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男性がフェミニズムを意識して生活し始めたら、世の中にはたくさんの生きづらさがあることを知った。

最近、フェミニズムを意識して生活している。厳密にいうと、女性やジェンダーに限らず、人の個性を重要視したいと思っていて、人種、年齢、職業、地位など、世の中にたくさんある差別を無意識的なものまで含め、個性の尊重していく上でノイズになりうるものをなるべく少なくしていきたいと思い、差別に見なされ得るものたちをゼロベースで再考したいと思っている。

そんな生活を送っていると、今まではなんとも思わなかった出来事も目につくようになる。先日こんな出来事があった。

女性と二人で食事へ出かけた

とある場所へ後輩の女性と2人で食事に出かけた。そのお店のスタッフはみな着物を着ていて、個室もたくさん用意されているような割と格式のあるお店だった。

そこはうどんが名物だったため、うどんが入っている鍋を頼んだ。しばらくして鍋が運ばれてきたのだが、そこで、ん?、というような光景を目にした。

スタッフさんには何も言ってはいないのだが、鍋の取り分け用のセットが向かいの女性側にセットされたのだ。

きっと鍋は女性が取り分けるものだという無意識のルールがスタッフに刷り込まれていたのだと思う。それも、スタッフさんは見た目が60代くらいの方だったので、きっとお店から教え込まれたというよりは、長年引き継がれてきたルールに今回も同様に則っただけのことかもしれない。

この出来事が直接的に性差別に分類されるかどうかはちょっと分からないけれど、男女の差が前提で構築されてきたルールや小さな事象は、世の中には数えきれないほどあるのだということを知った。

食事自体はそのまま終えたのだが、その後もしばらくこの出来事について考え続けていた。

男女差別を改正する動きが二次災害を生む危険性がある

すると、この出来事に付随して、もう一つ自分の行動を考え直した出来事があった。

これは今回に限ったことではないが、誰かと食事やカフェに行くときにそれが自分が誘った約束だった場合、おもてなしの意味もあって相手には上座側に座って貰うようにしている。

今回も自分から誘った食事だったので、例によって、女性には上座側に行ってもらったのだが、ちょっと昭和な考えの人が和室で上座にいる彼女を観たら、男性を立てられていない彼女は世の中の常識を知らない、などと思わせてしまう可能性があるということに気付いた。

(エスコートという視点はさておいて)

上座には接待先の人、クライアント、上司、とか偉い人がいた方がいいという感覚はあるけど、男性がいなきゃいけないなんてことは、ぼく個人は微塵も思ったことはない。

だけど、そう思ってる人が世の中にはまだまだいて、それが前提で日本が回っている限りは、結局、間違った(時代の流れとともに間違いになりつつある)行動が、彼女は常識のない人だという勘違いを引き起こしてしまう二次的な怖さを孕んでいる。その時々によって判断力が試されるということを知った。

また別の観点として、個人でハンドルを握っている食事では自分の考え通りに行動出来たとしても、例えば法事のような場合にはきっと男性のおじさんとかが一番奥に座っていて、女性がビールをついで、といったシーンに自分も馴染もうとしてしまうのだろうと思うと、悔しくなった。

こればかりはミクロから個人の努力で大きく動かすことは大変難しく、時代が変わっていくのを待つことしか出来ないような気がしている。

多様性に目を向ける

こんな話をすると、すごく興味を持ってくれる人もいれば、そうじゃない人もいる。取り分け女性が被害(と本人が感じるか否かは別として)になっているケースだとしても、まあそんなもんだよね、で終わってしまうこともしばしばである。ダメだよ敏感になろうよ、という意味ではなく、多様性というワードが飛び交う今でも、こんな世界にぼくたちは暮らしているということを理解しているかどうかが重要なのではないだろうか。

また冒頭で話したが、女性差別にだけ目を向けているわけではなく、男性であることで感じる生きづらさ、あるいは生物学的な性別の括りで生きていくのには向いていないと感じる人、人種の違い、生まれた場所、年齢、地位、あるジャンルにおいて区別をするには便利な記号も、別の場所へ行けば必要がないものになるケースは多々ある。

いつもはみんなにも興味を持って欲しいなあと思ってクローズドな飲み会とかで話すないようだけれど、せっかくなら不特定多数の人に発信してみようと思い、noteにまとめました。

こんな話題を家族だったり恋人だったり友達とかとしてみて欲しいです。ここまで読んでくださったみなさんに感謝します。🙏

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