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HELL FREEZES OVER

本日の“こずや”のBGMは、イーグルスの1994年の『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』です。

アルバムタイトルは1980年にイーグルスが活動を休止した際のドン・ヘンリーさんの発言から来ています。

"The band would play together again when hell freezes over.
(地獄が凍った時にバンド活動を再開する。)”

"when hell freezes over(地獄が凍った時)"は英語の慣用句で、絶対に起こらないこと、あり得ないこと…という意味で使われます。

その あり得ないはずの再結成が1994年に実現しました。

イーグルスは、このアルバムを発表した後、大規模な世界ツアーを3年に渡って行いました。

この作品は新曲4曲と、MTVでのライヴを収録したものです。

  1. ゲット・オーヴァー・イット

  2. ラヴ・ウィル・キープ・アス・アライヴ

  3. ザ・ガール・フロム・イエスタデイ

  4. ラーン・トゥ・ビー・スティル

~MTVライヴ~

  1. テキーラ・サンライズ

  2. ホテル・カリフォルニア

  3. 時は流れて

  4. お前を夢みて

  5. 言いだせなくて

  6. ニューヨーク・ミニット

  7. ラスト・リゾート

  8. テイク・イット・イージー

  9. イン・ザ・シティ

  10. 駆け足の人生

  11. ならず者

通常はライヴ盤だとチャートの上昇は難しいのですが、この作品は別格で全米ビルボードのアルバムチャートで1位を獲得して800万枚を売り上げました。

私は当時中学3年生でしたが、このタイトルとメンバー間の火花散る感じの関係性と曲の素晴らしさとドン・ヘンリーさんの美声にガツンとやられました。

当時はロックバンドが再結成することはまだ珍しかった時代であり、それも一時代を象徴するような存在の再結成ということもあり、凄く話題になっていました。

この1994年はロックが盛り上がった年です…ロックが偉大だった最後の年かもしれません。

このイーグルスの再結成の他に、レッド・ツェッペリンは再結成とはなりませんでしたがジミー・ペイジさんとロバート・プラントさんが組んでツェッペリン時代の曲を再構築したり、ピンク・フロイドは名盤『対』、ローリング・ストーンズは名盤『ヴードゥー・ラウンジ』を発表しました。

年末にはトム・ペティさんが2枚目のソロアルバムであり最高傑作の『ワイルドフラワーズ』を発表しています。

そして、シェリル・クロウさん、グリーン・デイ、オアシスといった歴史を動かしたバンドがメジャーデビューした年でもあります。

ニルヴァーナのカート・コバーンさんが猟銃自殺をしてグランジというファッションや若者の文化全体にまで影響を与えた1つのジャンル…時代が終わった年でもあります。

ウッドストック・フェスティヴァル94も開催されました。

私の大好きなピーター・ガブリエルさんやフィル・コリンズさん、エアロスミスもバリバリでツアーに出ていましたし、ビートルズとレッド・ツェッペリンの再評価の波も来ていました。

そんな贅沢過ぎる年に私はロックを聴き始めました。

ロックを聴き始めた1年目に観たものや聴いたものは今でも鮮明に憶えています。

その年の秋に発表されたイーグルスの『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』もその1つです。

それにしても、イーグルスがなぜ全盛期にバンドの関係が冷え切ってしまったのか…歴史を大まかに振り返ってみます。

イーグルスは1972年に結成し、1980年に活動を休止して1982年に正式に解散を発表しました。

イーグルスの結成は、1971年にリンダ・ロンシュタットさんのバックバンドを編成する為にミュージシャンが集められたことがキッカケでした。

グレン・フライさん、ドン・ヘンリーさん、ランディ・マイズナーさん、そしてバーニー・レドンさんの4人が集まりましたが、ツアーでは4人全員が揃うことはなかったそうです。

後に彼らは独立してバンドを結成することを思いつきます。

リンダ・ロンシュタットさんが所属していたロサンゼルスのアサイラム・レコードからイーグルスとしてデビューしました。

グレン・フライさんが当時同じアパートに住んでいたシンガー・ソングライターのジャクソン・ブラウンさんと共作した「テイク・イット・イージー」が、1972年に全米ビルボードチャートで12位まで上昇するヒットになって一気に人気が出ました(デビューアルバム『イーグルス・ファースト』は22位)。

その後もヒット曲を出し続けて、1972年から77年まではカントリー・ロックのイメージが強いバンドでした。

ザ・バンドの音楽性をカラッと都会的にしたような音楽ですから、アメリカで愛されます。

マルチプレイヤーだったバーニー・レドンさんが演奏するテレキャスター、バンジョー、スティール・ギター、そしてマンドリンのサウンドが、バンドのイメージを決定付けて、カントリーとロックを融合に成功しました。

最初の2枚のプロデューサーはグリン・ジョンズさんで、ローリング・ストーンズの『ベガーズ・バンケット』などのロックの名盤のエンジニアとして関わっていた経験を持つ大ベテランでした。

レコード会社とグリン・ジョンズさんは、バンドに対して“ロックは向いてないからカントリーの曲をメインにするように”と要求していました。

しかし、メンバーはロックをやりたかったということで目指す方向性の違いから衝突を繰り返します。

2枚目のアルバム『ならず者』はコンセプト・アルバムで、基本的にはファースト・アルバムと同じようなサウンド構成ですがスケールアップしています。

バーニー・レドンさんのカラーが強いカントリー的な楽曲と、ロック的な要素の曲が共存していました。

時代を超えて永遠に語り継がれると思われる名曲の「ならず者」は、後にリンダ・ロンシュタットさんやカーペンターズなど数多くのアーティストにカバーされています。

カーペンターズのカバーの邦題は なんと「愛は虹の色」です。

ドン・ヘンリーさんが歌えば「ならず者」だったのが「愛は虹の色」になるのですから、カレン・カーペンターさんの可憐なイメージは凄かったということでしょう。

「ならず者」はもうスタンダードと言っても問題ない名曲ですが、アルバム発表当時はシングルカットされていません。

意外と今になってスタンダードとされている曲は発売当時にヒットしていないものがたくさんあります。

この名曲が収録された2ndアルバム『ならず者』は全米ビルボードアルバムチャートで41位とセールス的には成功したとは言えない状況でした。

ヒットが欲しかったイーグルスは、3枚目の『オン・ザ・ボーダー』では、よりロック的なアルバムにする為に、2曲を録音したところでプロデューサーをロック志向の強いビル・シムジクさん に変更しました。

そして、この時期にバーニー・レドンさんの紹介で、ドン・フェルダーさんが収録曲中2曲に参加して、ロックの要素を強めました。

ドン・フェルダーさんはこの後にメンバーとして正式加入し、ライヴではカントリーの曲ではレドンさん、ロックな曲ではフェルダーさんがリード・ギターを担当することが多くなりました。

『オン・ザ・ボーダー』は収録曲の「我が愛の至上」が初の全米ビルボードチャートの1位になり、メンバーの狙い通りにヒットしました(『オン・ザ・ボーダー』は17位)。

1975年になって4枚目の『呪われた夜』が初の全米ビルボードアルバムチャートの1位になり大ヒットします。

これまで通りに、カントリーの楽曲もありますが、全体としてはよりロック調で、ディスコ、ダンス・ミュージックの要素も取り入れて音楽的な幅が広がりました。

しかし、『オン・ザ・ボーダー』の頃から続いていたメンバー間の軋轢が激化しました。

デビュー当時には仲良しの普通の民主的なグループだったのですが、気付けば実質的に主導権を握ったドン・ヘンリーさんとグレン・フライさんの圧力にバーニー・レドンさんは耐えられなくなり、音楽的方向性への疑問も重なったことから1975年末に脱退してしまいます。

それまでバンドの音楽的な個性を築き上げてきたレドンさんに代わるギタリストを探すのは難しかったようです。

その間に最初のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ 1971-1975』を発表し、全米ビルボードアルバムチャートはもちろん1位になり、全米だけでも3800万枚以上、全世界で5100万枚以上の売り上げを記録して全米で歴代最も売れたアルバムとして君臨しています。

アメリカではマイケル・ジャクソンさんの『スリラー』よりも売上が上ということです。

このベストアルバムは、プラチナディスク認定第1号にもなっています。

そんな時期に、レドンさんの後任はがジョー・ウォルシュさんに決まりました。

ジョー・ウォルシュさんの加入に反対するメンバーもいましたが、音楽的にはよりロック色を強める結果になります。

1976年には5枚目の『ホテル・カリフォルニア』を発表し、大ヒットしたタイトル曲の「ホテル・カリフォルニア」はドン・フェルダーさんの曲にドン・ヘンリーさんが歌詞を付けたものです。

ボブ・ディランさんも好きな曲として挙げることの多い「ニュー・キッド・イン・タウン」も収録されています。

『ホテル・カリフォルニア』は、全米ビルボードのアルバムチャートで8週連続全米1位を記録して、1976年のグラミー賞でタイトル曲が最優秀レコード賞を受賞し、アルバムは現在までにアメリカだけで1600万枚以上、全世界で3200万枚以上を売り上げています。

しかし、メンバー間の軋轢は更に激しさを増し、ドン・ヘンリーさんとグレン・フライさんの圧力の矛先はランディ・マイズナーさんに向けられるようになりました。

こうなってくるとイヤなバンドですね。

マイズナーさんは以前に比べて規模が巨大化したツアーのストレスや音楽的志向の違いもあって、1977年のツアー中に脱退してしまいました。

マイズナーさんの後継として、ティモシー・B・シュミットさんが加入します。

『ホテル・カリフォルニア』の次の作品は当初は2枚組で1978年にリリース予定でしたが、レコーディングが難航し、結局は1枚に縮小して1979年に発表されることになります。

それが『ロング・ラン』ですが、ここではハードロック、バラード、ディスコ、ファンク・ロックなど多様な音楽性に挑戦しています。

でも、『ホテル・カリフォルニア』までの魔法はもう尽きていました。

それでも売れます。

当然の如く全米ビルボードアルバムチャートの1位になりヒットしました。

この頃にもグレン・フライさんとドン・フェルダーさんの不仲や、曲作りのスランプなど…様々な問題が起きており、バンドは1980年に活動を停止しました。

そして1982年、正式にバンドの解散が発表された…という流れです。

グレン・フライさんとドン・ヘンリーさんはソロでも成功していましたが、 1994年になってドン・フェルダーさん、ジョー・ウォルシュさん、ティモシー・B・シュミットさんを迎えて再結成し、前述した通り、4曲の新曲とライヴ音源で構成された『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』を発表し世界規模でのツアーを行いました。

こう振り返って過去の作品を聴き直してみると、バンドのパワーバランスが均等だったと思われる時期…オリジナルの4人で作った『イーグルス・ファースト』と『ならず者』に収録されている音楽がやはり美しかったと思います。

でも、曲のアレンジやサウンドなど総合的に考えると、この『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』が突出してるかなぁと感じています。

スパニッシュなギターで始まる「ホテル・カリフォルニア」は、私個人的にはオリジナルより遥かに心に響いてきます。

その他の曲も全ての音を1つずつ大切に丁寧に奏でているなぁと聴いていて強く感じます。

ドラマーはドン・ヘンリーさんです。

イーグルスはバンドメンバー全員がボーカルを担当しており、曲によっては歌っていない場合もあります。

ドン・ヘンリーさんの魅力は、ドラムボーカルならではのドラミングです。

ただリズムを刻むだけではなく、歌を引き立たせるようなメロディアスなドラムがドンさんの特徴です。

ドンさん以前にもリヴォン・ヘルムさん(ザ・バンド)やカレン・カーペンターさん(カーペンターズ)といったドラムをプレイしながら歌う人はいましたが、その中でもスター性という面でずば抜けています。

ドンさんはドラムが下手という意見もよくありますが…。

確かにテクニックのあるドラマーじゃありませんが、かっこいいでしょ。

個人的にはそれで充分なのではないかと思います。

ロックはかっこいいもの…それで良いのだと思います。

下手だったら見た目が良くてもかっこいいとは感じないと思うはずです。

下手ではない…他の上手なドラマーより技術的には劣っているだけのことです。

途中で“イヤなバンド”と書きましたが、でもやはり、イーグルスは “かっこいいロックバンド”の象徴的な存在だと思います。

ロックは単純にかっこいいもの…それで良いんです。

人は駄目な時期には“もう無理だ”とか“不可能だ”とか考えて、それもその悪い状態が永遠に続くと思い勝ちですが、そんなことはない…永遠のことなんかはないと証明してくれたイーグルスはやはり格好良いです…あぁ~ステキ♪

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