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私をとことん思い悩ませた2019年5月のできごと#平和ってなんだろう

見えないと、身近に感じられない。
だから、なかったことにできてしまう。

そんな不条理を痛感し、
私自身も「なかったこと」に
していないだろうかと自らに問うた。

2019年5月。
Twitterに流れてくる情報を、
指一本でのスクロールにより
取捨選択していた時のこと。

現在の世界情勢を嘆く
いくつかのツイートを目にし、
なぜだか虚無感に襲われた。

ちょうどその頃、
日本では元号が改められたところで。

「平成」を振り返るニュースや
「令和」はどのような時代にしたいか
といった世論調査などが
多く出回っていた。

その中で私が目をとめたのは
このニュース。

ここで使われている「平和」という言葉は、
どのような意味をもっているのか?


甚だ疑問に思ったのである。

さらに加えて、
「戦争がなく」というのは、
どの立場での、どの視点での話だろうか。

5年生のクラスで、学級委員をやっていた少女に「平和って何?」と質問してみた。その答えを聞いて驚いた。彼女は迷わず「民主主義、人権、環境」と答えたのだ。

私は平成9年に生まれた。

よく言われるセリフは
「阪神・淡路大震災を知らないの?」
「2000年問題って知ってる?」
「ガラケー持ってた?」などである

その私ですら、
アメリカのアフガニスタン侵攻や
イラク戦争、エチオピアのソマリア侵攻、
リビア内戦、ウクライナ東部紛争…

と、全て挙げればキリがないほど、
記憶に刻まれている戦争がいくつもある。

このニュースを知り私は、

私が生きてきたこの世界で、
「平成は平和な時代だった」と
述べられる人が多くいることに、
衝撃を隠せなかったのだ。

なにが悔しいのか、
なにが虚しいのか、
なにが切ないのか、
なにが足りないのか、

もう何もかも分からなくなって、
流れる涙が止まない日々を過ごした。

わたしが大切にしたいものって、
なんだっけ?

わたしの「軸」って、なんだっけ?

私は今日ものうのうと大学に行き、
自分に必要な授業を受け、
図書館で勉強をした後、
平穏無事に帰宅した。

当たり前のようにご飯にもありつけ、
当たり前のように屋根のある家で
眠ることができる安心感がある。
おまけに湯船にお湯をはり、
お風呂にまで入れた。

たしかに、現在の私の日常そのものは
平和と呼べるものなのだろう。

でも。だけど。

その頃、チュニジアでは?
その頃、リビアでは?
その頃、ベネズエラでは?
その頃、エルサレムでは?
…。

いや。
その頃、この国のどこかでだって…

バカにしたい人は、
どうぞバカにしてください。

私の夢は「世界平和」です。

生まれた場所が違うだけで。
生まれた時代が違うだけで。
生まれた環境が違うだけで。
生まれた何かが違うだけで。

「人はだれも愛される権利がある」

その権利すら
持つことを許されない人がいる。

子どもの権利条約が批准されても
なお教育を受けられない子どもが存在する。

「ただそこで生きていく」ということが
叶わない現状は、どうして存在するのか?

これらの現状を打破するために、
私は何を変えればいいのか。
私に出来ることはなんなのか。
私は日々何を実践すればいいのか。

悩んで、悔しくなって、
無力感に襲われて、
罪悪感にさえ苛まれた。

平和ってなんだろう。

本当にそれが心から知りたくて。
本当にそれを心からみんなで考えたくて。

この続きは、
別のnoteに綴ります。

まだ、答えは見出せないけど。

それでも。
少しでも。

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