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相対するものの受容の難しさに見えたこと

「家族葬」を取り巻くプライベートとパブリックな人間関係

個人がますますプライバシーを重視し、また、これを権利とし、さらにこの権利を商売道具として売り買いされる社会。

いわゆる「家族葬」という葬儀形態が一般化してきた流れとは、まさに個人がプライバシーを重視するようになった流れにおいて”ごく自然に生まれた”ものと捉えるべきなのでしょう。

かたや葬儀がこうして個人や家族の極々プライバシーなものとして完結されてしまうことの弊害として、プライバシーの外側にいる人々、つまり友人、仕事、趣味やサークルで出会った人々が故人を弔おうとする気持ち、最期のお別れをしたいという気持ちが行き場のないものとなってしまっているのではないでしょうか。

葬儀=「儀式」を執り行うことの意味とは

我々の業界ではよく葬儀の「社会的・心理的役割」という言葉が以下のような意味で用いられています。

・社会的役割:関わりのあった人たちに故人の死を告げるとともに、生前の関わりに感謝し、最後のお別れをする儀式
・心理的役割:故人と最後のお別れをすることで、残された人たちの気持ちの整理をする儀式
(参考「月刊フューネラルビジネス」2021年2月号・特別企画記事より)

これら葬儀の「社会的・心理的役割」を考えれば、まさにプライバシーの外側にいる人たちのためにも葬儀をパブリックなものとして執り行われることが必要なものであると僕は思うのです。

葬儀ビジネスの限界!?

しかし、世の中の流れとして、また、葬儀社のビジネスの重要な施策としてこの家族葬、つまり葬儀の小規模化・簡素化を奨励していく流れはもう止められないのですよ。

ただ一方で、葬儀の「社会的・心理的役割」を考えたときに、果たしてこれをビジネスとしてやっていくことってどうなんだろ??
これって正しいことなのだろうか。と思わなければおかしいのではないか。と、正直とても悩んでいるのです。

”借り物”のお坊さんを呼んで、形式的にお経を上げて、なんとなく故人を弔った気持ちになって…

話は脱線しますが、このコロナ禍でたくさんの方がお亡くなりになりました。
家族との最後の別れも許されず、もちろん友人などとは最後の言葉も交わすことなく。
こんな非情な状況を目の当たりにしている一人として、なんか違うよなーとの思いから今回この記事を書かなければと思ったのでした。

葬儀のプライベート化=死のプライベート 化による弊害

形式的で、なんだか気持ちの入らない”儀式ごっこ”はもう辞めにしよう。
と、葬儀屋さんが言い出したら面白いな(業界は変わるな)と思っています。

本質的に葬儀の「社会的・心理的役割」を理解し、これを執り行うこと以外はもう葬儀なんて要らないし、そうでなければますます葬儀がプライベートなものとして、故人とその家族以外の人間を排除していくことにより、人間の“死”そのものがプライベートなものとして日常から切り離されていく。

死について無関心、無知になる。死を意識しなくなる。ということは、生命の終わりについて意識しなくなる。ということになると思うので、悪い意味での現世志向、つまり「今が良ければいい」という全く独りよがりで利己的な価値観の人間を生み出すことにつながるのではないか。と思うのです。

何より、大切な人、お世話になった人。そんな人たちと最後のお別れができない。いつの間にか亡くなっていたなんて聞いたら寂しいし、悲しいじゃないですか。

もうすぐ3.11。
東日本大震災から10年を迎えるにあたって、今一度死や人生について考えることは遺された僕たちの使命であり、役割であるということに自覚的にならざるをえない今日この頃です。

葬儀とはどうあるべきなのか。
答えはもう出ているような気がするのですが、それをどう表現するのか。
「相対するもの」を受け入れることは欲張りなのでしょうか。
(いやそんなことはないはず!)

以上

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