抵抗の意思を示すこと - カタールW杯を振り返る
昨年11月下旬からおよそ一カ月にわたり開催されたFIFAワールドカップ2022カタール大会、サッカーファンの中では「史上最高のW杯」との呼び声も高く、開幕から決勝まで劇的でとても濃い展開を見せてくれた。個人的にもこの4年間ずっと楽しみにしていたし、一か月もの間大いに楽しませてもらった。大会を楽しんで、消費した、だからこそ絶対に言及したい側面もある。
11月23日、待ちに待った日本代表の初戦。優勝候補の一角であった強豪ドイツに逆転で勝利し、日本代表は今大会の番狂わせの一つを演じた。
そういうわけで非常に印象的な試合になったのだが、もう一つ目に見て印象的だったのは、キックオフ前の写真撮影の時にドイツ代表の先発選手11人が口をふさぐジェスチャーをとっていたことだ。これには何かメッセージがあるに違いないと思ってすぐに調べたら、どうやらFIFAのある決定に対する抗議を示していたらしい。この二日前に行われた試合でイングランド代表がやったように、キックオフ直前にポジションについてから膝をつくのは何度か見たことはあるが、今回のような形は初めて見た。
背景に何があったのか軽く説明しておくと、一部の代表チーム(イングランド、ウェールズ、ベルギー、オランダ、スイス、ドイツ、デンマーク)が、キャプテンの腕章としてLGBTQ+へのサポートを示す「ONE LOVE」と書かれたものの着用を予定していたところ、FIFAがこれを禁止し、もし着用すれば選手に対してカードや退場の制裁があることを通達した。特にカタールでは同性愛者に対する厳罰がなされていて、その思惑の影響は大きいところだろう。結果、各国は「ONE LOVE」の腕章の着用を断念し、自分たちの発言が脅迫によって拒否されたことを示すジェスチャーとしてドイツ代表は口をふさいだそう。
問題は他にもある。2010年に開催国に選定されてからスタジアムの建設ラッシュで6500人もの外国人労働者が命を落としたとされているし、そうでなくても労働者は収容に近い劣悪な環境で働かされていたという。
FIFA側もなぜカタールを開催国として選んだのだろうか。大量の死者が出るほどに労働者を酷使したカタール側にはもちろん大きな責任があるが、そもそも気候的にも厳しいカタールの地で急いで働いてスタジアムを作らなければいけないということが労働者にとってリスクになることは、当時の開発の状況からFIFAは判断ができなかったのだろうか。その点でFIFAにも責任はあるし、これは労働者の命よりも多数の消費者や関連する集団の利益をとった結果に他ならない。
と、このような内容が開幕直前に明らかになったことでヨーロッパの人々が中心となって批判をし、中にはボイコットをする放送局やサッカーファンもいた。自分としては、4年間楽しみにしていたW杯を見ないという選択をすることはできなかったが、それができる人は自分の楽しみを犠牲にして労働者の権利のために抵抗の意を示しているということで、その行動はとても気高きものだといえるだろう。
しかし、相次いだ批判に対してFIFAのインファンティーノ会長はヨーロッパが過去3000年間世界に対して行ってきたことを引き合いに出して、ヨーロッパの「偽善」であるとして反論した。
たしかに過去にヨーロッパの国々の過去の行為は批判されて然るべきものであるが、現代でヨーロッパに生まれた人は世界のどこかにある人間の危機を絶対に批判してはいけないのか。ここにはナショナリスト的な観点が含まれていると考える。
主にヨーロッパを中心に発生している批判は、単なる「進んでいる国」から「遅れている国」に対する批判でも「外国人」を傷つける「カタール人」への批判でもではないだろう。本当はその批判はもっとインターナショナルなもので、その中に見るべきは同じ人間としての権利を搾取や暴力から守るという意味合いではないだろうか。
スポーツの場において何らかの政治的な抵抗のメッセージを示すことは常に議論の的になる。「スポーツに政治を持ち込むな」と。
まず個人的な立場を述べるならば、スポーツと政治は密接に結びついているし完全に切り離して考えようとするのは不可能だと思う。現に、毎回の開催国選びも各国の政治的な思惑があるし、今回カタールが選ばれたのも石油の資金で潤うカタールの欧州サッカー市場への投資も背景として大きい。
そして何よりもスポーツは人間的で文化的な営みであって、それが存在するためには個人の基本的な人権や平和が保障される、あるいはその追求がなされることが前提としてあるべきだと思っている。そのような場で権利を主張したり搾取や暴力や差別に抵抗することがどうしていけないのだろうか。特に最近の膨れ上がるサッカー市場に象徴されるように商業や外交としての側面が肥大化しすぎて根底にあるべきものを見失っているのではないだろうか。
一方でスポーツが政治に利用されていると感じる場面もある。
例えば、決勝戦後にマクロン大統領がフランス代表チームに過度にかかわっていたが、もし仮に許可を取っていたとしてもどうして彼がそこにいる必要があったのだろうか。これは権力の濫用ともいえるし、多くの国民が支持する代表チームとの密接なつながりを見せることで自分にとって利益にしようとしているともとれる。
あらゆることが政治とどこかしらで政治と関係しているとも言えるから、どこまで持ち込んでいいのかという線引きは単純ではないが、そこに権力や権威やその利益が絡んできたり、特定集団に対する憎悪をあおることそのものを目的とするようなものであったり攻撃性をもったりするものであったりすると「違うかな…」と感じる。
いずれにせよ、人権とスポーツは切り離せないものであって、大きなスポーツの祭典があるときに搾取や暴力や差別に対して抵抗の意思を示すことは称賛されるべきことでもあるし必然であるとも思える。
ただ、文化的活動であることとは裏腹に特にスポーツの国際大会はその熱狂やナショナリスト的な側面も相まってウォッシング作用が大きく働くのも事実である。だからこそ、口をふさいだり、膝をついたり、国歌斉唱を拒否したりボイコットをしたりして抵抗の意を示すことや、報道や発信によって事実を可視化することはスポーツの意義を保ち、人々の基本的な権利を守るうえでとても重要であると思う。
今回、日本でも少しは報道されていはいたが、JFAの田嶋会長は「今はサッカーに集中するときだ」と発言し、問題に触れなかった。また、日本代表が下馬評を覆しての躍進を遂げたこともあって、最終的に「良い大会」としてのイメージの方が強く残ってしまっていることは否めない。2021年の東京オリンピックのときと似ている。
帰国した選手たちが様々なマスメディアに登場し試合以外のところで注目を浴びるほどに社会が盛り上がった中で、今更裏側の問題に触れるメディアは多くないし、終わっても尚選手や監督、サッカー協会も全く言及する様子はない。彼らが気持ちよくプレー出来たことやその活躍は、外国人労働者や同性愛者が搾取や差別を受け6500人もの人が命を落としているという事実の上にあるのにだ。
正直サッカー界の問題なんて挙げだしたらきりがないほどにあるが、今回ばかりは、一人のサッカーファンとしてとりわけ悲しく感じている。
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