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こと葉

 なによりも執着あるのに、避けていた話題なんですけど、私は文章を書くことがむっちゃ好きです。書いていると幸せだから今死んでもいい、でもまだ書きたいことあるから生きていたいと、相反する欲望を、同時に抱えてしまうくらい好きです。だからこそ、言葉について文章について踏み込もうとすると、どきまぎしてしまう、意識しすぎて距離感が分からない、思慕かよ。

 どんな言葉を選ぶか? 発するか? 言葉をどう編んで文章とするか? どんな意味で捉えるか? 行間(余白)に何をみるか? 文脈をどう読むか?……言葉との接し方には、その人の在り方が、生々しく表れてしまう。それを自覚しながら公開してるんだから(しかも私的な形態)、正気の沙汰ではない。考え方、思考回路、趣味嗜好、性癖、呼吸の速度、なにもかも匂ってしまうものを、自ら喜んで「読んで見てかいで!」ってさらすの傍若無人かよ。楽しいね

 言葉を「生む」って感覚はなくて、どちらかというと、食事とか呼吸とか、そういう身体活動に近い。それは自分にとって当たり前という意味だけにあらず、「目には見えない」けど「常に触れている」、その異様な存在を、いちこじんの自分が「生んだ」というには、あまりに大きすぎて。日本でいう神さまとの距離感に通ずるのかも? しかし書くときは「産む」くらいの覚悟をもって、腹を痛めないと、しつれいな気もしてくるから、たいへんむずかしいです。畏怖。

 言葉には社会性があると思っていて、人格ならぬ言葉格について考える。例えば、「楽しくて嬉しくて泣いた」と「つらくて悲しくて泣いた」だと同じ「泣いた」への印象がまったく違う。属する組織によって、一緒にいる言葉によって、キャラクターが変わってしまう。さらにいえば「泣いた」だけだと、その「泣いた」自体の色が見えずに個性を捉えにくい。どういう「泣いた」なのか? なにを伝えたい「泣いた」なのか? この「他ありきの個性」というのも、人間と似てる。

 文脈を読むちからは、人との接し方(コミュニケーション)に大きな影響をもたらしてしまう。上の例をもちいると、この「泣いた」をどう捉えるか。「楽しくて嬉しくて泣いた」を文脈に沿って受け取れば、この「泣いた」は暖色オーラを放ったポジティブな言葉だと解釈できる。「楽しい」ことがあって→「嬉しい」と感じたから→「泣いた」。これを逆に、文脈ガン無視すると、「楽しい」ブツッ「嬉しい」ブツッ「泣いた」。……え、なんで泣いてるの? 泣いてるってことは悲しいんだよね? ふつうそうだよね? 変じゃん!……これは極端な例だけど、この場合の「ふつう」はもはや凶器。自分の外側で生きている「泣いた」を、自分の内側にある「泣いた」にはめ込もうとし、形が合わなければ「変」と決めつける。今、目の前にいる「泣いた」をみて! 文脈のなかで生きてるから!!

 国語が、文学が必要だと思う理由、私はここにあります。文脈を読むこと・背景を想像すること・自分の解釈はあくまで自分の解釈であると自覚すること(他人に当てはめないこと)、これらの技術を磨くのにうってつけなのが、読むこと・書くことなのではないか? それらを通して言葉は生きてるんだな……って体感することで、「やさしさ」を身につけられるのではないか? それを身につけているといないとでは、自由度・豊かさ・ハッピーレベルがだいぶ違うのではないか? 己も己のまわりも生きやすくなるのではないか?!(問いを畳みかけるな)

 ちなみにこれは脱線ですけど、「楽しくて嬉しくて泣いた」だって、「楽しくて嬉しくて(その感情が今は会えない母と一緒に過ごした時間を思い出させ、過去のことになってしまったことを実感し、その寂しさのあまりに)泣いた」とか、「楽しくて嬉しくて(それを表現するために声を出そうとしたがうまく発せず、あれなんかおかしいなと思って水を飲んだらめっちゃ咽せて)泣いた」とか、いっくらでも考えられるので、いちがいには言えないよな……ここまでの解釈はコミュニケーションの域を越えている気もするが。もしむっちゃ思案したうえでの「理解できない!」なら、そっちのほうがよっぽど「やさしい」のかもしれん。

 文学部に入ってからじわじわと純文学のおもしろさに気づいたようなスロースターターですが、おかげで生涯かけて楽しみたい趣味ができたので、本当に運いいなと思います。社会人になって文学部で習った知識を、直接的に使う場面ほぼないけど、休日は読みたい本がいっぱいで幸。なにより、読むこと書くことは、日常のすべてが肥やしになるので、無駄なことなどないぞって気持ちで過ごせる、これまた幸。こうして言葉、文章に対するクソデカ感情を、冒頭みたく持て余したまま、今日も生きてます。終わり(長い)

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