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世界はそれを愛と呼ばないかもしれないけど、らいおんはそれを愛と呼ぶことにしたんだぜ!

(タイトル画像:サンボマスターは君に語りかける)

こんにちは。らいおんです。
今日のテーマはズバリ「愛」です。
40代のオッサンが「愛」を語り出すことの”気持ち悪さ”は重々承知の上なので、どうぞご勘弁ください(笑)
気持ち悪さに耐えられそうにない方は、どうぞ遠慮せずに画面を閉じてください(笑)

「愛」の意味がよくわかず迷子状態の40代

はい、気持ち悪い文章が次々と浮かんでくるのですが(苦笑)、著者は40代も半ばに差し掛かろうとしているにもかかわらず「愛」の意味がよくわからず迷子状態です。(エナジーワーク的には「愛」に関する大変容期に突入しております)
一応補足しますと、著者には家族があり可愛い子どももおります。なのでパートナーや子どもたちに対する世間で言う”無償の愛”のようなものは持ち合わせているように思います。しかし、昔から「愛」という言葉や「愛」について語られる言説に触れるたびに、なぜか強い「違和感」がありました。

若い頃は、この「違和感」の原因を自分は人を愛することを知らないから(または人を愛することができないから)だと自己嫌悪に陥ったりもしました。しかし、結婚して子どもを育てる中で「自分も人並みに人を愛する意味を知り、愛することができるようになった。」と自分の中で結論づけたようで、いつしか上記の「違和感」も感じなくなっていきました。

しかし、、、エナジーワークではこの「愛」に関するエネルギーを扱うことが多く、その影響で自分の中に眠っていた「愛に対する違和感」が再び噴出してきたようで、それが今回の変容期の原因になっているようです。

違和感の原因は過去生にあり?

筆者は「この世の森羅万象はだいたいエネルギーで説明がつく!」と言い切ってしまう「エネルギー原理主義者」なので(笑)、今回の「愛に対する違和感」の原因にエネルギー的に迫ってみたいと思います。
しかし、、、瞑想しながら透視で自分のオーラを視て「愛に対する違和感」のエネルギーやその発生源を特定しようと試みますが、このブログでも何度か書いている通り「自分のエネルギーは視えづらい」のです。
と言うわけで、「どうも過去生と関係あるっぽい」ところまではわかりましたが、それ以上は自分だけではわかりませんでした。
と言うわけで、サイキックの友達にリーディング(透視)してもらうことにしました。
その結果、やはり原因は過去生にあるようです。
以前から筆者には「多くの人の命を奪った過去生」「多くの人を支配(コントロール)していた過去生」があることは知っていたのですが、それらがどうやら今世の「愛に対する違和感」の原因になっているそうです。
多くの人の命を奪い又は支配(コントロール)してきた過去生の痛みと自分自身を罰するエネルギーが「自分には人を愛する資格はない」「自分自身を愛することは許されない」と言う制約を自分自身に課しているようです。
ただ原因が分かればこっちのものです。あとは原因になっている過去生からきているエネルギーを手放していけばよいわけです。
今回は、そのプロセスを「愛に徹底的に向き合ってみる」ことを通じて実践してみることにしたいと思います(そしてその過程をブログに書いてみたいと思います)。

そもそも「愛」とは何か?

「愛に徹底的に向き合う」にあたり、早速筆者の(サイキック的には)悪い癖が発動します。はい、文献にあたるです(笑)。(注:エナジーワークでは「分析的思考」は厳禁なのです)
これは不思議なのですが、本を読んでいると自分がその時関心のあるテーマに関する情報が必ず書かれています。さらに今回は長年積読状態になっていた「いつこんな絶対読まなそうな本買ったんだろ?」と言う本がKindleから突然現れてきました。
それが哲学者で教育学者でもある苫野一徳さんの書かれたその名もズバリ「愛」と言う本です。

愛 (講談社現代新書)

本書の中で苫野さんは「愛」とは何か、そしてそれはいかに可能か?について以下のように書いています。
「”真の愛”の本質は『存在意味の合一』と『絶対分離的尊重』の弁証法である。」と。
「存在意味の合一」とは、相手の存在によってわたしの存在意味が充溢するとする確信、相手が存在しなければ、わたしの存在意味もまた十全たり得ないとする確信のことです。
そして「絶対分離的尊重」とは、相手は”このわたし”には決して回収され得ない存在であるとする、絶対的な分離的尊重です。
そして”真の愛”とは、その2つが「弁証法」の関係にある、と言うことです。「弁証法」とは、「合一」と「分離」と言う一見相矛盾する2つの項が、何ら矛盾することなく統合的にあると言うことです。

苫野さんによると「存在意味の合一」と言う「合一感情」には次元があり、愛着感情のような「この人は”わたし”の大切な人」と言う”このわたし”への合一化感情と言う低次のものから友愛のように「この人こそわたしと同じ魂を分つ人」、さらに「愛」における「存在意味の合一」のように単なる合一化感情ではなく、わたしの存在の意味それ自体が、相手によって規定されていると確信される高次元のものまで段階的に存在するそうです。
一方「分離的尊重」も愛着に見られるような、いつでも”わたし”のエゴイズムに回収されうる極めて低次なもの(例:我が子を自分の所有物であるかのように愛する親の愛など)から「愛」における「相手は”このわたし”には決して回収されえない存在である」とする高次の絶対的な分離的尊重まで段階的に存在すると述べています。
そして、友情やエロティシズムや恋は、それが「合一感情」と「分離的尊重」の弁証法という「愛」の本質へと育て上げられた時、それぞれ「友愛」「性愛」「恋愛」と呼ばれることになると述べています。
そう、「愛は意志を持って育て上げるもの」だということが述べられております。

次に「愛はいかに可能か?」について苫野さんは「ー自分の尻でしっかり座ること。すなわち、自己不安と、その反動ゆえのナルシシズムー自己の価値への過剰な執着ーを乗り越えること。そして『意志』を持つこと。これら2つの条件を満たすこと」と述べています。
また、”真の愛”の本質である「存在意味の合一」と「絶対分離的尊重」の弁証法において、「存在意味の合一」は比較的得られるのに対して「絶対分離的尊重」はただ待っていれば感得できるものではなく、わたしたち自身の人格的発達を必要とすると述べています。
同じことを社会心理学者もエーリヒ・フロムも以下のように述べているそうです。

愛するためには、性格が生産的な段階に達していなければならない。この段階に達した人は、依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとかなんでも貯めこもうという欲求をすでに克服し、自分のなかにある人間的な力を信じ、目標達成のためには自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。これらの性質が欠けていると、自分自身を与えるのが怖く、したがって愛する勇気もない。

(フロム『愛するということ』四八頁)

「依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとかなんでも貯めこもうという欲求」はいずれも自己不安や自己不全をその根に持っており、それを克服(人格的発達)しないうちは「すべては”このわたし”のために」と常にどこかで考えてしまい「絶対分離的尊重」など不可能です。つまり愛することが不可能だと言うことです。

では、わたしたちはどうすればこれを克服することができるのでしょうか?
フロムはナルシシズム(自己不安や自己不全)を克服するためには、人間や物事をありのままに見て客観的に考える能力、つまり「理性」と理性の基盤となる感情面の姿勢、つまり「謙虚さ」を育てる必要がある、と述べています。自己不安の打ち消しとしてのナルシシズムは、「このような惨めな自分ではない自分でありたい」という欲望によって作り上げられた自己像を描き出します。しかしそれは、結局のところどこまでも虚像にすぎない。この虚像を、自らの理性によって暴き出すことでナルシシズムを克服できるというわけです。
さらに苫野さんは上記に加えて「他者から『承認される経験』」を挙げています。「あなたはOK、それでOK」と言われること。たったそれだけの承認経験が、自身を長らく縛りつけてきた過剰な自己承認欲求から、わたしたちを解き放ちうると言うことです。
わたしは、わたし自身をそのあるがままにおいて承認し得ない限り、人を愛することなどできない、と苫野さんは述べています。
自己不安やルサンチマンや反動的ナルシシズムを抱える人は、愛を求めることはあっても、愛することができない、と言うことです。

以上、使っている言葉は少し難しいですが、直観的にはよく理解できる内容かと思います。お陰で「愛」に対する筆者の理解度はかなり上がりました。
つまり筆者が以前より感じていた「愛」について語られる言説に対する「違和感」の大半は、多くの言説が「愛でないもの(愛以前の段階の恋、愛着、エロティシズム)」を「愛」と混同して説明されていることによるものであったと言うことです。(つまり筆者の責任ではない!と言いたいわけですw)

「愛」をエネルギー的に解釈し直してみる

さてここまでの説明で左脳的(分析的思考で)に「愛」についての理解が進んだわけですが、5次元以上の世界を生きる筆者にはこの理解では全然足りません。したがって、これらを今度は「エネルギー的(直観的)」に解釈し直してみたいと思います。

まず”真の愛”の本質の1つ目である「存在意味の合一」ですが、これは上記でも述べたように「相手の存在によってわたしの存在意味が充溢するとする確信、相手が存在しなければ、わたしの存在意味もまた十全たり得ないとする確信」です。
エネルギーの世界は、すべての人、モノ、世界、宇宙が全て1つであると言う「ワンネス」の概念を基本とします。
その意味ではエネルギーの世界では「特定の誰か」だけではなく、わたし以外のすべての人、モノ、世界、宇宙の存在によってわたしの存在意味が充溢するという確信があります。
したがってエネルギー的には特定の誰かを愛することよりもすべての人、モノ、世界、宇宙を愛する「博愛」「兼愛」の方がしっくりくるのかもしれません。ただし、「博愛」「兼愛」と「特定の誰かを愛すること」は矛盾せず同時に成り立つと考えます。

次に”真の愛”の本質の2つ目である「絶対分離的尊重」ですが、エネルギーの世界では上記の「ワンネス」を基本としつつも、それと同時に「自分の魂(エネルギー)」と「自分以外の魂(エネルギー)」を明確に分けて取り扱います。これはエナジーワークの基本でもあり「自分のオーラの中に、他人のエネルギーを入れない(入ったエネルギーは全て手放す)」が大原則です。さらに「自分の魂(エネルギー)」と「自分以外の魂(エネルギー)」をそれぞれ「ありのまま」に受容します(バリデーションという)。

また、「絶対分離的尊重」の障害になるナルシシズム(自己不安や自己不全)の克服は、まさにエナジーワークの大きな目的の一つとも言えます。
フロムがナルシシズムの克服に必要だと述べた「人間や物事をありのままに見て客観的に考える能力(理性)」はまさに筆者が「究極のメタ認知の方法」だと考える「リーディング(エナジーワーク)」によってエナジーワーク実践者が育てている能力の一つだと言えます。

さらに、苫野さんが上記に加えて言っている「他者から『承認される経験』」に至っては、エナジーワークは他者からの承認を超えて「究極の自己承認」力を養います。エナジーワークは簡単にいうと「自分はOK。それでOK。」と自己承認できるように自分のオーラ(エネルギー)を整えていくことを主な目的としているからです。

そしてもちろん”真の愛”の本質である「存在意味の合一」と「絶対分離的尊重」を一切矛盾なく統合的に扱う(弁証法)こともエネルギーの世界では可能です。
このように”真の愛”の本質を「エネルギー的(直観的)」に解釈し、さらに実践することも可能そうだと言うことがわかりました。

世界はそれを愛と呼ばないかもしれないけど、らいおんはそれを愛と呼ぶことにしたんだぜ!

今回のこの発見は、「愛」の意味がよくわかず迷子状態の40代のオッサンである筆者にとって大変勇気の出るものでした。
もっと言うと、「ん?もしかして俺ってよゆーで人(と言うより宇宙全体)を愛せんじゃね??(てか、すでに愛してんじゃね??)」と勘違いしい気持ちでいっぱいになります(笑)。

とはいえ冒頭で述べたように筆者は過去生から持ってきている無意識のエネルギーを手放さなければ「愛」に対する「違和感」を拭い去ることはできません。したがって筆者の「愛」の探求の旅は今後も続くわけです。

そして上記で「エネルギー的(直観的)」に解釈し直した「愛」について「世界はそれを愛と呼ばないかもしれないけど、らいおん(筆者)はそれを(当面)愛と呼ぶことにしたいと思います。」

というわけで今回は「愛」の意味がよくわかず迷子状態の40代のオッサンが「愛」の意味を知り(勝手に意味づけたのですがw)、今後も「愛」の探求をしていこうと思いますと宣言するという世界のどこにも需要がないであろうお話でした(おしまい)

「あなたの魂の成長をサポートします」プロジェクト 始めました!
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<プログラムの詳細と申込フォーム>
以下のフォームに必要事項を記入して申し込んでください。
https://forms.gle/pzzv5WiNhUCCt92w7
その他、このプロジェクト立ち上げ経緯などは以下の記事もご覧ください。

*記事に記載した内容はあくまで個人の見解であり、記事に記載した団体等の公式見解ではありません


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