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供養してください

 お久しぶりです。noteという媒体自体を久しぶりに開きました。
 小説は書いてはいたのですが新人賞のほっそい箸に運よくひっかかることを夢想して応募していて、それでネットでの公開ができませんでした。まあそれほど沢山書いたわけではないけれども。結果?もちろん落選です。応募当時はそこそこ自信のあった作品も、見返すと全然うまく書けていないじゃんの連続で自分の伸び代が空恐ろしいですね(白目)
 さて、今日久しぶりに友人からnoteでおすすめの記事があるからということで開いて、ついでに投稿しておくかというノリです。没作品ではありますがそれなりに時間をかけて苦しんで生んだ子です。供養してやってください。

春霞の海


 
 海沿いの自転車道を、後輪の荷台に白色の大きなクーラーボックスを括りつけてゆっくり走る少年があった。左手には自衛隊駐屯地の鉄条網に隔てられた松林が、右手には身長の倍ほどある崖の下に砂浜と海が広がっている。黄砂混じりの大気が海を淡い水色にぼかしている所為で水平線が瞭然としない。道端に蔓延っている耐乾性の草花が妖しい香気を放ち、それに惹かれた熊蜂があちこちで物々しい羽音を唸らせている。不図その一匹が少年の耳元を掠めたときには、少年は殆ど無頓着といった様子で、軽く首を傾げるようにして距離を取ったばかりであった。蜂は新たな蜜を求めて次なる花弁へ向かうのみで無害なことを少年は知っていた。
小川に架かる橋を越えると広やかな砂浜に出た。少年は適当な場所に自転車を停め、肩の凝りそうな荷物一式を揚々と担いで波打ち際の方へと足を向けた。白っぽく粒の細かい砂に、丈の低い草が強かな生命力を誇るように根を張っている。海に向かう傾斜が大きくなるともう植物は生えず、代わりに漂着した人工物が帯をなしていた。足を踏み出す度サンダルに入る砂は恰も少年を侵そうとする自然の営力のようであって、彼はその感触にどこか観念的な心地良さを覚えた。
 少年は波から少し離れた場所に荷物を下ろした。春の日差しがじりじりと少年の肌を焼き、汗が額に幾条かの流線を描いた頃に仕度は終わった。今彼の両の手に握られたのは、その先に垂れている二十七匁の天秤式錘に撓められた、黒々として艶めく三尋の釣り竿であった。少年は自らの姿勢を確かめるように徐に キャス ティングの構えを取り、専用のプロテクターで保護した人差指の先端に放つべき糸を掛けた。緩やかに波の興る様をどこか儀式めいた厳かさで屹と睨んで静止する少年には、波の砕ける音だけが鼓動のように耳に木霊していた。
 少年が竿は唸るように撓り、錘と仕掛けは空気を割く鋭い音を残して忽ち見えなくなった。リールに巻かれた糸は軽快な音で放たれてゆく。少年が糸巻スプールを指で押さえるのとほぼ同時に、遥か前方で水面が小さく爆ぜるのが見えた。一定の長さ毎に色分けされた糸は、少なくともそれが百二十五メートル以上出ていることを示していた。少年は久しぶりの投擲が成功したことに満足して息をいた。
 竿先をツウ、と小走りくらいの速さで大きく煽り、弛んだ糸を巻き取って暫く止める。また竿先を大きく煽る。再び静止する。竿先は錘と海底の摩擦の分だけ曲げられ、時折吹く風に僅かに戦ぐ。少年はそこに刺すような眼差しをと送っている。
 十幾回目に竿を煽った直後だった。グッと竿先が不自然に引き込まれる動きを見せ、同時に少年の手の内にかすかな震動が伝わった。魚信アタリである。少年は昂る気持ちを抑え、竿を煽るのを止めた。竿先は僅かな動きを続けていたが、しかしそれは風による動きと明らかに区別される程ではなかった。十秒程待つ。竿先を、今度はゆっくり大きく煽った。只の重さだけではない、ググ、という生物的な手応え。リールを回す手は、一抹の不安を振り払うように早く、しかし早すぎないように動かされた。竿と糸の成す角は小さくなってゆき、軈て水面に飛沫を上げて錘が姿を現した。と、その先に白っぽい魚体が覗いた。掌に収まる程の、紡錘形の影だ。糸を巻き取り、持ち上げるようにして竿を起こすと、魚は水面を割って、真珠色の腹部を煌めかせて空中に躍り出た。白鱚だ。少年は魚体を濡れた手で柔らかく掴むと、手早く口に掛かった鈎を外した。少年の掌中で溌剌と打ち震えるその生命の精気は、少年の官能の根源的な部分を心地良くくすぐった。しかし少年は同時に——煌めく喜びの向こうから霞の如く垂れ込める、をも認めないわけにいかなかった。
 水汲みバケツに入れられた魚は悠々と泳ぎだした。少年はそれを見届けると蹲んだまま仕掛けを置いた方に移動し、慣れた手付きで餌を付け替えた。いざ二度目の投擲の準備が整い立ち上がろうとしたその時、少年はよろけてその場に崩れ落ちた。強烈な立ち眩み——視界の全てが朱色に染まるほどのそれは、少年の平衡感覚を俄かに強奪した。少年は心中で罵りながら、この暴力的で不合理な げん  うん の過ぎ去るのを待った。頭蓋に響く心臓の音が漸く落ち着いた頃、漸く少年は力を取り戻し恐る恐る立ち上がった。再び起こった眩暈の波は、今度は直ぐに通り去った漣に過ぎなかった。気怠さの中、少年は再び投擲を行ったが、仕掛けは先刻より随分近い所で水飛沫を上げた。少年の表情には倦怠と疲労が汗の様に滲んでいた。
 
  徐にリールを回す少年の表情が険しいのは、 ただ にじくじくとした痛みを訴える頭の為だけではなかった。彼の表情を曇らせているのは余りに大きく模糊として捉え難い或る憂鬱だった——もしこの憂鬱の正体が釣れた魚への不満足であったなら、或はこの美しい命を奪って了う事への罪悪感であったなら、どれだけ彼にとって楽だっただろう。しかし現実はそうではなかった。この憂鬱は平生の彼が抱えている或る大きな憂鬱の一部分に過ぎず、より正確に言うならばその大きな憂鬱すら、不本意にも彼が背負って了ったより大きな問題の一部分でしかなかった。
 第一投とはうってかわって今度は竿先が僅かにも震えないまま、仕掛けはだんだん岸へと近づいてくる。百メートルほど投げていたのが三十メートル付近になったころ、少年は巻くのをやめて竿を竿立てに置いた。風は先刻より少し強まり、リュックサックの紐を揺らしている。少年は遥か水平線を望み目を細めた。
  少年が初めて釣りに行ったときのこと、それは未だ小学校に入りたての頃、祖父に連れられて行った海釣り公園だった。地磯と砂浜の間に突き出した桟橋から見る海の群青は、夏の陽を受けてどこもかしこもが燦燦と輝いていた。少年は初めて見る世界をきょろきょろと見回しながら、祖父の後に付いて桟橋の更に先の方へと歩いた。軈てこの辺りで良いだろうと祖父は腰を下ろし準備を始め、無沙汰になった少年は救命胴衣の紐を弄くりながら周りの様子を落ち着きなく見た。準備が整った。少年の背丈の四、五倍はありそうな長い竿、鈎が幾つもついた仕掛けの下にメッシュ状の小さな籠がついている。見てなと言い祖父はメッシュ状の籠にピンク色でグチョグチョした餌を詰め、仕掛けを海にドプンと落とし込んだ。少年が海を覗き込もうと身を乗り出すや否や、祖父はもう来たと呟きリールを巻き始める。と、沈んだ糸の先で何かキラリと光るものが見えた。直ぐにその姿が水面を割った。銀色の体を閃かせ躍動する魚は、見る間に桟橋の上に打ち上げられた。竿を置き、魚に掛かった鈎を外した祖父は、ほれ、見てみと少年に にっ  こり 笑いかけた。皺のある手の中に踊るその魚は少年の胸を高鳴らせた。少年は生きた魚を直に見るのは初めてだった。これ何て魚?これは鯵。へえ。少年が目を輝かせているうち、祖父はそれを水汲みバケツにポイと放った。もっと見たかったのに、と少年が非難がましく言うと祖父はじゃあ釣ればいいと言って笑った。
 祖父によるレクチャーが一通り済んだ。籠に餌を詰めるとき、少年はこれでもかというくらい詰め込んで祖父を笑わせた。竿は少年にはまだ重く、仕掛けを落とし込むところまでは結局祖父がすることになった。早く代わりたくてうずうずしている少年を傍に、祖父は悠然といった様子で仕掛けを落とし込む。着水して直ぐ竿を手渡された少年は少してながら竿を保持しようと力んだ。と、竿先がグッと引き込まれると同時に、ブルブルと小刻みな震動が手に伝わった。おお、釣れとる釣れとると祖父がのんびり言うが、パニックになった少年はおろおろとし、リールを回すんだ、と言われて先刻言われたこと漸く思い出した。覚束ない動きでリールを回すと、銀色の魚体がゆっくりと海面から覗いた。喜んだのも束の間、釣れていた筈の魚は空中で鈎からスルッと外れ、再び海へと還っていった。祖父が笑いながらしょうがない、またすぐ釣れると言わなかったら少年は泣きだしていたかもしれない。気を取り直して第二投。またしても交代するが早いか竿先が震えた。今度こそ外れないようにと祈りながらリールを巻く手は、先刻より少しだけ早く動いた。キラリと水中で煌めく姿が見え、軈て水面を割って魚が現れた。少年は大いに興奮し騒ぎ立てた。バラすなよう、と祖父が見守る中、少年は魚の付いた仕掛けを桟橋の上に着地させることに成功した。ようし、と満足げに言いながら桟橋で跳ねまわっている魚に歩み寄り、熟練の手付きで鈎を外し少年に手渡した。少年は生きた魚に触るのはそれこそ初めてだった。手の中で暴れる魚は暴力的なまでに生命的で、そして輝いていた。
 その日からすっかり釣りにのめり込んだ少年は休日の度に祖父や親にせがんでは釣りをした。しかし少年の釣りへの欲求は、釣行の頻度を圧倒的に上回るものだった。抑し難い欲求は代わって彼に様々の情報や道具を求めさせた。軈て彼が中学に入る頃には釣りに関わる本が本棚の一段を埋め、また釣具は自室の収納から殆ど溢れんばかりとなっていた。
 中学生になり新たな自転車を買い与えられ、行動範囲の広がった彼は欣喜雀躍し、勇んで釣場の開拓を始めた。学校から帰るや否や荷物を置いて飛び出し、陽が暮れて二時間も経ってから体のあちこちに擦り傷をこさえて帰ってくることもあった。両親は心配し乍らも温かい視線で遠巻きに息子の活動を見守った。
 彼には地図を眺める癖がついた。それも わざ  わざ 書店で購入した紙の地図である。勉強机の端に置いたそれを、彼は勉強の息抜き何かによく見た。勉強の捗らない時であればあるほど、地図に書かれた青色の線は彼を際限なき夢想へと彼を駆り立てるのであった。山地を示す緑色の只中に毛細血管のごとく縮れた青色があれば、少年はそこに夥しい数の細流を あつ めながら岩間を縫って はし る渓流を、その中に煌めく銀鱗を見る。或は田畑の広がる少し開けた盆地の山と田の境に、多くの直線と繋がる緩やかな曲線があれば、彼はそこに多くの用水路と連絡しつつも本来の形態を残す、緩やかで少し泥濁りのした川とその ヌシ たるべき大鯰や巨鯉の悠々と遊び居るを見るのであった。
 中学一年の或る秋の日曜日のことだった。その日はずっと穏やかな風が吹いていて、暑くも寒くもなく薄曇りの、釣りには絶好の日和だった。家族の未だ起きぬうちから仕度を済ませた少年は、特別気に入っている或る場所へ自転車を漕ぎ出した。自宅のある住宅街を出て車通りの多い国道を暫く行くと、次第に登り坂と緑が増えて来る。そのあたりから細い道に入り、やがて人家が疎らになって、片側が崖でもう片側が民家の横幅の狭い坂に出会う。それを十数棟ぶんほど上ると豁然と視界が開け、山間の農村にでる。少年の目的はその中心部を流れる清流であった。澄明な流れは多くの淵を擁し、 はや を始めとしてカマツカやドンコなどの底生魚も多くいた。少年はその場所を一目で気に入ったのだった。
少年は川の傍を歩き乍ら、大きな淵の有る毎に竿を振ってまわった。餌は敢えて持参したものではなく周辺の土を掘ったり草をかき分けたりして見つけたミミズや青虫なんかである。彼はそのカエシのついていないスレ鈎で、小さなものは逃がしつつ食い出のある良型のもののみを魚籠に入れていった。或る時、少年の顔の近くの枝の先にシオカラトンボが停まった。風が吹くとそれは悠々と田圃の方に飛んで行った。青々とした稲の株が流れる。少年は陶然とその風景に感じ入った。少年を緩やかに包んだ感情が余り懐かしさに似ていたので、彼はずっと昔からこの場所を知っていたかのような気がして已まなかった。茜色の強まりゆく陽が、温かな寂寥感を少年の胸にゆっくりと落としていくようだった。何時までもそこにいたいと少年は思った。帰り際、翌日からまたいつも通り学校が始まることを憂うまで少年はよく噛み締めるようにして自らの幸福を味わった。
 
 学校——そこは水辺と極めて対照的に少年の居場所ではなかった。生徒数の多い公立の中学校によくある規則偏重の軍隊教育を、少年は心底憎んでいた。宿題を忘れたか何かで廊下から毎朝のように聞こえる怒号。夏休みまで延々と終わらない体育の補習授業。集団行動のできない人間が社会に出られないという建前らしいが、教師の自己満足にしか少年には思えなかった。体罰は悪いという風潮が広まってきているので殴る蹴るは滅多に無いが、小突くとか突き飛ばすとかの所謂「グレー」な体罰は日常茶飯事のように行われる。こうして生徒という家畜が教師という薄給の飼育者に管理され、値踏みされ、そしてストレスのはけ口にされる場所の事を学校と呼んでいることが、少年には滑稽にすら思えた。
 教師が教師なら生徒も生徒だった。傷つき、捻ね曲がり、精神的に畸形の、攻撃的な人たち。飼育密度の高い環境で養殖された魚のようだと、少年は憤ろしいような哀れなような気持ちだった。「ノリ」が合わなければ群れに混ざれない。群れに混ざれなければ虐げられる。それがこの養殖場の根本原理だった。ルールを理解した頃には既に少年は日陰者として息を潜めている義務を負っていた。その義務を忘れて目立つようなことをすると忽ち「群れ」から侮蔑の目線とと嘲笑を浴びるのだ。そんな環境で少年が心から笑えることは少なかった。だが少年にはそれでもよかった。自転車で駆け回り魚と戯れる自由があれば、大抵の嫌なことは忘れることができた。根暗だ変人だと陰口を言われようとも、宿題を忘れて怒鳴られようとも、体育の授業で邪魔者扱いされようとも、魚影の濃い週末を跨げばケロリとしていた。少年はそんな自分が誇らしく、また頑丈な人間だと思っていた。
或る晴れた放課後のことだった。野池で釣りをした後、少し遠回りをして例の農村の川に向かった。いつも通る狭い坂を抜けると、もう何度か訪れた親しみ深い農村があった。数日前に雨が降った影響で山際の道路には湧水がとめどなく流れているのを見て、川はいい具合に増水しているのではないかと少年は期待した。
 愈々その川を覗き込んだとき、少年は言葉を失った。そこは恐ろしい程干上がっていた。否、干上がっていたのではなかった。流路には夥しい数の岩石が堆積し、その下をすり抜けるようにして僅かな水が流れているのだった。少年は狼狽しつつもどうにか状況を呑み込もうと努め、そして、数日前の豪雨を思いだした。その時に恐らく源流部で土砂崩れがあって、そのために本来この川に注いでいた分の水がどこか他所に流れていったのだということが考えられた。あれ程多く泳いでいた鮠が、ドンコが、今はその居そうな場所すら皆無だった。
 少年はペダルを回して嘗て最も深い淵があった場所へと急いだ。果たしてその場所は、無惨にも小さな水溜まりと化していた。そこには僅かばかりの小魚がいたが、嘗てとは比較にならないほどの少なさ、小ささだった。少年は失われた命を想い呆然と立ち竦んだ。田を穏やかに照らす斜陽が、今は酷烈な意味を持って少年の目に映った。
ふと少年の理性は謙虚ということを少年に提示した。即ち、この悲しみは、自然は不変であるという傲慢な思い込みに由来する愚かしいものではないかという自己批判である。大雨で川の流れが変わるのは自然なことであって、人間はそれを受け容れるしかないのだという無常観を、自然を愛する者として当然持つべきであるという考えが少年を捉えた。少年は奮い立った。大人になるということはこういう事なのかもしれないと思うと、少年は少し強くなれたような気がした。
 しかし——もしここ迄で少年の思考が完結していたならどれほど良かっただろう——この豪雨は  ・ ?そんな考えも亦少年の頭を過った。少年の住む地域から少し離れた県内の或る場所で、近年記録的な豪雨が相次いで起こっていた。その原因の一旦が地球温暖化にあるのではないかという説を耳にしたことがあったのだった。これを鑑みると、この事件は自然の範疇ではなくその責任の一端を人間生活が担っているのではないかという考えは突飛なことではなかった。寧ろ、その可能性をのっけから排除してしまうことは極めて浅慮であるように少年には思われた。その時、少年の後ろを一台の軽トラックが通った。少年はハッとしてその残り香のような排気ガスに顔を顰めた。車なんか無くなればいい、と少年は恨みの籠った声で独り言ちた。
 少年は失われたその川のことを考えまいと努めたが、どうしても暫くの間は脳裏に刻みついて離れなかった。その川のニュアンスを僅かにでも含むふとした瞬間、例えば学校からの帰るさ、路傍の叢が吹き亘る風に靡いてざわめいた時、或は家の庭にその川で餌にしていた青虫何かを見付けた時にも明瞭に思い出されその度少年を苛むのであった。その川の近くを通ることはおろか、その川に向かう途中の道を別の用で通る時すら憂鬱だった。授業に退屈したときふと思い出しては悲しくなった。地球温暖化を促進すると云われている全ての存在が——車が、工場が、そしてコンビニの蓋の無い冷凍ショーケースが憎くて堪らなかった。最も憎いのは人間そのものだった。人間が今の半分、いや十分の一くらいにまで減ればいいのにと少年は本気で考えた。
 そんな日は、然し、長くは続かなかった。少年には他に色々な釣り場があり、変わらぬ豊かさで少年を迎えた。 ふな を、 なまず を、 はぜ を、このしろを、 すずき を、 くろ  だい を、 あじ を、 きす を手にする度、少年の心痛は和らいでいった。次第に少年はあの喪失は事故で、偶発的なもので、仕方のないことだったと思えるようになった。こんなにも変わらない豊饒が自分を包んでいるのに、どうして悲観に暮れる必要があるのか。地球温暖化の影響までも考えていた自分は少し考え過ぎだったのではないか……。
 それから更に暫く経ったある日。少年の、杞憂と思いたい気持ちを嘲笑うかのように、呆然と立ち竦んだ少年の目の前で重機が鈍く動いて河畔の土を掘り起こしていた。その向うには嘗ての豊かな葦原が今は無機質なコンクリートの垂直護岸にその場を奪われ、そして何より緩やかなカーブを描いていた水の筋は単調な直線と化していた。多くの魚をそこに抱いていた淵は奪われ、ただ土色の汚い水がとろとろと勿体ぶった速度で くだ ってゆく殺風景があった。少年には釣り竿を持ってそこに居る自分が酷く滑稽で浅はかに思えた。呆然として水面を見つめていると、段々水面が自嘲気味の笑顔で見つめてくるような錯覚に襲われた。耐えられなくなって、少年は逃げるように自転車で駆けた——自分の目的地は初めからそこではなかったという妙な言い訳を自分に施し乍ら。
 それから幾つもの喪失が、その前にできた傷の快癒するより先に少年を襲い続けた。立ち入り禁止はまだ良い方で、汚染、 みず  がれ 、そしてなにより破壊的な公共工事。それらに直面する度、少年は自らの肉体が少しずつ失われるような、病魔に蝕まれるようだった。軈てそれは比喩ではなくなった——少年はよく うな されるようになり、眠れなくなり、そして酷い立ち眩みに襲われるようになった。元々線の細い体は一層細り、ぼんやりと一点を見つめることが増えた。両親は心配したが、少年は頑として彼らに自分の苦悩の原因を打ち明けなかった。言ったところで理解される筈がないと思っていた。少年から見た両親はごく普通の、起伏の少ない日常に満足した、謂わば生活的人間に過ぎなかった。彼らが提供しうる優しさはどこまでも憐れみであって共感ではないと少年は断じていた。そしてもし仮に共感されたとして、どうして失われた川が、海岸が、魚が戻ってこようか。共感されて楽になった自分を、既に多くが失われなお失われゆく世界を受け容れることがどうしてできようか。そういう少年の考えを他所に、幾つもの工事は着実に進められたが、少年がそれを知ることはもはやなかった。

 風の所為か、竿が竿立てごと倒れそうになったので少年は慌てて竿を掴んだ。アタリらしいアタリは無かったが、暫く放置しておいた竿にはひょっとすると何か釣れているかもしれないと思い少年は仕掛けを回収することにした。水面を割って表れた仕掛けはどうやら絡まっており、そのためか魚が釣れていないようであった。毎投上手くはいかないか、と少年は特に残念そうにもせず、竿立てを立て直し竿を置いた。よく見ると仕掛けは複雑に絡まっているばかりか、三本ついていた針の一つが失われていた。少年は厄介な魚の存在を悟った。河豚はホバリングをするように泳ぐのでアタリが竿に出にくく、鋭い歯で糸や時には鈎そのものを切断し、剰え強い毒があり食用に供せないので釣り人の間では蛇蝎の如く嫌われる。そんな厄介な相手がいると、たとえ同じ場所に目的の魚がいたとしても河豚を避けてそれらを釣ることは難しい。解決策としては河豚のいなさそうな場所に投げ込むか、仕掛けをこまめに動かして鈎を完全に呑まれるのを防ぐことなどが挙げられるが、それでもどうしようもなければ釣座を変えざるを得ない。少年は仕掛けを新しいものに付け替え、先の場所とは少しずれたところをめがけて投擲をした。今度は置き竿にせず、心持早めにリールを巻きながら釣ることにした。
ふとザッザッという足音が聞えて来たので振り返ると老人が歩いてくるところだった。よく日焼けした・シミの多い肌に脂肪の少ない筋張った四肢が印象的な、七十歳前後と思われるその男は、釣場によくいる散歩中の老爺の典型だった。彼はこんにちはと人の良い笑顔を浮かべ、釣れますかと慣れた感じで少年に尋ねた。いや一匹だけですね、と少年は正直に答えた。水汲みバケツをのぞき込んだ老人はほう、と感心と雑な相槌ともとれる曖昧な返事を寄こしつつ他愛ない世間話を始めた。最近は気温が上がってきて裸足だと砂浜が熱くてかなわんだの、二日前は波が高かったが今日はそれほどでもなくて釣りやすいだろうだのといった話に少年は適当な相槌を打ちつつ、視線は相変わらず竿先とそこから伸びる糸の方に送ったままリールを巻いていた。老人の語りが一息ついたころ、仕掛けがもう目と鼻の先まで来たので少年は一気に仕掛けを巻きあげようと竿を大きく煽った。すると竿先は錘の重さ以上に大きく撓った。おお、何か釣れていそうだと老人は興味深げに目を凝らした。しかし漸く錘の先に水面を割って現れたのは海藻だった。少年が内心で落胆するのを代弁するかのように老人は嗚呼と残念そうな声を上げた。と、樹状に広がる暗緑色の海藻——というが二人ともその名を知らない——の間に埋もれるようにして何か小さい魚が身を躍らせていた。 ちゃ  りこ であった。少年は直ぐに鈎を外し海に放った。泳いで行ったのを見て少年は安心したが、先ほど替えたばかりの仕掛けの鈎が既に一つ無くなっていたので、もう移動してしまおうと決めた。老人は頑張ってくださいと笑い去った。少年は大儀そうに腰を上げて移動のための片付けを始めた。
 自宅に近づく方向にある漁港に移動することにした少年は、海沿いの自転車道をのろのろと進み乍ら いか とも難い気怠さを覚えていた。左手の崖の下に見える砂浜は少年の進むにつれて浸食が激しくなり軈て完全に消え、崖の浸食を防ぐために投入された無骨な灰色の岩が穏やかに波を被っていた。河川からの土砂供給量減少による海岸線の退行。少年はそこにダム建設の弊害を見た。上空を飛行機が飛び、空気を割く重低音が辺り一帯に覆いかぶさる。音に過敏な少年は不快感に身悶えした。少年にとって最早この世界は、終わりゆく場所だった。思い通りにいかない肉体。蝕まれゆく自然。日に日に増してゆく不快——自分はこの世界から拒まれているとでも謂う風な感覚。希薄な現実感。少年は既に自分が大人になる想像が出来なかった。大人になる前に自分はもう前に進めなくなると思った。そう遠くない未来、環境の悪化で魚はいなくなる。この考えが頭から離れなかった。そうなるくらい環境が悪化した世界では勿論人間も今まで通りの享楽的な生活は出来ない。否、たとえ人間がしぶとく生き延びたとして、魚のいない世界で生きてゆく意味は自分には無いと少年は強く思う。逆に、この考えに至ったからこそ少年は今「享楽的に」釣りをすることを自分に ゆる せているのであった。
 漁港に着くと、もう陽が昇って随分経ったこともあり多くの人が竿を出していた。少年が行きたかった突堤の先端は当然埋まっており、仕方なく空いている場所の様子を見ることにした。殆ど隙間なく釣り人がいる中で岸壁から海を覗き込んでみると水深は一メートルもない位の浅瀬で、見る限りではそれが数十米ほど続いていて余程遠投しなければ到底釣れそうもない。少年は貧果を覚悟しつつ、餌を使い切るためと割り切ってここで釣ることに決めた。
手前の浅瀬を避けるため余り仕掛けを動かさないことにした少年は、少し離れた場所にいる隣の釣客の様子を見るともなしに見ながら竿を持ってぼんやりしていた。隣の釣客は六十代過ぎと思しき老人で、紫煙を燻らせながら柄杓での近くに撒き餌を打っている。フカセ釣りで黒鯛を狙っているのだろうと少年は推察した。餌代の都合で少年には未挑戦の分野だった。今までフカセ釣りをしている人を見てきた経験から、余程の上手でなければ全く釣れないが、逆に上手であれば一回の釣行で何匹も大物を手にしているという印象があった。隣の老人はどうだろう等と気に掛けつつ少年は自分の竿にアタリが来るのを待った。
 長閑な時間が過ぎた。少年は位置をあれこれ変えつつかれこれ四度投げ込んだが一向に釣れる気配はない。再度釣場を変える程の気力はもう無く、帰ろうかと思い始めたそんな時、ふと隣を見ると老人の竿が水面に突き刺さるように大きく撓っている。釣れたかと、少年は自分の事でもないのに胸が高鳴るのを感じた。老人は何を考えているかよくわからない謎めいた表情で大物と格闘している。およそ三分程が経っただろうか、格闘の末、遂に魚体が飛沫を上げて水面に現れた。 ぼら であった。
 鯔は釣人の間では煙たがれることが多い。理由は単純で、個体によっては頗るドブ臭いからだ。しかし殆どの釣り人が敬遠するところを、少年は今までの経験からこのあたりの鯔がそれほど臭くないことを知っていたから、要らない魚のお零れに与かることが出来るのではないかと淡い期待を抱きつつ老人の方を見守った。
  たも 網で掬われ陸に揚げられた鯔は遠目にもかなり大きく見えた。靴の二つ分より少し大きい位か、と少年が値踏みするように見ていた次の瞬間、少年はあり得ないものを目にした。老人がその鯔を蹴り飛ばした、クソ食らえとでもいう風に。ドプンという音が響いて鯔は海に落ちた。少年は見てはいけないものを見たような気がして怯み、恰も近くで大きな怒鳴り声を聞いた時のような緊張と気まずさとを感じた。老人は最早鯔のことなど気にも留めない様子で仕掛けを弄っていた。少年は妙な動悸を抑えながら、自分の竿の方に注意を戻した。予想外の出来事に頭の処理が追い付いていなかった。そろそろ仕掛けを回収しようとリールを巻き始めた時、少年は足下の海にを見て了った——ゆったりと回転しながら力なく流されていく鯔の姿を。 えら は動いている。まだ息絶えてはいない。しかしもう長くないだろうことは明らかに見て取れる。少年は、その様を凝視した。歩くよりも遅く潮流に流されていくその魚が視界から消えて了う迄、少年はずっと見つめていた。
 家に帰りついた少年はぐったりとして動かなかった。朝早くから重い荷物を背負って自転車で出掛けていたのだから疲れもするだろうと、少なくとも家族はそう解釈した。やがて少年は重い腰を上げると釣れた一匹の鱚の下処理をした。一匹しかいないから皆では食べられないけど、夕ご飯は天ぷらにしようか、と母親が気を利かせて提案するのに少年はうん、と気の無い返事をし、釣り道具を運び込んで逃げる様に自室に入りベッドに身を投げ込んだ。
 微睡みの中、少年は鯔を蹴り飛ばしたあの老人のことを思い出していた。瀕死の鯔が少年の足下を流されていった時、少年は何か劇的なものをそこに感じ取った。自分はあの瀕死の鯔のようでもあり、同時にあの醜悪な老人でもある——少年の感性はそう言っていた。少年が斯くも愛している自然への暴力性。それは釣りをする上で不可避のことだった。気付いていない訳ではなかった。気付いた上で今まで黙殺してきたことだ。それでも——恰も切れて海底の岩に遺した釣り糸のように——釣りという行為に内在する自家撞着は少年の心にずっと絡まったままだった。釣りをする資格はもう自分にはないと少年は思った。知らぬ間に涙が頬を伝って顎にまで垂れてきていた。少年は動悸のする心臓を抑え乍ら、振り払うようにして釣り竿に手を伸ばした。
 

 


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