しく認識し続けていくことは非常に困難なこと。
脱中心化が大切だと考える理由には、そういった背景があります。

例えば、他社がうまくいった事例ばかりに経営者が着目し、それを自社に取り入れるのが良いと考えている場合です。これを書きながら、私自身もそんな経営をしていた時期もあったので、なんとも言えない気持になっていますが。(笑)

最近だとDX、OKR、HRBP、パーパス経営など色々とバズっているテーマがあります。「これは良い」と口コミを聞くとすぐに飛びつき、結果として自社には定着せず、肝心な組織課題は解決しないまま、表面上の制度だけが次々に変わっていくという話はよく耳にします。

ここをより深く見ていくことが大事です。
経営者が外の成功例にばかり目を向けているときというのは、自信がないことの現れである場合が多いです。ポイントは、そのことを経営者が意識的に自覚できていないことで、そうなると問題は複雑化します。
経営者の心理状態からはじまり、気づかないうちにじわじわと「我々は自ら生み出す力が無い」という認知に変わり、会社全体に広がっていき、自分たちは何者かという部分を深ぼることなく、”他人を真似る文化”が根付きます。

これを脱却するためには、自分の前提を正しく認識することが大切です。この際に、脱中心化は有用な概念だと感じます。

世界という枠組みで見た、「脱中心化の発想」

では、組織からさらに視野を広げ、世界の例で見てみるとどうでしょう?

どの本で読んだか忘れてしまったのですが、メモをノートにしていたので、それを抜粋します。

『モアナと伝説の海』というディズニー映画がありますが、それは、ポリネシアの神話がベースになって構成されています。また、『リメンバー・ミー』は、メキシコのフォークロアと呼ばれる民族音楽の世界観をベースに描かれています。

実際に、製作者にも現地スタッフを入れて制作し、忠実に再現しようとしています。しかし、全世界での興行成績につなげていくためには、忠実なポリネシア、メキシコのフォークロアの世界観の再現では難しいのです。

メキシコのフォークロアでは、生者よりも死者の存在が上であることが常識であり、ポリネシアでは、自然、とくに海が人間よりも特別な存在として扱われることが常識です。

その他地域を基準にすると、ポリネシアやフォークロアの常識は非常識となる場合が多く、一般の方には受け取りづらいものになってしまいます。
圧倒的な興行成績の獲得を優先すると、そういったリアルさは横に置き、アメリカを中心とした、世界で常識とされている見方に、一部置き換えてリリースする必要があるのです。

このあたりの見方も、本当に難しい問題だなと感じます。
住んでいる国の文化や風土は、その人の「前提」を形成するのに強く影響を与えます。そして、その「前提」から考え、行動をしていきます。

この映画の話を例にすると、アメリカで編集されて、アメリカの前提が含まれた実態を世界が受け取る構造になっています。フォークロアやポリネシアのピュアな現実を正しく理解できず、実態とはかけ離れた認知が形成されてしまうわけです。
国でも会社でも家族間でのコミュニケーションや情報伝達においても、同様のことは多発しているように感じます。

正義と正義の衝突も、こういった掛け違いから前提が理解し合えなくなっていく。それが究極的には、戦争になるのだろうなと感じます。

組織という枠組みで見た、「脱中心化の発想」

組織に話を戻しましょう。
組織でも先程の例と同じことが言えます。
組織に集まっている人々は、みな違うバックグラウンドを持ち、職歴もまちまち。その組織の何かしらに共感しているから所属しているわけですが、各々の心に根ざしている価値観・考え方は少しずつ違うはずです。
所属先の組織とクライアントの間でも、「当たり前」は異なるでしょう。

RELATIONSの例をご紹介します。
ここ1年程、パーパスの再策定をするタイミングで、社内対話の機会を多く設けてきました。
その結果、「脱中心化の発想」までは行きませんが、それぞれが異なる意見・思想を持っていることを認知した上で、「自己中心性の強い発想」に偏っていないかどうかを自分自身に問いかける機会が社内全体で増えたなと感じています。

例えば、最近社内のミーティングやチャットでは、自分の視点・誰かの視点でものごとを見る、という意味で、「メガネを掛ける」というフレーズが多く使われています。

実際、社内のチャットで最近出てきていた発言がこちら。

色メガネ無く、あらゆる立場から話を聞くことが大事ですね。
● 自分たちの会社や業界という”メガネ”を敢えて外して世間を見ることが大事なんだろうなと思ったわけです。
● その観点は、自分のメガネを色濃くはめている気もする。
● この表現に対してイマイチ腹落ちできないのは、自分のメガネの解像度が低いからなのか?
● 合宿の経験を経て新しいメガネをゲットして、普段の価値観が変化したことはあるかな?

RELATIONS社内で、これだけ「メガネをかける」という表現が出始めたのも、この1年で対話を深めるなかで、自分と他人のメガネを認知できるようになったからだろうなと感じます。

最後に

いち組織でも脱中心化の発想をするのは難しいですし、世界全体まで広げると本当に果てしないですね。

だからこそ、一人ひとりが、自分の認知なんて所詮そんなもんだという認識を土台にし、素直なフィードバックや対話が行き交うようになればいいのになと感じます。フィードバックを受け取り合って認知を広げていくことができると、組織全体として多様性を包摂できるキャパシティも広がりやすくなります。

まずは「自分は何かしらのメガネを通してものごとを見ている」という認識を持つことが大切で、それを自覚することで、他者のメガネを理解する一歩にもつながっていくのではないでしょうか。

他者のメガネ=新しい視点と捉えると、視野がどんどん広がっていくようなポジティブなものとして受け取ることもできますよね。

今日はこんなところで。

ええ一日にしていきましょう。

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