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これは神様ってやつ?

不思議なこと

「俺は昔、水中毒で数日意識不明になったことがあっての。そのときに球体が語りかけてきて・・お前はこれからどうしたい?って聞かれたんじゃ。そのときに俺は球体に向かって生きたいです!って言ったんよ・・。そしたら目が覚めての・・。病院のベッドの上におって、家族が心配そうに俺の顔を覗き込んどった・・。」

この話は「ひきこもり」の当事者が通うフリースペースで知り合った人の体験談です。

「私は神戸の淡路大震災で被災して死にかけたことがあるんです。そのときに空に浮いてて周りを見回すと同じように人がいっぱい浮いとったんです・・。それで先を見るとね、そこに、あれ?あれは京都の植物園かな?っていうぐらいの花畑があって・・皆がそこに向かっていっとんたんですわ・・。それで何故かね、あっちの方に行ったらいかんと思って引き返したんです。そしたら目が覚めたんですわ・・。」

これは昔の職場の同僚の証言です。

彼はその頃神戸で被災をし、会社の建物の下敷きになったそうです。そのときに意識不明となり、人がいっぱい浮いている世界を見たそうです。

これが真実かどうかはわかりませんが、私はそういう不思議な話があったら良いな〜と思うタイプの人間です。

スペインでの不思議な体験

私は昔スペインに巡礼に行ったことがありました。
そのときの体験を紹介したいと思います。

そのとき私は1人で山道を歩いていました。まだ巡礼を始めて2週目ぐらいの時期で、日本人が周りに全くいません。それもあってモロにホームシックにかかっていました。

とにかく日本に帰りたくて仕方がなかったのです。

その日はまだ10キロ足らずしか歩いていなかったのですが、最寄りの村に着いたらこの日の巡礼は切り上げるつもりでいました。

山道で刺激もなく、体力的にも極限に近い状態でした。

すると声が聞こえてきたのです。そのとき周りには誰もいません。声は私の脳内言語ではなく男性の声でした。

私は歩きながらその声と会話をしていました。

そしてその声に向かって私の将来について相談をしていたのです。相談内容は覚えていないのですが、声からの返答は概ね肯定的であり、「安心しろ」的なことをひたすら言われた記憶があります。

しかし彼女(車いすユーザーで今でも付き合いが続いている)の話になると、声の主の歯切れが悪くなり、「それはお前次第だ・・」と突き放されるのでした。

こうやって字面にすると、声は私の願望のように見えてきます。怪しい・・。

突如ベンチに座れ!と言われる

見出しの通り、その声が私に目の前にあったベンチに座れと言ってきました。

確かに道の先にベンチがあったのです。

ベンチに近くなるほどに「座れ!」という声が大きくなっていきました。私はわけがわからないままにそのベンチに腰をかけました。すると声がピタッと止んだのです。

気力の衰えは激しく、これ以上前に進むことはできないと思っていました。するとベンチに座ってからすぐにスペイン人の集団がやってきたのです。

ベンチに座る私に彼等は声をかけてきました。

地図を出してきて、私たちは今日この村まで行くと言います。そして、一緒に行かない?というお誘いでした。

しかし私の気力は削られていたので、一緒に行くことはお断りし、その村に今日中に行くことだけをお約束して、その場は別れました。

その日の夕方

なんとかその日の夕方に、目的の村に到着することができました。

気力が落ちていても腹は減るもので、カフェのようなところでパエリアを食べていると先ほどベンチで知り合ったスペイン人集団の1人が私に声をかけてきたのです。

その日から数日間、私は彼等と行動を共にするようになりました。

どうやら彼等はこの旅の途中で何度も私を見かけていたようで、気に留めていたようです(1人で、きっと浮かない顔をしていたのだと思われる)。

ちなみに私のスペイン語は「子供レベル」で、発声だけは良かったそうです(巻き舌ができたから)。そんな子供レベルの私のスペイン語なのですが、何故かそのときは彼等の話していることが何となくわかって、世間話をしながら旅を共にすることができました。

そして私は彼等の陽気な雰囲気に引っ張られて気力を取り戻していったのです。

山道を歩いていたときに聞こえてきた声がベンチに座らせなければ、私はスペイン人の集団と行動を共にすることもなく、その後の巡礼も続けることができなかったかもしれません。

声の結論

ここからは私の仮説です。

あのスペイン巡礼で聞こえてきた声というのは、私が特別な能力があったからではなく、本来なら誰でも聞こえているものだと思うのです。

環境は山道で周囲に人がいない状態。そして音楽も聞いていませんでした。

巡礼者たちは英語かスペイン語を使い、意識していないと彼等の話している言葉は理解ができません。このように、あの山道を歩いていた空間だけではなく、1週間以上刺激の乏しい生活を送っていました。

そして体力的にも疲弊していたので、物事を考えるエネルギーもありませんでした。

このような状況が長い間続くということは日本ではあまり無いことです。

だから、もしかすると人間というのは私が体験していた「声」的なものが聞こえているのではないかと思うのです。

ただ日常の私たちは、日本語で何かを聞いたり、読んだり、意識していなくても意味のある言葉が耳に飛び込んでくる環境にいるので、常に刺激を入れる生活を送っています。また体力的にも極限状態に近いことになることはないので、理性が働いて考え事をしてしまうのです。

だからもしかすると1週間以上、日本語(刺激)を耳や目から遮断して、考え事ができないぐらいに疲労が溜まると私のような「声」が誰でも聞こえてくるのではないかと思いました。

溺れたときにも「声」が聞こえてきた話

この話を帰国後、人に打ち明けたことがありました。

すると彼も同じような体験をしたことがあると言うのです。

彼は大学時代にヨット部に所属していたそうです。ヨットに乗っているときに転落してしまい、海中でヨットの本体の下敷きのようになってしまい、抜け出せなくなってしまったそうです。

すると水中にいながらも「声」が聞こえてきたそうです。

声は彼に対して「右に・・・」「左に・・・」と指示を出してきたそうです。

その通りに体を動かすと本体の下から抜け出すことができて、九死に一生を得ることができたそうです。

私の説の刺激が乏しい状態が継続する、また極限の疲労状態という条件とは異なりますが、「声」の経験はどうやら私だけではないようです。

このようなスピリチュアルな経験は人から毛嫌いされる可能性があるので、滅多に話をしないのですが、世の中には不思議な経験というのものがあるんだなと思います。




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