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「ワタシを救えるのはわたしだけ」

わたしの過去の一端を知るたびに、自分は特別な存在なのだと再認識する。自分こそが彼女を助けることができる救世主なのだと盲信し、自分勝手に突き進む。カレには、自分しか見えていないにもかかわらず、カレだけが一向にそのことに気づかない。

「カノジョを救えるのは自分だけだ」という建前と正義、使命感のもと、自らを救おうと必死な様が、わたしの目にはなんともかわいそうに映った。その行動が彼をさらに苦しめているように、わたしには思えてしかたなかったのだった。「わたしのため」というカレの行為の端々が。「わたしのため」というカレの発する言葉の一音一音が、暑苦しくまとわりついた。

(二村)「……なんだかんだ言って、男性が『自己肯定できているような気分』になりやすくできているのが、現代の日本の社会だからです。言い方を変えるなら、<インチキ自己肯定>の方法が男には用意されている。一般論としてですが、女性のほうが「こうでなくては幸せとは言えない」という社会的規範が強く、本人もその規範を内面化してしまっていることが多いように思う」ー『どうすれば愛しあえるの』(宮台真司・二村ヒトシ、KKベストセラーズ、2017年)

物心ついたときから、どうしてもわからなかった。どうすれば他者と愛しあえるのか。両親を見ていても、祖父母を見ていても、知人の両親を見ていても、親戚を見ていても、いい夫婦の日に報じられるおしどり芸能人夫婦を見ていても。彼らが本当に愛しあっているのかどうかわからなかったし、みんな「夫」「妻」という仮面をおとなしくつけている、リッパな大人なのだということはわかっていた。そうしたほうが私生活においても、近所付き合いにおいても、また仕事をするうえでもなにかと便利そうだということも。二村さんの言葉を借りるならば、この頃からわたしは「うっすら病んで」いたのかもしれない。

少し親しくなった相手に、うかつにも自身の生い立ちや過去の断片を話してまうと、自らこそが救済者とばかりに名乗りをあげてくるひとがいる。「メサイア・コンプレックス」(Messiah complex:メサイアは「メシア(救世主)」を指し、一般的に自らを満たすために人を救おうとするコンプレックスのこと)という概念を、カレはきっと知らなかった。「トラウマを抱えた(自分よりも)かわいそうな存在」として、一種のパターンとしてのかわいそうなワタシを助けている時間だけは、神々しい自分でいられたのだろうか。

学生時代、東南アジアを旅している際にも度々こうした人々にであった。(自らよりも)恵まれない人々に援助の手を、と海外からやってくるボランティアやNGO団体、外務省職員……。もちろん崇高な志をもってやってくるひとびともいたが、なかには自分自身に酔いしれているようなひともいて、私生活がうまくいってなかったり、自分自身が満たされていなかったりするひとたちがいて、少々薄気味悪さを感じたことをいまでも覚えている。

「わたし自身の傷は、わたし自身を形づくる大切なパーツのひとつでもある。けれど、その傷に酔いしれてはいけない」とワタシに言って聞かせた。サバイバーで自称アクティビストの女性の腕に無数の生々しいリストカットの傷を見つけてしまい、親しくなった彼女の日々を知るようになってからは。日々自らの傷を反芻し、言葉にし、伝える行為が彼女の仕事でもあり、尊いことだと信じて疑わなかった彼女。その反面で、一連の動作そのものが彼女への自傷行為として、作用していた。以来、わたしは自戒の意味も込めて自分に言い聞かせている。「ワタシを救えるのはわたしだけ」。

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