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家出日記


 今帰ってきた。昨日岩盤浴で一日中過ごしたあと家に帰ることが嫌すぎてカラオケで一夜を明かした。ていうか気がついたら終電を逃していた。なんか高校生の家出みたいだけどわたしはれっきとした社会人である。れっきとはしてないかも。なんちゃって社会人です。

 思えば正真正銘の高校生だった頃、家出なんて一度もしたことがない。どんなに帰りたくなくても夜10時には自宅にいた。弟が同じ年くらいになった頃、平気で夜遊びしたり若干警察のお世話になるような悪さをしているのを見て「わたしもやろうと思えばこれくらいできたのか」とはっとした。枠からはみ出しきれないのがわたしという人間なのかもしれない。
 こどもだからとある程度世間からお目溢しをもらえるうちにそういう間違いを犯すべきだったのかもしれないと思う。人に迷惑をかけることはわたしにとって大罪だった。今もそう。でも、昔からそうだったからこそ、わたしには「迷惑をかけても許してもらえた」経験がない。人にかけていい迷惑のボーダーラインを理解できないまま大人になってしまった。だから何をするにも怖くて仕方がなく、結果、誰とも深く関われないまま関係が終わってしまう寂しいコミュニティしか築けない性格になってしまった。幼い頃、母に自転車の乗り方を習っていたとき、わたしは転びそうになるとすかさず足を地面に着いていたそうだ。そのため補助輪や母のアシスト無しでペダルを漕げるようになるまで一度も転んだことがなかったのだそうで、このことから「転ぶ痛みを知らない子」と母から揶揄されていたのを覚えている。その性質が今でも妙なかたちで染み付いているようだ。

 わたしは考えすぎてしまうタイプだとよく言われる。わたしからすればお前たちが何も考えてなさすぎるだけだろと思っていますが。例えば、わたしは超弩級の肥満体型の人の神経がどうしても理解できない。だってあれくらい太ってたら、普通に生きてるだけで人よりもスペースを使うじゃん。電車でも2席分くらい使って座席に座ってたりするじゃん。料金一緒なのに。わたしなら絶対耐えられない。自分が座らなければひとり多く座れるはずの椅子をあんなに堂々と占領できない。ていうか不摂生で太ってるんだったら立ってなよ、少しでもカロリー消費しなよと思われそうで、わたしなら怖くて家から出ることもできなくなりそうだ。これはあくまで例えであって容姿批判ではありません。不快になる方がいたらすみません。
 ほらね。はみ出しきれなさが文章に出てるよね。あくまで例えで、しかもここはわたしの表現の場なのだから好き勝手書けばいいのにこれを読んで傷ついちゃう人がいるかもと思って謝っちゃうところ。太ってる人のメンタリティを否定したいんじゃなくて「もしもわたしがその立場ならこう感じるだろう」という空想上の例えです。ごめんね。あーまた謝ってしまった。
 こんな感じでわたしの「考えすぎ」はIFの世界にまで及ぶくらい対象が広いので、当然、普通に生きているだけで無限に余計なことを考えてしまう。今この文章を打ちながら、言葉選びが稚拙すぎると思われないかとか、逆に気取ったように見えていないかとか、側からみてダサい文章になっちゃってないかとか既に気にし始めている。

 昨今では発達障害とかHSPとか、生きづらさを抱える人たちの実態が注目を浴びるようになってきている。かくいうわたしもおそらくその気がある。診断を受けていないのでいわゆる自称だが、他人からも「あなたのそれは発達障害/HSPだと思うよ」と人生で何度も言われている。自覚はあるものの人から言われると普通にきついな。こういう性質もあいまって、わたしはそもそも人にかける迷惑の量が他の人よりも多い。誰よりも何よりも人に迷惑をかけることを恐れる人間であるにもかかわらずだ。そのぶん「あーーーやっちゃったーー!!!! 死にたーーーーい!!!!!」となる回数も多いんだと思う。驚くほど生きるのに向いてないな。助けてください。
 かたくなに診断を受けないのには理由がある。なんの意味があるのか分からないからである。生きづらさに名前がついたところでわたしが人にかける迷惑の量は変わらないし、何か優遇されるわけでもない。薬は処方してもらえるようだけど薬を持つことそのものが自分がポンコツ人間であることの証明みたいに感じてしまいそうだし、「薬を飲まなければいけないレベルであること」を周りの人が知ったら異常に気を遣われてしまいそうなのもいやだ。それならミスを責められて邪険に扱われる方がまだ収まりがいい。お医者さんの処方薬ではなくサプリメントを飲んでいた時期ならあるが、集中力が上がるぶん普段より疲労感が強く現れるようになり、反動でひどく落ち込むようになったのでやめてしまった。処方薬にも似たような反動があると聞く。
 「文豪とか芸術家に多いような性格タイプだよね」と言われたのも一度や二度ではないが、うるせーーーーーーーーーーーーーーーーーそんな才能ないんじゃ。適当なこと言ってんじゃねえぞ。「そういう人って何か一芸に秀でてることが多いよね」も腹が立つ。秀でてないから薄給で介護なんかやってんだろうが。その通説が力を持ちすぎて「何の才能もないひねくれ人間」たちの肩身狭さは日に日に増している。そうだよな!? 何の才能もないひねくれ人間のみんなたち!! 

 カウンセリングも苦手である。というかカウンセラーが苦手である。あくまで仕事でわたしの話を聞いている人だと思うと、自分のことを話すのが億劫になる。「仕事」なんてみんなダルいじゃないですか。今わたしの話を熱心に聞いてくれているこのカウンセラーさんも、頭の中では今日の晩ごはんのこととか、早く仕事終わんねーかなとか考えてるんだと思うと萎縮してしまう。わたしは深夜に死にそうになって「いのちの電話」にかけたことがあるが、あのときも電話口のお兄さんが内心どう思ってるのかばかり気になっていた。多分もう利用しないと思う。
 あと、カウンセラーさんの提示してくれる解決策やアドバイスのほとんどが、既に自分自身で実行済みであることが多いことも苦手な理由のひとつだ。わたしは苦節二十年以上同じことで悩み続けているので、当然ながらわたしと出会ったばかりの人よりもわたしの方がわたしの悩みとの付き合いが長い。そのくらい自分でわかってるよ知ってるよ、その先が欲しいんだよと思ってしまう。たぶんこれは同じカウンセリングルームに何度も通ううちに少しずつ導かれるものなんだろうけど、何せ人間相手に話すことが苦手なものだからコンスタントに通うことができないし、何度カウンセリングルームの扉を叩いたとしても毎度うわべの話しかできないで終わってしまうような気がする。本当にカウンセリングの力を必要とする人間は、カウンセリングに通うという行為ができないのである。あと料金めっちゃ高ない? 毎回、金額を見てはげんなりしながらホームページを閉じている。

 話が戻るけど、昨日は夜勤明けで岩盤浴へ行った。行ったことのないスパ施設で電車の乗り継ぎを必要とする場所にあったのだけど、うっかり居眠りしているうちに乗り過ごし、知らない駅に着いてしまった。慌てて降りて反対のホームへ移ってベンチで電車を待っていたのだが、その時間が、なんか、良かった。その駅は住宅街が見渡せるような小高いところにあって、知らない街の、自分以外誰もいない駅でぼんやりしている時間が心地よかった。誰でもない誰かになれたような気がして、いろんな重荷がすっと肩から降りていった。
 わたしの将来の夢は失踪(?)することである。理想を言うと、5年くらいのスパンで突然、行ったこともない街に引っ越して全国各地を転々とし、誰の記憶にも残らないような生き方がしたい。すべて、誰でもなくなりたいという欲求からくる願望だと思う。「名前」ですら自分を縛る何かに感じる。だから、誰もわたしのことを個として認識しないあの駅が、知らない街が心地よかった。人生のことは大嫌いだけどそういう生き方が仮にできたのなら、まだ明るい展望が見出せるような気がした。
 家に帰りたくないという気持ちもこれが根源のような気がしている。自宅という空間は「個」をまざまざと思い知らせてくる。わたしの名前に宛てられた払込用紙、昨日のわたしが残した料理、この前の大掃除のとき取り損ねたカビなど、わたしがわたしであることの証明と履歴がこれでもかというくらいに残っているので、コンディションによってはいるだけで息苦しい日がある。それが昨日だったんだろうな。

 ちょっと話がずれるけど『推しの子』の曲の「ちゃんと見えてるキミのサイリウム」という歌詞、個として認識されることに恐怖を覚えるわたしからするとなんか具合が悪い。「見んな」と思っちゃう。推しに認知されたくないオタクでもあるので、爆レスもいらない。わたしのことを空気だと思ってほしい。一方的に好きでいさせてほしい。
 というか最近のアイドルとか活動者の「推してください!」「今から推せば古参になれます!」みたいなやつ、ちょっと苦手だ。推すという行為は元来オタクが勝手にやることであってアイドル側からお願いしてやってもらうことになってしまうと少し趣旨が変わる気がするから。「名前だけでも覚えて帰ってください!」くらいまでがちょうど良かったな。これについてもちょっと思うところがいろいろあるけど、体力が尽きてしまったので、書きたくなったら書きます。

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