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カウンセリング遍歴。

性格分析を受ける

高校時代。各クラスで問題行動を起こす生徒をこっそりと呼んで、大学の先生の立ち合いのもとで性格分析のテストをやらせるという時間があった。

私は見事にその中のメンバーに入れられた。そして「東大式エゴグラム」と呼ばれるものを受けたのだった。

設問に答えていき、各設問の答えが点数となり、性格傾向を現す5つの分野でその点数が加算されていく。そして自分の性格を知ることができるというもの。

私の性格の問題点は、猫を被っているという数値が異様に高い半面、主体性が著しく乏しいことだった。

大学の先生は検査結果の用紙を指差しながら、「ここを抑えて(猫被り)・・ここを伸ばした方が良いね(主体性の部分)」と指摘してきた。

そして先生は結果を聞きにきた母に「お母さん、この子を一人にしないでください・・」と言っていた。

また先生は私に対して、何かあったらカウンセリングを受けにきてくださいと命綱を目の間に垂らして帰っていった。

しかし先生の期待も虚しく、私はカウンセリグを受けにいくことも無かったし、自分からひとりになっていった。

主体性に目覚める

私がひきこもって病んでいくと、家族が私を中心にしてまとまったような気がする。

それまで私の家族は不仲というわけではなかったのだが、まとまった家族ではなかった。だから私がコケることで我が家の家族の底力が浮かび上がってきたようだった。

それまでの私はただフラフラと漂うだけで、自分の意思というものがほとんど無い人間だった気がする。

それがひきこもった途端に目が覚めて、主体性が少しずつ目覚めていったように思う。何とかしないと!という危機感を得ることで、私の中の自我のようなものが芽生えたのだろう。

そう思うと、ひきこもり生活は私にとって必要だったのかもしれない。

言葉を求める

カウンセリングを受けた帰り道のこと。電車代を浮かせるためにひたすら歩き続けながら、カウンセリグの振り返りや、今後の人生について考え続けていた。

すると急に言葉が湧き上がってきた。

「うぁー!!」思わず叫びそうになった。
今まで押さえつけていた言葉が一気に爆発したように吹き出してきた。そんな感覚だった。

これらの言葉を次回のカウンセリングで伝えようと思い、メモを取り出し書き取り始めた。しかし頭から吹き出る言葉にメモをとるスピードが追いつかない。

この日に私は言葉を得たような気がする。


不登校になる直前。私はこの悶々とした気持ちを母に伝えて解決してもらおうとした。

当時の悩みは朧げにしか覚えていないのだが、人の中にいるときに自分の価値が見出せないということ。また、自分がとても頼りなくて、このままでは生きていけないという不安があったような気がする。

その気持ちを言葉にしたかったのだが、生憎私はそれを言語化する力がなかった。

悶々とするも言葉にできずにもどかしい気持ちの私。まったく理解できない母。

私は怒り狂って壁を蹴ったり、部屋の扉を力いっぱい閉めて母を威嚇した。


私には言葉がない。
そう思い、辞書を携帯して歩くようになった。
読書を始めるきっかけとなった中島らもさんが稲垣足穂を敬愛しており、その足穂さんは広辞苑を愛読していたというエピソードを語っていたので、まんまパクって広辞苑を読むようになった。

言葉がないと思っていた私はひたすら読書をするようになった。そして、知らない言葉が出てくると広辞苑を開いて言葉の意味を調べるようになった。

稲垣足穂は広辞苑を愛読していたが、私は広辞苑を呼んでも面白いとは思わなかった。また稲垣足穂さんの本を読んでみたが、難解すぎて面白いとも思わなかったので、唯一購入した一冊も最後まで読み通すことはできなかった。

某市民病院にて

森田療法か何かの本で、私にそっくりな症例の人が出てきた。
そのときに私は病気なのだと気付いた。
それが嬉しかった。病気ということは治る可能性があると思ったからだ。

某市民病院の精神科で受診を試みる。

待合室には多くの患者がいた。あるおじさんはひたすら両手を使って、ひとりジャンケンを繰り返す。またある人は持っていたセカンドバックを飛行機が何かに見立てて「プシュー」と効果音をつけて遊んでいた。

待合室に2〜3時間待ち続けている間、それらの人たちを観察していたので暇になることはなかった。

他の患者さん達には申し訳ないが、患者さん達を見ていて自分は落ちるところまで落ちたと思った。

長い待ち時間を経て、やっと私の名前が呼ばれた。ここまで来るまで長かった・・。

私は医師に向かって症状などを伝えた。すると医師が口を開く。
「はい・・あなたは強迫神経症ですね。お薬出しときまーす。」
これだけ・・・本当にこれだけ。

待ち時間2〜3時間なのに、受診時間は5分ほど。私は呆気にとられた。薬を処方してもらうも飲む気もなかったし、これは何か違うと思った・・。

この某市民病院には2度と通わなかった。

精神療法

その後に通い始めた病院は何度か受診を受けた後に「精神療法」というものを勧めてきた。

私が必要に感じていたのは、服薬ではなく「治療」だった。
「精神療法」を医師から勧められた時は「よしっ!きた!」と嬉々とした。

カウンセリングや箱庭とか、〇〇療法と名が付くものは魔法の杖のようなものだと思っていたので、これで治ると思った。

しかし、そこから私は2年以上は通ったと思う。次回こそは自分に変化があるかも・・と期待しながらズルズルと年月が過ぎていった。

そして辞めるに辞められなくなったある日の受診日の待合室でのこと。ソファーに座って今回のカウンセリングで話すことを考えていた私に他のスタッフさんが話しかけてきた。


「〇〇先生ですが、先週退職されました・・・。突然のことだったのですが・・。今後のことをお話ししようと思います・・。他の精神療法のスタッフが引き継ぎますが、どうされますか?」


えっ?ここまで関係性を築いてきたのにまた一から始めるの!!!!?
もうそんな余力はなかったので、私は治療の継続をお断りすることにした。
すると心無しかスタッフさんが安堵したような表情となって(そう見えた気がする)その場を去っていった。

このように私のカウンセリグ遍歴は強制的にピリオドを打たれた。

しかしこのカウンセリグの日々で、自分の気持ちを言語化するという訓練はできたので、人に気持ちを伝えることは昔よりかは上手になったと思う。






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