見出し画像

自分の十字架

今週はルカ福音書9章18節〜24節を
「聖書を読む会」で読みました。

夜の部と昼の部があり
異なるメンバーでの分かち合いでした。

昼の部では

イエスさまが一人で祈ってる時
弟子たちもいたってあるけど
何してたんだろう?

ペテロがイエスさまのことを
「神のキリストです」
って言ったのに
「誰にも話さないように命じられた」のは
なぜ?

「このことを誰にも話さないように」の
「このこと」ってどのこと?
人の子は苦しみを受け
殺され、よみがえる
ことかも。

自分の負う十字架って
なんだろうと、いつも思う。

自分を捨てるって
うーん、どうなんだろう
断捨離のイメージ。


夜の部では

ペテロは
イエスさまに
何と答えれば良かったのだろう?

いのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者は、
それを救うのです
って、どうしたら良いのだろう?

ここの「いのち」という言葉は
「プシュケー」で、魂、霊とも訳せる言葉。
サイコロジー(心理学)はこれに由来する。

イエスさまに
すべて変えられる
って思った時に
「え、これは変えられると嫌だなぁ」
とか思ったことがあるのを
思い出した。
そういう執着を捨てて
すべてイエスさまに委ねた方が
良いとわかっているのに。

神さまの恵みを受け取るために
手放してスペースを空けることが
必要なのかも。

18節〜21節
22節
23節〜24節
のつながりがよくわからない。

などなど
この箇所だけで
まだまだ分かち合いが
足りない感満載でした!

「オンライン#聖書を読む会」
に興味のある方は
こちらからお問合せ下さい。
#ゆるぼ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?