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自己紹介②|長野移住&夫婦で同時に脱サラ起業。 私の履歴書《学生編》〜マンションからペンションへ〜

 この記事をお読み頂きありがとうございます。
 長谷川嵩(はせがわ たかし)と申します。

はじめに

 前回のnote記事では、自己紹介シリーズの第1弾として、「私がnoteで何を発信するのか、そしてそれを何故発信するのか」について話しさせていただきました。

  今回は、自己紹介シリーズの続編として、私が誰であるかという「私の履歴書《学生編》」です。

 私の会社は4期目を迎え、大企業からから地元長野県の企業まで、多様なクリエイティブ(制作実績はまだほんの一部ですが掲載しております)に携わりつつ、充実した仕事と森暮らしを両立しています

 32歳の時、大きな住宅ローンを抱えた直後に夫婦で脱サラし、広告会社を設立するまでの経緯をお伝えします。

事務所のミーティングスペース

【幼少期】父の衝撃的な脱サラ / 長野県移住

マンションからペンション

 千葉県出身で、バブル時代の国営電信電話公社(現NTT)に勤める安定したサラリーマン家庭で育った私は、3人兄弟の末っ子として穏やかにマンション暮らしをしていました。
 突如として「父が脱サラしてペンションを始めたい」と決意し、私たちは長野県の原村(はらむら)、現在私が事務所を構えている蓼科高原の隣にある人口8000人弱の村に移住しました。その衝撃的なマンションからペンションへの移住に、母は困惑して離婚を考えたこともあったそうです…。

バブル期の「ペンションブーム」とは
 バブル期は経済が活況を呈しており、多くの人々がレジャーや旅行を楽しむ余裕がありました。その結果、全国各地でペンションがオープンし、サラリーマンの間で「脱サラしてペンション経営をする」ブームが起こりました。

自宅兼事務所を取り囲む静かで美しい森

子供時代の生活環境

 「ペンションオーナーの息子」として、私は朝から晩まで、自宅には常にお客さんがいて、親はひたすら仕事をしているという環境で育ちました。このような家庭環境がプライベートと仕事の境目が無いことを受け入れる価値観や、コミュニケーション好きな性格はこの家庭環境により育まれたのではないかと思っています。
 父はJAZZが趣味で、その楽しみを宿泊するお客様と共有するためにペンションを始めました。趣味を仕事にする父の背中を見て育ったのです。

家がペンションという生活
 ペンションは基本的に家族経営で、人件費を抑えながらアットホームな雰囲気で経営することが一般的です。子供たちは接客や清掃などの業務を手伝うのが当然のこととされていました。

父がペンションで流していたレコードはオフィスのBGMとして現在も活躍中

【学生時代】憧れのリーダーに、私はなる!

生徒会長、陸上部部長、二足のわらじ

 高校時代は生徒会長や陸上部部長を務め、目立つこと、モテること、人気者になりたい…!という邪念もありながらも、それ以上に何かを自分で決め、進めるリーダーに憧れていました。
 その熱意から、当時一般的ではなかったプロジェクションマッピングを体育祭のエンディングで試みたり、陸上部では県大会で優勝しました。「生徒会長で部長、二足のわらじで…」と地元紙に掲載されたことは、今でも良き思い出です。

母が大切に保管してくれていた新聞記事

憧れの都会生活、マスコミ就職の挫折

 兄の影響で報道の現場で働くことを志し、大学進学とともに東京へ。学園祭運営や陸上部に引き続き参加し、楽しいサークル活動を謳歌していました。
 アルバイトでは某全国紙新聞社の編集局や某テレビ局の報道局でアシスタントディレクターとして働き、マスコミでの就職を目指していました。首相官邸や国会議事堂などの国家機関へ入館する写真付きパスを支給され、黒塗りのハイヤーで移動するアルバイトということで、かなり貴重な経験となりました。虎視眈々とアルバイト先へのコネ入社を目指しましたが、それは結局挫折に終わりました…(苦笑)

最後に

 これで学生編は終了です。記事を書きながら自分のルーツを振り返ると、非常に興味深いものがありました。
 家にいると一日中仕事をしてしまう、「仕事が趣味で、趣味が仕事」的な価値観を持つようになったルーツは、私の父でした。その父を支えた母と、現在の私を支える妻を重ねてみると、への感謝の気持ちがより一層深まります。

両親と愛犬と近所を散歩

次回、「 自己紹介シリーズ 第3弾《サラリーマン時代編》 」です。


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