ドミノ・ピザ役員のニュースへの反応から考える「日本語が読めない人たち」の共通点

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ドミノ・ピザ役員のニュースへの反応に見る「日本語が読めない人たち」の共通点

ニュースへの反応とその妥当性

以下のニュースがtwitterでトレンド入りし、話題になっている。

ドミノ・ピザ、クルーを休ませるため執行役員が現場に出て売上3倍 偉い人がガチで調理や接客に臨む姿に反響(1/2 ページ) - ねとらぼ (itmedia.co.jp)

この記事への反応は賛否様々(時間が経つにつれ肯定する意見が増えてきたようだ)だが、リプライ・引用欄でよく見られるコメントに、次のようなものがある。
「6人の役員に14人もスタッフをつける意味がない。現場を知らない無能な役員はこれだから困る。」
「1日だけやっても無駄。現場の苦労を知るためには毎日やらないとわからない。」
「有給取れるのが本来当たり前。美談にするべきではない。」
「これで売り上げ3倍になっても役員がドヤ顔するだけ、今後現場はプレッシャーをかけられる。」

さて、上記の記事の内容から、これらのコメントに妥当性があるのか考えてみたい。

1.役員は「現場を知らない無能」なのか
参加した役員については記事内に簡潔な説明がある。

“ 参加した役員は、ベン・オーボーンCOO(最高執行責任者)やトッド・ライリーCMO(チーフマーケティングオフィサー)をはじめとする、ピザ作りの経験も豊富な6人。”(冒頭のリンク先の記事より引用)

また、記事冒頭にある関連記事を見ても、ドミノピザ現場での経験があるスタッフが過半数であると読み取れた。

ここから「現場を知らない」と評するのは困難だろう。

また、「14人のサポートをつけるのは無能」についてもどうだろう。
本件は、優秀なスタッフへの労いと広告宣伝等を意図したものと考えられる。(ニュースの概要と、テレビ報道があったという記事内の記述から読み取れる情報からの推察)
無論、普段よりも客が増えることを想定するとともに、報道への対応にも人員が割かれる。
不測の事態によりキャンペーンが失敗することを念頭に入れれば、普段よりも大幅な増員を行うことに妥当性は高いと考えられるだろう。

2.有給を取れるのが当たり前なのか
飲食業界において、「スタッフ全員が休暇を取る」ことが難しいのは周知のとおりだ。

少数の正社員とアルバイトで回す大企業の飲食チェーンである以上、営業日に「全員が有給を取れて当たり前」というのは、どこの世界の当たり前なのだろうか。(詳しくは時季変更権で調べましょう)
また、今回の件で付与された休暇は、記事内でも触れられているが、「法定外有給休暇」である。

“これを受けて、ドミノ・ピザでは2回目のキャンペーン中に顧客から最も高評価を集めた店舗に「夏休み休暇として特別有給休暇(法定外有給休暇)を1日付与する」と発表。”(冒頭のリンク先の記事より引用)

「法定外有給休暇」とは法により付与される休暇とは別に、従業員への優遇措置として与えられるもので、「当然の権利」の範囲外だ。
つまり、「有給を取れるのが本来当たり前」という指摘はこの件については的が外れている。

3.売り上げ3倍でプレッシャーをかけられることがあり得るのか
1の項でも述べた通り、この3倍の売り上げ(記事内の記述では、正確には予算の3倍の売り上げ)というものは、人員増と広告宣伝によりもたらされたのは明白であり、これをもって会社上層部が「自分たちのおかげで売り上げが伸びた」「普段からこれくらいできて当然だ」と考えると、本気でお考えなのだろうか。
無論、そう考える人間が存在しないことの証明はできないが、上記のように読み取るに妥当な根拠が存在するとも思えない。

「誤った行間を読む人たち」の存在

では、これらのような、記事の内容に反するコメントや、妥当性の低い推察によるコメントをしてしまう人に共通している特徴は何なのだろうか。

私は、「書いてあることを読まず、書いていないことを読んだ結果導き出された結論」であることをその共通点として挙げたい。
そして、「書いていないことを読む」=「誤った行間読み」はなぜ生じるのか、という疑問が浮かぶ。

これは、近年のインターネットニュースにつくコメントを眺めていて常々気になっていたことではあるが、
今回の件を機にもう少し深く、そういった「誤った行間読み」が生じるまでのプロセスに普遍的に存在する特徴を捉えたい。

共通点1:誤ったカテゴライズによる一体化


まず第一に、自己の周囲への観察の結果や、自己が受動的あるいは能動的に摂取してきた情報により形成された”像”と、新たに得た情報を照らし合わせる際に、思い込みによる誤ったカテゴライズがなされた結果、正常に情報が読み取れなくなるのではないか、と推察する。
「役員というものは現場を知らない」
「大企業は顧客のことを考えていない」
といった”像”が例として挙げられる。(他にも諸々あるが、無難なものを選ぶとこの辺りか)
この”像”が自己の中に形成された結果、それと同じ属性を持つ者の行動についても”像”と同一視し、”像”に対してするのと同一のリアクションを起こしてしまう。
今回の件であれば、自らの努めている企業や、SNS等で得た情報に基づき形成された、「現場を知らず、無能である」という会社役員の”像”と、ニュースで取り上げられたドミノ・ピザの役員を重ね合わせてしまい、ニュースの文面から得られる情報と乖離した、妥当性の欠ける結論が導き出されてしまっていると考えられる。

かといって、「カテゴライズ」そのものが誤読を引き起こすと主張したいわけではない。
誤読を引き起こす「カテゴライズ」にも一定の傾向が見られると考える。それは、
①     統計的ではない。(加えて、多くの例を分母としておらず、作為的に選び取った分母を元にしている)
②     その行動や主張によるカテゴライズ(例:天動説者は~と主張する)ではなく、肩書や属性によるカテゴライズである。
というものだ。

そしてこの「誤ったカテゴライズ」を、世では「レッテル貼り」と呼ぶのである。

共通点2:悪意の推定


起こった事象について、根拠なく相手方の「悪意」を推定する場合にも、「誤った行間読み」が生じる。
「ゲームで勝てないのは運営に勝率を操作されているからだ」
「後ろの車は意図的に自分を追っているに違いない」
「相手が褒めてくれたのはきっと本心ではなく嫌味だ」
対象に相当な根拠がある場合以外にこういった「悪意の推定」を行うことは、対人コミュニケーションの側面においても、情報リテラシーの側面においても非常に危険である。

簡単な言葉で言ってしまえば「被害妄想」と呼ばれるもの(精神疾患の症状に特定する意味ではない)であるが、
これは自己への極端な自身のなさ(自己への認知の歪み)や、対人関係が極端に苦手(他者の気持ちへの認知の歪み)であることなどが理由として挙げられがちだ。

専門ではないため明言は控えるが、理由が何であれ、「根拠ない悪意の推定」をニュースにも適用した場合には、
今回のドミノ・ピザの役員のニュースの例では「役員がドヤ顔してこの先現場にプレッシャーがかけられる」といった結論が導き出されてしまう。
(これも詳しくないので推察であるが)こういった悪意の推定も、元をたどれば自己の経験や得てきた情報により、他者の内心を「カテゴライズ」した結果生じるように思える。

「誤ったカテゴライズ」と「悪意の推定」による「誤った行間読み」を批判する立場を取ってきたが、これは「書かれている情報を鵜呑みにすべきである」という主張には決してなり得ない。
書かれていることを疑うためには、相応の根拠が必要になる、というだけの話なのだ。

誤った行間読みと陰謀論


これまで述べてきた傾向と同様の考えを些かも持たぬ者というのは、決して多数派ではないだろう。
「大人はみんなわかってくれない」
「もしかしたら自分はこう思われているのではないか」
思春期にはこうした悩みに苦しむ人は多い。

問題は、この内心をどういった形で発露させるか、ということにある。
人は誰しもが自己の主観と、事実がどうであるか冷静に見極めようとする気持ちのせめぎ合いの結果を「判断」として外部に表している。
私も含め、その結果事実と異なる物の見方をしてしまったり、人間関係において過度に不安になるという事象は、日常生活の中で稀ではないはずだ。

ただし、そのせめぎ合いにおいて、極端に自己の認識や特定の情報が優位であるように傾いてしまっている状態が恒常的に続いていたり、「判断」を過剰に断定的かつ攻撃的に表してしまったりすると、社会と隔絶し、孤独を感じるようになるかもしれない。
結果、増々特定の傾向を持つ情報しか受け入れられなくなり、事実の認識は極めて困難となる。
こういった状態になると、もはや自己の思想と異なる情報については、そこに書かれていることは毛頭信じられない。

そう。私は今、「陰謀論」に嵌っている人たちの特徴の話をしているのだ。

(具体的に何を陰謀論と指すかは非常に難しい問題であるので割愛するが)世で陰謀論と呼ばれる考えに嵌っている人たちは、誰しもが情報を発信できるようになった現代では、広く観測することができるようになった。

私は、彼らの思考のプロセスは、今回の記事に対して「誤った行間読み」をしていた人たちと、非常に似通っているように感じる。

「〇〇(特定の属性)が行うことだからどうせ××である」
→誤ったカテゴライズ
「〇〇という行いの裏には××という意図が隠されているに違いない」
→悪意の推定

といった具合である。

私は、「こういったプロセスの思考を普段から行う人は、一貫して事実を正しく認識できないのではないか」と推測し、今回のニュースで誤読を引き起こし、特に強い言葉で批判している人たちのbioと直近のつぶやきを無差別に観測してみた。

しかし、その結果は一部予想に反していた。
まず、派閥を問わず特定の政治思想を強く押し出している人や、自らの労働環境への不満が強い人が多く見受けられたというところまでは、予想していた通りの結果だった。
一方、本件で誤読を引き起こしていても、世で広く陰謀論と呼ばれる考えには強く批判的である人も、一定以上見受けられた。

私がここから得られた知見は、「たとえ正常な判断能力を有していても、人は一歩間違えれば誤読により他者を攻撃してしまう」ということだ。
自分は正常であると思っていても、いつの間にか何かしらの陰謀論に傾いてしまう危険は、いつも我々の周囲にある。

これは、特定の政治的な話題に限らない。
実際、今回のドミノ・ピザの件は、本来政治の話題とはほど遠い場所にあった。
もはや私たちを取り巻く、ジャンルを問わないあらゆる情報に触れる際には、常に誤読を引き起こす原因を意識する必要があるだろう。
それこそが情報社会を生きる我々が備えるべき能力であると、私は考える。



おまけ:オタクカルチャーの中のカジュアルな陰謀論

冒頭でも記載した通り、タイトルに関する本題の文章としては上記で完結しています。

一応ここはゲーム関係の話題を扱うnoteなので、以下にオタクカルチャーに関する些細なことで、「これはカジュアルな陰謀論だな」と感じたことなどについて触れていきます。

投げ銭くらいのつもりで読みたい方だけどうぞ。
あと具体的すぎる話題に触れているので自衛も混みで試験的に有料部分としています。

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