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『宮城大弥基金』設立の裏側。「子どもたちがスポーツを続けられる環境を作りたい」

昨年(2022年)の日本シリーズを制し、26年ぶりの日本一に輝いたオリックス・バファローズ。若き投手陣がチームを牽引しましたが、その中心選手の一人として活躍したのが宮城大弥(みやぎ・ひろや)選手です。
 
宮城選手は2年目の2021年に13勝、翌2022年は11勝を挙げ、パシフィック・リーグ連覇に貢献。その名は一躍広まり、2023年3月に行なわれるWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)へ臨む『侍ジャパン』の一員にも選出されました。
 
これからの球界をリードしていく存在となることは間違いない宮城選手ですが、2022年2月から、競技外で新たな活動をスタートさせました。
 
それが『宮城大弥基金』です。
 
経済的な理由でスポーツを断念せざる得ない沖縄在住の子どもたちを対象に、用具や遠征にかかる資金を援助することを目的としています。
 
これから選手としてピークを迎えようとしている宮城選手はなぜ、現役中にこの活動をしようと思ったのでしょうか。背景にある幼少期のエピソードも交え、その思いを伺いました。

現役中に活躍することが、活動の認知に繋がる

基金の設立はプロに入ってから考え始めました。作りたい思いはありましたが、お金の問題もあるので、そこで余裕が生まれてから、(基金を)作ろうと。思いはずっと持っていた中、活躍して余裕もできて、しっかりと運用ができるようになったので、設立しようと決意しました。
 
基金では、子どもたちがスポーツを続けられる環境を作りたいと思っています。続けるには本人の気持ちが一番大事なのですが、必ず資金面の問題が出てきます。この問題で辞めてしまう子どもたちが現れることはとても悲しいことです。全員が全員をサポートできるわけではないですが、1人でも多くそういった環境の子を援助したいと思っています。

設立の過程においてはシーズン中で自らあまり動けなかった点が悩みでした。ただ、仕組み作りから運営を父に任せ、かなり動いてもらいました。今は週に1回程度、父と定期的に打ち合わせをしています。 そこでは「とにかく頑張って成績残すように」と言われます。僕自身が野球選手として活躍しないと意味がない、と。本業は野球なので、そこをしっかりやりなさい、と。僕が活躍すれば、結果的にこの基金の認知も広がるんです。だから、僕は1シーズンしっかり、怪我をせずに投げて活躍することが大事だと思っています。

僕だけではなくて、多くの野球選手の人たちが結果を残していけば、多くの子供たちにも勇気を与えられます。だから、そうなれるように頑張りたいです。僕も小さい頃は現役のプロ野球選手を見て、彼らのようになりたいと思いながら練習を頑張っていましたし、感動や勇気をもらいながら、練習に臨んでいました。今は僕がそういう立場になる番だと思っています。

貧困家庭という実感はあまりなかった

いま思い返すと、プロになるまで周りの人やチームの監督からも助けられっぱなしでした。なので、父から「小さなことでいいから恩返しをしなさいよ」とは言われていましたね。もちろん、僕自身も支えられていることはわかっていました。寮費を遅らせてもらっていることもありましたし、中学校の監督には遠征費を出してもらったこともありました。部費の支払いが遅れることは毎月でしたけど、その融通もだいぶ効かせてもらいました。
 
とはいえ、家庭が苦しい状況にあった実感はあまりなかったんです。僕自身も小さかったので。だんだんと大人になっていく中で、「こんなに資金が限られている中で、僕にも野球をやらしてくれたんだ」「家賃や光熱費もある中で、ずっと続けさせてくれたんだな」と思うようになって。大人になってから、すごく無理をさせていたことを実感しました。

当時は僕自身も子どもで、お金の話も全くわからなかったので。“好きなことをしているだけ” としか思っていなかったんです。

ただ、周りはみんな欲しいものを買ってもらっている中、僕も欲しいと思ったものが、買ってもらえなかったり。みんなは持っているけど、うちにはなかったので「あいつの家は…」と言われることも多少はありました。でも、あまり気にせずやってこれたと思います。それに、それが原因で野球を辞めたいとは思わなかったですね。やっていて楽しかったですし、怒られるのは嫌だったんですけど(笑) それ以外で嫌なことはありませんでした。

でも、悲しかったエピソードはあります。特に、父がグローブを電子レンジで温めて溶けてしまったことはかなり印象的です。グローブが柔らかくなるどころか、溶けていってしまいましたから。僕からしたら “無” ですよね。本当に、何も言えなかったです。グローブという野球をするものがなくなってしまったので、本当に悲しくなりました。だけど、今となっては本当に面白い話だなと思いますね。

グローブ一つを買うのも大変だったわけですが、それでも家計が大変だとは思う機会は少なかったです。父は高校の寮監やレンタカー屋の仕事をしていたのですが、今振り返ると、睡眠時間もほとんど無い中で働いてくれていて、だいぶきつかったんだろうなと思います。ただ、当時は “普通のお父さん”という感じでした。

結果的に僕は野球を続けられていますが、スポーツを続けられるような仕組みづくりが世の中にはあってもいいのかなと思います。特に用具の面が最も大きな負担になります。僕の家でもそこをサポートしてもらえれば、日々の食費や生活費など他のものにもっと回すことが出来たと思うので。

活躍を社会に返していくのがプロ野球選手

プロ野球選手の社会貢献活動でいうと、投手の方が三振数に応じて寄付をする…という印象はあります。その中でも僕が一番覚えているのが、同郷の先輩でもある山川穂高さんの活動です。首里城が燃えてしまったときに、再建費を寄付していたのですが、他の沖縄出身の野球選手も同様に寄付をしていて「僕もこういったことができる大人になりたいな」と感じた出来事です。活躍した分を社会に返していくのが、プロ野球選手としてのあり方なんだなと思いましたね。

僕自身、社会をもっと知る必要があると思っています。年々大人になっていくので、社会のどこに課題があるのかを知って、そこを助けていけるようになりたいですね。今の活動については、僕自身がしっかり活躍することでより余裕が生まれて周りへのサポートもできると思うので、野球を頑張りたいと思っています。
 
活動できるのは主にオフシーズンになりますが、これまでもやってきたように、沖縄でもっと野球教室をしたいとも考えています。僕自身が沖縄出身で地元への思いも強いですし、今は離れた場所で活動しているので。

去年は日本一になってたくさんの方から連絡が来ましたし、「感動しました!」とか「野球を始めました」とか、そういう声も何件かいただきました。優勝することは、こんなにも影響力があるんだなと。意外でしたし、プロ野球選手は思っているよりもそういう力があるのだな、と実感しました。

僕としてはこれからも選手として長く野球をやりたいので、何歳でも投げられるような選手になっていきたいですね。そして、人としては “真摯”でありたいです。ただ単にかっこいいから、という理由なのですが(笑)。 何をしていても器が広いと思われるような人になって、自分を支えてくれた人たちや社会へ恩返しをしていきたいです。