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ひとりたび

 夢をみた日は得した気分で目が覚める。パラレルワールドにアクセスできた! みたいな。小説にのめりこんだあとのように、現実のほうはすっかり置きざりのまま、別世界の時間を過ごしてきたことで、リフレッシュできた感じがする。

 物語にひたっているときの幸福のゆえんは、現実とは異なる時間軸で、己以外の主観を追体験できる点にあると思う。それに、もとの世界に戻ったあと、「日常もいち物語でしかないんだな〜」と、現実とちょっと距離をおける感じがして、ささやかながらもリラックスできる。もっといえば「私」を水みたく流動的にし、さまざまな無機物ふくむ別のからだに、流れこめたら楽しそうだけど、どうかなドラえもん。そこをなんとか。

 高校時代に国語便覧でみつけた荘子の『胡蝶の夢』は、数行の説明しかのってなかったが、たしかに「私」をどこかへ飛ばしてくれるほど、いっしゅんで没頭できる魅力的な故事だった。もう何年も前にみた、たったひとつの故事が、今なお、好みの根源として横たわっている。夢の中で蝶となり、自分を忘れて舞い、目が覚めれば自分に戻り……しかし本当にここが現実なのか、実は現実が夢で、自分は蝶なのではないか……。

 現実を現実だと判断している理由は、断続的であれ「続く」からで、夢はいつ何をみても「終わる」。すぐ過去のものになり、思い出さなければ、誰かに語らなければ、存在すらせず、いつだって観念のなかに閉じこめられる。それはとても独りよがりで(社会的に)役に立たない。だから「夢みたいな話」なんて揶揄として使われることも多い。だけど現実を現実たらしめるには、地に足をつけるには、夢にひたる時間も必要で、つまりは往復運動が肝なんですかね。

 他者と共有できる世界だけが「存在する」つまり「現実」ならば、夢だって他者と共有できちゃえば現実になるかな、どうかなドラえもん! どうかな荘周! でもよく考えたら、夢は小説を読むときみたいに、ひとりでひっそり楽しみたいなと思いました。

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