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66.役割理論とノーマライゼーション

最近は、インクルージョンという言葉がよく使われます。

ソーシャル・インクルージョンのことで、元々はフランスを中心にEU諸国での社会的経済格差の問題から生まれた言葉です。
 
1970年代のフランスでは戦後復興と福祉国家の諸制度が整いつつも、その中で排除されている人が大勢いる…という状況になり、それを“社会的排除(ソーシャル・エクスクルージョンsocial exclusion)と呼んだことから始まりました。
 
その後1980年代に入って、ヨーロッパ全体で若者の失業問題がクローズアップされた際に、このフランス生まれのソーシャル・エクスクルージョンという言葉が注目されて、同時にその対義語として“社会的包摂(ソーシャル・インクルージョンsocial inclusion)という言葉がヨーロッパ全体の社会政策の中心になっていったと言われています。
 
その排除の対象となる人たちの中には、障がい者を含む社会的弱者と呼ばれる人たちが含まれ、そこにはニートなどの若年失業者や社会的格差の対象となる人たちが含まれていました。
 
障がい者だけを対象とした言葉ではなく、性別などもそうですし、ヨーロッパでは移民の問題などでのマジョリティーとマイノリティーの問題としても取り上げられています。
 
ソーシャル・インクルージョンという言葉は、元々はエクスクルージョンという言葉から出発した今日的な格差の問題を広く含む言葉です。
 
その後も、社会保障制度から抜け落ちてしまう弱者救済のキーワードとして、ソーシャル・インクルージョン…、インクルージョンとして主として教育で使われる言葉に発展していきました。
 
現在では、インクルージョンとソーシャル・インクルージョンはほぼ同義で、ソーシャル・インクルージョンはインクルージョンの広義の意味として使われます。
 
インクルージョンを考える上で忘れてはいけない言葉にノーマライゼーションという考え方があります。
 
1950年代にデンマークの社会省にいたニルス・エリク・バンクミケルセンさんは、第2次世界大戦中のナチスドイツへの抵抗運動によって収容所に収容された過去がありました。

その中で目の当たりにしたユダヤ人のみならず、障がい者の大量虐殺の体験と、戦後、社会省に入って知ったデンマークでの知的障がい者の施設収容の悲惨な実態を知った経験から、“すべての障がい者が普通の生活ができるように”と考えるようになり、ノーマライゼーションという考え方を打ち出しました。
 
当時のデンマークでは知的障害を持つ人、子ども達は、障害があるという理由だけで大型の収容施設に隔離されました。
 
中には、1つの施設で1500人が収容されて劣悪な環境に置かれていたようです。
 
このノーマライゼーション(normalization)という考え方は、施設収容の悲惨な実態を改善しようとする“知的障がい者の親の会”の運動と連携し、健常児者と呼ばれる人たちと同じ普通の生活をさせてやりたい…普通の家庭生活を可能な限り保障してやりたい…という考えを記した要望書を親の会が社会省に提出し、それをこのバンク・ミケルセンさんがバックアップする形で誕生しました。
 
1959年にデンマークで誕生したノーマライゼーションの基本的な権利を保障する世界初の法律が“知的障害者福祉法(1959年法)です。
 
1960年代に入ると、バンクミケルセンさんのノーマライゼーションという考え方はスウェーデン知的障害者連盟のベンクト・ニイリエさんに受け継がれて、より理念として明確な形を持ち始めます。
 
ニイリエさんはノーマライゼーションに具体的な目標を定めて、その実現に力を尽くしました。
 
ニイリエさんのノーマライゼーションは、障害をノーマルにすることではなく、障がい者の置かれている環境、住居などをノーマルに過ごせる環境に変えていき、それにより健常者と呼ばれる人たちと同等の生活が営めることを目標にしました。
 
これによって、ノーマライゼーションは施設から地域へ、代弁者から当事者中心の福祉へと移行する流れができました。
 
実際に、大規模施設を廃止して在宅でのサービスの充実へと方向転換が進みました。
 
ニイリエさんの考え方は、障害を持つ本人による意思決定というセルフ・アドボカシー(self-advocacy)の考え方へと帰結していきます。

セルフ・アドボカシーはイスラエルのダウン症の人たちが権利擁護の為に使い始めた言葉で、生活上に障害や困難さを持っている人たちが、自分の為に声を上げて必要なサポートを獲得する為に誰かと交渉し、目標となる状況に至る経緯のことです。
 
セルフ・アドボカシーを身につける為に必要な3つの力として、知識(自分のことを知る・社会のことを知る)、モチベーション(自己効用感…どんな自分でも大丈夫だという自己肯定感や粘り強く取り組む力)、アサーション技術(自分の意思や要求を表明する権利があるという立場に基づく適切な自己表現…言葉、文法、談話的能力や相手の気持ちを推し量るエンパシー力)が求められます。
 
ニイリエさんによってノーマライゼーションの理念は整理されて、1969年には8つの原理を定義づけました。
 
①    1日のナーマルなリズム

重い障害がっても、朝、目が覚めて、顔を洗って、着替えて、家から学校や職場へ行くこと。

ずっと家にいるだけではなく、普通の人と同じように社会に属し、その日、1日をどう過ごすかを考えること。

ベッドではなく、ちゃんと食卓で食事をすること。

スプーンだけを使うのではなく、お箸やフォーク、ナイフなども選択してちゃんと使うこと。

介護職員の都合などで、夕方の早い時間に夕食を済ませないこと。

夜には、その日やり遂げたことを振り返ること。

1日は単調な同じことを繰り返す24時間ではないこと…等。
 
②    1週間のノーマルなリズム

週5日、自宅から学校や職場に行くこと。

もちろん他の場所にも遊びに行くこと。

週末には仲間との楽しい集まりもあること…等。
 
③    1年間のナーマルなリズム

普通の人と同じように、長期のお休みもあること。

それによって日々に変化があること。

季節によって様々な食事をし、仕事も変化があり、行事も楽しむこと。

スポーツや旅行など、余暇の活動も楽しむこと…等。
 
④    ライフサイクルにおけるノーマルな発達経験

幼少期は夏はキャンプに参加すること。

青年期には服装や髪型にこだわりを持ち、おしゃれを楽しむこと。

音楽や異性との交流などにも普通の人のように興味を持つこと。

成人したら、仕事を通して責任も負うこと。

老年期はそれまでに積み上げた思い出に浸り、経験から生まれた知恵にあふれること…等。
 
⑤    ノーマルな個人の尊厳と自己決定権

普通の人と同じように自由と希望を持って生きること。

周囲の人もそれを認め、障害を持つ人を尊重すること。

大人であれば自分が望む地域に住み、自らに適した仕事を自分で見つけて決めること。

趣味にも時間を費やし、楽しむこと…等。
 
⑥    ノーマルな性的関係

子どもであっても大人であっても、異性との良い関係を築くこと。

青年期は異性との交際に興味を持ち、恋に落ち、人を愛し、愛され、成人して適した年齢を迎えれば結婚を考えること…等。
 
⑦    ノーマルな経済水準とそれを得る権利

障害の有無に関わらず、誰もが基本的な公的財政援助を受けられること。

そして、その為の責任を全うすること。

児童手当、老齢年金、最低賃金基準法などの社会的保障を受け、経済的安定を図り、自分で自由に使えるお金があり、必要なものや欲しいものを購入できること…等。
 
⑧    ノーマルな環境形態と水準

障害があるからといって、大規模な障がい者施設に住む必要はないこと。

それは社会から孤立することに繋がるので、普通の人と同じように、望む地域で望む家に住み、地域の人達と交流すること…等。
 
ノーマライゼーションは“障害を抱えている人たちをトレーニングして、できるだけ普通(ノーマル)の生活ができるようにサポートする”ことと誤解されることがあります。

しかし、それは大きな間違いです。
 
健常者と呼ばれる人たち(障害も持たない人)が無意識に偏見を抱き、“障害がある人は普通の生活ができないからサポートが必要だ”と考えがちです。
 
それによって障害がある人たちの権利を奪い、人権を侵害している可能性もあります。

ノーマライゼーションの8原則は、自立支援という現代の福祉の基本的な方向性を確認する上でとても重要な理念です。
 
デンマークで始まったノーマライゼーションが社会に必要な考え方だと強く認識され、ベンクト・ニィリエさんがいたスウェーデンに広がり、ここから世界中で重要性が理解されるようになっていきます。
 
1983年にはヴォルフ・ヴォルフェンスベルガーさんによって、ソーシャルロールバロリゼーションが提唱されました。

少し時代は戻りますが、1960年代後半から1970年代前半にドイツ出身で発達障害研究者だったヴォルフェンスベルガーさんによって、ノーマライゼーションはアメリカに普及しました。
 
アメリカに移住後にヴォルフェンスベルガーさんは、バンクミケルセンさんとニイリエさんのノーマライゼーションの考え方を、その国の文化や地域に根差したものにするべきであると考えました。
 
大規模施設から小規模なグループホームへの移行、ホステルなどの適応施設の普及を行い、その為の人的な援助のシステムを構築しました。
 
バンクミケルセンさんとニイリエさんのノーマライゼーションが、主として障がい児者の環境の整備や改善を目指したものだったのに対して、ヴォルフェンスベルガーさんのノーマライゼーションは、それに加えて、目標達成の為に専門家育成や、援助プログラムの開発に力を入れました。
 
その為、PASS(Program Analysis of Service System)と呼ばれる…ノーマライゼーション達成の評価基準を作成し、知的障がい者の社会的イメージの向上と障がい者自身の能力の向上を目指しました。

これは、後にPASSINGとして1983年に発表されました。
 
ヴォルフェンスベルガーさんの特徴は、環境よりも人的な援助…更には、デンマークやスウェーデンと同じやり方を必ずしも そのまま導入するのではなく、その国の文化や特性に応じた形でのノーマライゼーションを目指したところに大きな違いがあります。
 
彼はまた、知的障がい者は社会的に逸脱した人たちである…と捉える考え方を是正するべきだと考えて“障がい者の社会的役割の実践(ソーシャルロールバロリゼーション(social role valorization)を提唱し、社会的弱者と呼ばれる人たちにそれぞれの社会的役割を与え、それを維持する社会を目指しました。

ソーシャルロールバロリゼーションは、社会的役割の獲得(実践)と訳されますが、バロリゼーションは“テコ入れ”という意味もあるようです。
 
“価値ある社会的役割を障がい者にも与えよう”という考え方です。
 
ノーマライゼーションが国際社会に拡がるにつれて…、

“普通への同調を逸脱している人たちに対して過度に求めるものではないか”

…という疑問や批判が出てきたことに対して生まれた考え方です。
 
当時は、障がい者には重要な仕事は与えられていませんでした。

そこで、ソーシャルロールバロリゼーションは、障がい者にどのような役割を期待するか…“役割期待”の重要性を説いた概念です。
 
仕事は、単にお金を稼ぐことだけが目的ではなく、社会的役割を担って自己肯定感や有用感を感じられることが重要なのだと思います。
 
マズローの欲求階層説では上から2番目が“承認欲求”です。
 
ヴォルフェンスベルガーさんは、ソーシャルロールバロリゼーションについて…、

“可能な限り文化的に価値のある手段による、人々、ことに価値の危機に瀕している人たちの為に、価値ある社会的な役割の可能性、確立、増進、維持、ないし防衛のことである”

…と言っています。
 
不当に低く扱われている人々の社会的役割を高める為に、当人の適応力や対外的イメージを向上させるということです。
 
障害のある人たちが“普通と違う”、“異常である”と見なされる場合、そこには“あれは普通”、“これが異常”と規定する価値観が作用しています。
 
障害のある人を変えるのではなく、社会の価値観の方を変えること…、障がい者が有する価値を社会に認めさせて高めていくことこそが、ソーシャルロールバロリゼーションの考え方です。
 
ここで、ソーシャルロールバロリゼーションと切っても切り離せない関係の“役割理論”についてお勉強です。
 
人間は日々、役割を演じて生きています。

学生、先生、父親、政治家、会社員、ヤンキーなど、その立場や地位にふさわしい行動や言動を行うようにプログラミングされている機械のようです。
 
ある日、平社員がリーダーに昇格すると、その立場に合わせた行動や言動に突然変わります。
 
滑稽ですが、そういうのを見ると頼もしくも思います。
 
普段は偉そうに威張っている社長も、社長という役割を演じているだけと考えれば滑稽で許せてしまいます。
 
何の関係もない人が集まって囚人と看守の役を演じる実験を行うと、普段は温厚な人でも看守役を連日演じることで何の罪もない囚人役を平気で痛めつけてしまうということが起こるそうです。
 
人間は善人でも悪人でも、何にでもなれる、何でも演じられるということです。
 
人間は他者から役割を演じることを期待されています。
 
家族から父親という役割を演じることを期待されたり、会社からリーダーという役割を演じることを期待されます。
 
これを“役割期待”といいます。
 
人は社会で生きていく中で、周囲からその立場にあるべき姿やふさわしい行動が期待されるということです。
 
子どもなら、“子どもらしく外で元気に遊ぶ”などです。
 
いやいや、現代の子どもだと“家の中で夜中までYoutubeを観たりゲームをする”といったところでしょうか…。
 
“役割期待”を受け入れて、そのように行動することを“役割取得”といいます。
 
高齢者が老人であるという“役割期待”を受け入れることで、老人が出来上がります。

つまり老人は社会的に作られるということです。
 
子どもが、ごっこ遊びによってお医者さんや電車の運転手などの役割を演じることは“役割取得”にとって重要な訓練のようなものです。
 
この概念を見出したジョージ・ハーバート・ミードさんは、一般化された他者が期待する“役割期待”を“役割取得”した存在を“客我(me)”、そんな“me”に同調したり批判したりする自我を“主我(I)”と呼んでいます。
 
自我については、チャールズ・ホートン・クーリーさんが“鏡に映った自我”を論じています。
 
鏡は他人のことで…他人は自分を映す鏡で、他者がどのように自分を見ているかを知って、自分を知ることを説いています。
 
“役割期待”に従って役割を演じていても、人は完全に期待通りに行動しないことが多いと思います。
 
少し距離を置いて、ズレた行動をとることがあります。
 
例えば、子どもなら遊びながらふざけてみたり、老人なら元気そうに振舞ってジョギングするなど…です。
 
これを“役割距離”といいます。
 
つまり、期待されている役割から距離をとって期待どおりに役割を演じない…これが“役割距離”です。
 
“役割距離”の概念を提唱したアーヴィング・ゴッフマンさんは“役割距離”の例として以下の2つを挙げています。
 
ゴッフマンさんは人が社会的行為をする時は、周囲の人を含めてドラマを演じている(ドラマツルギー)と捉えました。
 
メリーゴーランドに乗る子そもは(年齢にもよりますが)、親の期待通りに馬に乗ることはしません。
 
例えば、ふざけて危険な乗り方をしたり、余裕で乗りこなせることを誇示するような振舞いをすることもあります。

このように子どもは馬に乗るという“役割期待”に対して“役割距離”をとります。

大人であれば子どもの安全を守る為という表情をしながら乗ったりします。
 
大人は皮肉や冗談、ユーモアによって“本当の自分”と“役割行為”の間に距離をとることがあります。
 
そして“役割距離”では、演じている本人はその気がないことを表現しながら行為を行っています。
 
外科医が手術室で冗談を言うという例もあります。
 
外科医の“役割期待”は“外科医らしく振舞って手術を成功させること”ですが、その“役割期待”通りではなく手術中に冗談を言うことがあります。
 
冗談を言うことによって緊張感を和らげたり、冗談を言えるのは余裕があるからという自分の有能さを知らしめるといった意味があります。
 
外科医の例のように、役割が厳密に定義されている状況においてこそ“役割距離”が有効に機能することがわかると思います。
 
このように見てみると“役割距離”という概念は、他者との関係の中で発生するものであることがわかります。
 
外科医の手術の例では、同じ手術室にいる看護師などがいなければ冗談などは言いません。
 
外科医は冗談を言うことで自分の緊張を和らげ、冗談を言う余裕があるということをアピールしているわけです。
 
例えば、メリーゴーランドに乗る子供の例では、母親の目線がなければ子どもはふざけたりしません。
 
子どもは母親に対して期待通りの役割を演じないことで“自己表現”しているわけです。
 
結局、“役割期待”に対してしっかりと“役割取得”をした人にとって、“役割距離”としての行為は“自己表現”ということになります。

このように、他者との関係の中である意味“自己表現”の手段として“役割距離”を演じるわけですが、その距離が大きすぎて度が過ぎると“社会的逸脱”になってしまうので注意が必要です。
 
“役割形成”は状況に応じて新たな役割を取り入れて、既存の役割の規定の枠を超えて新たな人間行為が展開することです。

ジョナサン・ターナーさんが提唱した概念です。
 
“役割形成”によって複数の役割を担うことになりますが、そのような時に発生する葛藤を“役割葛藤”といいます。

自分の中の役割同士が矛盾したり対立したりする時に起こる葛藤です。
 
役割距離で紹介した2事例は“役割葛藤”の解消として、次のように捉えることもできます。
 
“メリーゴーランドの騎手”と“ある程度の年齢の少年”という2つの役割の間での葛藤があり、その解消の為に騎手であることに熱中していないように振る舞うという捉え方ができます。
 
“まじめな医者”という役割と“ユーモアセンスのある人”という2つの役割間での葛藤があり、その解消の為に冗談を言うという捉え方ができます。
 
このように“役割葛藤”という複数の役割を抱えた時、その解消の為に“役割距離”をとることがあります。
 
“役割適応”は、“役割期待”を遂行できているかどうかを分析する為の概念で、他者からの“役割期待”に応えている状態です。
 
“役割演技”は心理療法の心理劇の手段として与えられた役を即興で演じたり、演じる役を他人と交替してみたりすることで自己理解や他者理解を促す方法です。
 
社会生活において場面ごとに求められる“役割期待”を本人が適切に理解して自発的に演じることです。
 
他者からある社会的役割を期待されることを“役割期待”、その“役割期待”を取得することを“役割取得”、取得した役割を遂行することを“役割適応”、取得した役割から少しズレた役割を遂行することを“役割距離”、そして既存の役割の規定の枠を超えて新たな人間行為を展開するのが“役割形成”です。

“役割期待”に対して適切に“役割取得”した時の“役割距離”は、“自己表現”の一種ということになります。
 
ここまで、ソーシャルロールバロリゼーションと役割理論についてお勉強してみました。
 
ここから、ノーマライゼーションの理念は、アメリカから世界へと広がっていきます。
 
1971年に国連総会で採択された知的障害者の権利宣言、1975年の障害者権利宣言、1982年の障害者に関する世界行動計画、更には国連障害者の10年などの基本理念として採択されていきます。
 
1990年にアメリカでADA法(障害のあるアメリカ人法)が制定され、そこからしばらく飛んで、2006年に国連で障害者権利条約が採択されました。
 
このノーマライゼーションの理念は環境を整えるという考え方から、バリアフリー、ユニバーサル・デザインへと発展します。
 
日本では、厚生労働省の“生活のしづらさなどに関する調査”や“社会福祉施設等調査”などから、内閣府が算出したデータによると、日本の障がい者数は以下のようになっています。
 
身体障がい者:436万人(人口千人対:34人)
知的障がい者:108万2千人(人口千人対:9人)
精神障がい者:392万4千人(人口千人対:39人)
 
このデータから、国民のおよそ7.6%が何らかの障害を持っていることがわかります。
 
そして障がい者数は増加傾向にあり、ここ10年間で約1.4倍になりました。
 
障がい者が増加している原因としては、高齢化や障害に対する認識の広がりなどが考えられます。

日本での代表的な取組の1つは、1960年に制定された障害者雇用促進法です。
 
障害者雇用促進法では、障がい者の雇用の安定を目的として、差別の禁止や安全配慮等の義務が定められています。
 
また、一定数以上の従業員が在籍している企業は、法定雇用率以上の割合で障がい者を雇用しなければいけません。
 
当初の障害者雇用促進法は身体障害のみが対象でしたが、法改正を経て、現在では身体障害、知的障害、精神障害のすべてが雇用義務の対象になっています。
 
障害の有無に関わらず、すべての人が社会の一員として平等に活躍できる社会を作ることを目指しています。
 
厚生労働省は、障がい者の自立と社会参加の促進を目的として、ノーマライゼーションの理念に基づいたサービス提供体制の充実に取り組んでいます。
 
例えば、2003年度には障がい者の自己決定を尊重し、サービス事業者との対等な関係を確立する為の支援費制度を開始しました。
 
これは利用者がサービス事業者を選択し直接契約できる制度で、サービス利用者数の増加や安定化などの地域生活を進める上での支援が大きく前進しました。
 
その後、2006年度には障害者自立支援法に基づく新しい制度へ移行しました。
 
また、精神障がい者の人権に配慮した取組も始まりました。
 
“精神医療の確保、自立と社会経済活動への参加の促進”の2つをテーマに、入院患者の処遇改善、地域で生活する精神障がい者の支援などが積極的に行われています。
 
更に、障がい者の社会参加推進としては、情報伝達(コミュニケーション)手段確保の為に障がい者への情報提供の充実や、手話、点訳に従事する奉仕員の養成、派遣などが行われています。
 
在宅の障がい者やその家族に対しての援助や全国障がい者スポーツ大会の開催にも取り組んでいます。
 
他にも、各自治体や各企業でもノーマライゼーションに取り組むことで、障害の有無に関係なく、すべての人が平等に生活できる社会の実現に近づくと考えられています。
 
そして、国民ひとりひとりの意識改革も必要だと思います。
 
ノーマライゼーションは障がい者や高齢者など関係なく、すべての人たちが自立、社会参加する為の支援をすることや仕組を作ることです。
 
自分は社会的弱者じゃないと…他人事のように思っている人も大勢いるのかもしれませんが、実は、ほとんどの人がこの社会の中で何かしらの不便や問題を抱えています。
 
その為、障害や社会的マイノリティの線引きをするのではなく、自分がその立場だったらどうしてほしいかということを考えることも大切なことだと思います。
 
すべての人がそうすることで、すべての人が平等に暮らせる社会の実現に近づけるのではないかと思います。
 
ノーマライゼーションは障害の有無や年齢、社会的マイノリティなどに関係なく、すべての人の生活や権利が保障された環境を作っていくという考え方を示す言葉です。
 
これからの時代はIoTやAIの活用による、障害のある人もない人も誰もが安全に安心して暮らせる心豊かな社会の実現が求められます。


写真はいつの日か…恵庭市で撮影してきたものです。
 
 

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