「推し」のこころ

あけましておめでとうございます。noteもぼちぼち雑談書いていきます。

年始、「推し」から年賀状が来た。特にファンクラブだからとかではなく(そういうのはない)、ただファンレターを書いていた、そういった人々すべてに送っていただいたようだ。

私の過去を見ると三次元の「推し」といえる存在は以下の推移をたどっている。(二次元は嫁も推しもいっぱいいるものだ)

40代俳優

中堅声優

20代アイドル(卒業済み)

10代アイドル(卒業済み)

若手声優

推移といっても、嫌いになったとかではなく、優先度や中心的に見ているかの問題である。

で、現在の推しの話に戻る。我々は「推し」のお仕事という成果・アウトプットを通じて、「幸せ」をもらう。お仕事を見聞きするために、アニメを見るであるとか、舞台やイベントに行くであるとか、推しが演じるキャラ(これもまた「推し」となる)グッズを買うであるとか、「時間」と「お金」を費やす。
※そもそも「推し」になるきっかけはキャラ経由であるがここでは、推しが「推し」になる経緯については論じない。

学生であれば、そもそも生身の「推し」を見に行くこと自体が一大イベントである。地方在住だったこともあり、交通費だけでもえらいことであるし、そこにチケット代やなんやかんや掛かるからである。それこそ年に1度もあるかないかである。私が「社会人」になってから、東京に出た。するとイベントも多い。お金も多少ある。ということで、そういったものを見る機会は圧倒的に増えた。

今までの「推し」すなわち私が好きだなと思う存在は、どこかで私とは全く切り離された人、その人をある種「コンテンツ」として一方的に享受していた。
では、今の推しはどうか。少なくともリアルに横にいたいだとかガチ恋だとかそういう感情はない。比喩的にも「舞台の上の人」としての存在であることは変わりない。だが、なぜかしら、「応援したい」「声を届けたい」と思うようになった。その結果が、たまに書く、ファンレターという形になった。あるいはラジオのお便りに投稿してみたりもそういう気持ちかもしれない。推しというものが「リアルに生きている人であり、我々が押しに力をもらうように、推しもまた我々の承認によって応援される」ということに気づいたからだ。

ある種「推し」を好きでいる自分、応援する自分というのを素直に受け止められるようになった。元気をもらっているんだなとか、推し尊い…(´▽`*)みたいな感情であったり、お手紙を書くこと自体が推しの活動の振り返りになったりするのかな、、なんて思う。

というわけで、今年も好きなものには好きと言っていきたい。
楽しいものには楽しいと素直に声を上げたい。
気持ちは楽に、でもそこをいろんなベースにしたいなと思いました。

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