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『兎とよばれた女』part3/矢川澄子と2人の男【えるぶの語り場】

はじめに
突然ですが質問です。皆さんは「作家」と「作品」は「結び付けて考えるべき派」「切り離して考えるべき派」どちらでしょうか。
僕は断然、前者派なのですが文学を専門に研究しているソフィーはどちらかというと後者であると言っています。
個人の読書スタイルの問題ではあるので優劣をつけられる話ではないのですが、本書に関して言えば確実に「結び付けて考えるべき」ものだと考えています。
本書は矢川澄子という女性が愛した男性について語っている色が非常に濃く出ている作品です。
彼女がどんな男性を愛したのか、ということを知っておくことは本書をより楽しむためのスパイスとなってくると思います。
今回はある程度、矢川澄子について知っている人には退屈な記事かもしれませんが、彼女が愛した男性について触れながら対談をいたしました。

シュ:今回は「いまはむかし 神さまと兎の住む小さな島国の物語」という二章に該当する部分を読んできてもらったわけだけど、
この章では第一章「翼」に登場した男女は出てこなくて、一匹の兎と姿の見えない神さまとの共同生活が描かれていたよね。
僕は初見で読んだときに、話が急に変わりすぎて「なんだこれは!?」驚いたのを覚えている。

改めてこの章を読んだ感想としては「全体的にエロさが漂っていたな」というのが感想だったのだけど、ソフィーはどうだった?

:俺はこの章を読んだときにそんなに「なんだそれは!?」という感想はなかったんだよね。
というのも、事前にシュベールから矢川と澁澤の関係性について寓話として語られる本という前知識があったからというのがあったので、あくまでそういうメタファーとして読んでいたからというのが大きいと思う。

「エロティック」さというのは同感だったかな。
シュベールと同じでこの章を読んでそれはすごく感じた。
直接的な表現を避けながらも男女のひとつの愛のカタチとしてのセックスを描いていると思った。
でもセックスだけではなくて、澁澤と矢川の生活そのものを描いていると思うと、二人の関係は生活そのものがなんかサディスティックなものだったと想像できたな。

エロという概念はエロいこと以外にも見出せるものなのか、と気が付いたよ。面白い。

シュ:ありがとう。ちょっと話が脱線するのだけど、ソフィーは詩が好きじゃないですか。
というところで日本の詩人もある程度知っていると思って聞くのだけど、加藤郁乎という人は知っている?

:いや、知らないな。

シュ:そうか、まあそういう人間がいたのだけど。実はこの章は澁澤と矢川の生活を描いているのではなくて、加藤と矢川の生活を描いているんだよね。僕もそれを知ったときは衝撃を受けたのだけど。
その谷川という男は澁澤と矢川が離婚をする直接のきっかけになった男なんですよ。

この前提を知っているのと知らないのとでは、今後の物語の読み方そのものが変わってきてしまうんだよ。

:神さま=澁澤ではなかったのか。それは意外だったな。

シュ:うん。なので今後読み進める際には、二人の男がいたということを前提に読んでいただければと思う。

:その二人の男がいるというのが今後の物語に関わってくるの?

シュ:うーん。関わってはくるのだけど回収はされない感じかな?
あとね面白いのは、本書は澁澤と谷川が生きている間に発表されたということなんだよ。
どんな気持ちで二人の男たちはこの本を読んだのが気になる(笑)

:なんだろうな。この物語に限った話ではないのだけど「作家と作品の関係性」というのは常々考えさせられるんだよね。
前にも言ったかもしれないけど、俺は文学研究をしているから作家と作品は切り離して考える。
ただ、これは現代的な考えでそれを突き詰めて良いのか疑問は出てくるんだよね。

今日シュベールが話してくれた内容なんかは、作家の伝記を知っていることが物語を楽しむスパイスになるわけじゃないですか。
そういうことを考えると作家と作品を切り離す風潮というのは、どこまで正しいのか疑問には思ってしまうよね。

シュ:そうだよね。ロラン・バルトも「作家と作品は切り離して読むべきだ」と主張していたよね。
でも、どちらが正しいのかわからない。

:うん。どちらかに偏ると何かを見落としてしまうのは間違いないと思うな。

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